第9話 ゼノグラフト
年が明けた1月のある日、みぞれ雪が降りしきる金曜日の夜、私はその日の最後の授業が終了した後に新幹線で東京へと向かった。空港を利用したほうが速いのだが、この県の空港は東京行が1日3便しかなく、何よりこの季節では降雪のために欠航する可能性がある。ライバーとして仕事で行くからには確実な方法を取りたかった。
土曜日の日中はIRISのスタジオで公式企画であるクイズ番組の撮影、その日の夜にローリエ、コーテックス所属の田中咲、大亜ふらむとのコラボ配信、日曜日に帰るというスケジュールである。コラボ配信はコーテックス側の2人とはオンライン通話で行うが、私とローリエは彼女の家の名物である2セットの配信機材をフル活用して行う予定だ。4人でのゲーム配信となるため、展開上1セットだけでは不都合が生じてしまう。
私は窓際の自由席で前席に取り付けられたテーブル台にタブレットを置き、週明けに予定されている循環器内科試験の過去問と格闘していた。医学部の3年~4年ではいよいよ各種の疾患の病態生理、症状や診断、治療法について学ぶ。臨床医学全般、約25科目を一通り勉強していく。全てが必修であり、1科目でも落とすと留年だ。よって単位は有名無実である。
大学によって多少の違いはあるが、おおむね1日9~16時30分、週5日の授業で5科目ほどが並行して教授される。科目により授業の回数が異なるため試験の時期も自ずとバラバラになり、おおむね月2回程度の試験がある。試験が終わった科目のコマには、すぐに新しい科目の授業があてがわれる。
試験に落ちても1〜2回の再試験の機会があるが、当然再試験となれば再び勉強が必要で、その間にも他の授業は進み、その本試験の日程が容赦なく重複する。したがって試験を落とせば落とすほど厳しさは加速度的に増すことになる。しかし、今後のことを考えればこの程度で音を上げるわけにはいかなかった。
私はある心電図波形を見ながらそれを解説した授業を思い出していた。
『ブルガダ症候群』
妻が朝起きてみると隣で夫が亡くなっていた――。このような事例は昔からアジアを中心に報告され、「ぽっくり病」と呼ばれてきた。これを引き起こしうる特徴的な心電図波形が1992年に報告され、報告者の名前をとり「ブルガダ症候群」と名付けられた。今日では「ぽっくり病」の主な原因とみなされている。
この話を聞いたときはまさに背筋が凍る思いだった。自覚としては何の前兆も無く、健康だと思われていた人が死ぬ。ほんの30年前までは検査でも予見することは出来なかったのだ。文字通り心臓を誰かに掴まれたような感覚を覚えた。自分の心電図はどうだったか、入学時の心臓検診を確認したほどである。心電図を見ても資料のようなST変化は無く、私は胸をなでおろした。
心電図異常全てがリスクとなるわけではなく遺伝的な要因があり、自身に失神の経験があるか、血の繋がった家族の中に突然死、失神があったかどうかが非常に重要となる。直接の死因は致死性の不整脈「心室細動」であり、それが起きた時に対応できる「植込み型除細動器」が適応である――。
一通り終わったところで今度は耳にイヤホンを挿し、タブレットをしまって私用のスマートフォンで動画サイトにアクセスした。目的は明日の夜にコラボする予定の田中咲の配信である。新幹線はちょうど東京までの中間程度に達していた。
コーテックス1期生、田中咲。業界最大手の事務所の中でも人気上位に位置する彼女は、業界内で「天性の実況者」と呼ばれている。特にストーリー性のあるゲームにおいてはバーチャルライバーどころかゲーム実況界隈全体でも有数の人気を誇った。
噂によると、彼女はライバーになるまでは一切ビデオゲームをしたことが無いのだという。それが「天性」と呼ばれるゆえんだった。私でさえ家にゲームは無くとも紗良と遊んだ経験はあるのだから、これは類を見ないケースだ。
私はIRISのライバーについては常に話題にできるよう、あるいは凸待ち(ライバーが、自身の配信に他のライバーを呼び込んで雑談やゲームなどを行うという形式の配信)に対応できるようにアンテナを張り情報を集めていたが、それで手一杯で他の事務所のライバーには手が回っていなかった。彼女の配信を追うのはこれが初めてだ。
「田中」で検索した時点でもう彼女の名前が予測変換に出てくる。さすがはチャンネル登録者数90万人。それにしても、バーチャルライバーとしては異様に平凡な名前だ。今は検索してすぐ彼女の名前が出てくるが、黎明期にはフルネームでも彼女の配信が出てくるか怪しかっただろう。裏返せば、それが彼女の名前に頼らない実力を証明しているのだろうか。そんなことを思いつつ半分上の空で画面をクリックする。
「行けええええええええええええええええええええええ!」
危うくイヤホンを外すところだった。急いで音量を下げて、一呼吸おいて適切な音量に調節した。どうやらゲームのイベントシーンのようだ。主人公が覚醒して宿敵を迎え撃つところで彼女の熱のこもった叫びが聞こえる。
ゲームの名前は「ゼノグラフト」。かつて神により分かたれた2つの世界。その片割れにもう一つの世界の一部が突如
「――ここもすげーフィールドだな~。もう30分も歩き回ってんよ」
コメント
:寝落ちいいすか?
:↑お前よくこの声量で眠れるな
:お前いつも迷ってんな
:今いるとこから北西が近いよ
:さっきゅんって方角分かるんか?前に太陽は西から登るって言ってなかった?
「そこ、失礼な!ちゃんとコンパス見ながらならわかるから!……北西な、覚えたぞ。……ってなんじゃコイツ!?『百獣のマンティコア LV99』ってふざけんなよっ!」
コメント
:初見突破不可能の強敵
;ワザップw
:これでワザップにかかること通算486回目
「お前ら、覚えとけよ!」
初めの大声の印象が強かったが、次第に聞き入っていった。彼女は名前だけでなく外見もごく平凡で、黒のショートカットでブレザーの女子高生のアバターである。よく響く声質の持ち主で、リスナーとの漫才のような掛け合いは飽きさせない。一方のイベントシーンでは主人公が怒る時に怒り、落胆するときに落胆し、喜ぶときに喜び、リスナーまでその感情に引き寄せる。彼女の声には一つ一つに紛れもない感情が乗っている。演技だとすればこれは簡単ではない。
配信を説明する概要欄には初見プレイと書いてある。それであのリアクションが演技だとするとこれはいよいよ並の役者ではない。演劇で言えば台本をもらった瞬間、既に役に没入しているようなものだ。
ならば彼女は演技ではなく純粋にゲームを楽しんでいるのか。その場合、3年近くこうやって配信を続けていればどこかに倦みが生じてもおかしくないが、それも感じられない。
私は彼女の人気ぶりに得心しつつも、実況者としての実力の底知れなさを感じていた。続きを見たいところだったが、ここで新幹線は東京駅に到着となった。
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