虎落笛(7)

 十二月十六日、鳴海は針道村へ赴いた。この日は公休日であるが、朝早くから紋付袴を身につけ、髷を整えた。予定通り宗形家で、彦十郎家と三春の春山家の結納の取り交わしが行われるのである。

「それでは、行って参る」

 家格では劣る先方に気を遣い、鳴海は単身で針道に向かうつもりだった。既に前日、宗形家に人を遣わして結納の品を運ばせてあるので、後は鳴海が行くだけである。

「何卒、先方様によろしくお伝えくださいませ」

 玲子が深々と頭を下げた。

「婿殿の御尊顔を、楽しみにしております」

 鳴海は冗談めかして言うと、馬に跨った。どんよりとした雪雲から風花が舞っているものの、積もるほどの天候ではない。

 一刻もかからずに針道の宗形屋敷に着くと、既に春山家の者も到着していた。

「お初にお目に掛かります。それがし、三春家中の春山伝七郎と申します」

 若者がきびきびと口上を述べた。目元がやや涼し気な、賢そうな男である。那津の夫となる人物だ。春山家は郷士格の家柄と言うが、所作も無駄がなく、美しい。この男であれば、安心して那津を任せられるだろう。

「遠路御苦労でござった。大谷鳴海と申す」

 鳴海は、ゆったりと笑った。敢えて、番頭の名乗りは挙げなかった。

 三献を交わし、三宝に載せられた寿留女するめ長熨斗ながのし、末広などの縁起物を受け取ると、鳴海はやはり三宝に載せた水引を勧めた。水引の中には、春山家への袴料として幾ばくかの金銭が包んである。

 善蔵とその妻によってそれぞれが引き渡されると、結納の儀式は終了である。後は婚儀の日を待つばかりとなった。

 伝七郎はいわば鳴海の義弟になるわけだが、他藩の者故、今後どれほど那津の顔を見られるかは分からなかった。そこが、先に嫁いだ志津の場合とは違う。生意気な面もあるとは言え、那津もまた、幼い頃から鳴海によく懐いていた。口には出さねど、一抹の寂しさを覚えずにはいられない。

「大谷様。此度は誠に私のような者に那津様を娶せて下さり、恐悦至極にございます」

 固い口上を述べる未来の義弟の盃に、鳴海は笑いながら祝い酒を注いでやった。

「鳴海、で良い。これから伝七郎殿も我が身内になるのだから。それに、二本松は大谷の姓を持つ者が他にも大勢おる故、名で呼んでもらわぬと誰が誰やら分からなくなる」

 鳴海の言葉に、伝七郎が頬を緩めた。傍らで、媒酌人の善蔵も吹き出す。

「確かに、失礼ながら二本松では御名でお呼びにならないと、誰のことだか分からなくなりますな」

「であろう?」 

 鳴海は、いちいち指を折ってみせた。彦十郎家の他に、道を挟んだ向かい側の本家には、与兵衛、志摩、右門。彦十郎家には、名字を異にするが志津の実兄である衛守もいる。その他に分家が幾つもあるから、名で呼び習わしてもらわないと、当人も混乱するのだ。

 鳴海の気さくな振る舞いに安堵したのか、名残惜しそうにこちらを振り返りながら、伝七郎は三春への道を帰っていった。

 その姿が見えなくなると、鳴海はほっと息をついた。

「――いい若者ですな。あの様子ならば、那津とも上手くやっていけましょう」

 鳴海も、心底安堵した。さすがに、妙な男に義姪を嫁がせるのは嫌である。

 それまでにこにこしていた善蔵が、ふと真顔になった。

「そう言えば、鳴海様。現在の御身分は、名乗られなかったのですな」

 鳴海は、肩を竦めた。

「いずれは分かるであろうが、それがしが藩の重鎮と知れば先方が気を遣うと思うてな」

「なるほど……」

 鳴海なりの、春山家への気遣いである。

「ですが鳴海殿……。此度の御婚儀といい、番頭へのご出世といい……。慶事ではございますが、御手元は大丈夫なのでございますか?」

 鳴海は、顔を顰めた。

「嫌なことを申すな」

 本音を言えば、全然大丈夫ではない。大身の家にしては慎ましい嫁入り道具は、鳴海の番頭就任の祝い金から消えていった。城下の中屋への返済も、ようやく終わったばかりである。鳴海の預かり知らぬところでは、縫殿助もこの善蔵からも借りていたようであるし、彦十郎家全体では、一体いくらの借財が残っているものか、さすがに心配である。

「水府浪士らの動き次第では戦支度を命じられるかもしれぬと、新十郎殿とも先日話したばかりだ」

 なぜかこの善蔵の前では、鳴海は素に戻ってしまう。それだけ善蔵が魅力ある男でもあるのだが、一方で、衛守らから「注意しろ」と言われたのを忘れていたわけではなかった。

「であれば……」

 善蔵は、にっこりと無垢な笑みを浮かべた。

「やはり、それがしが胴元を務める講に入りませぬか?鳴海殿」

 来た。鳴海は、顔を引きつらせた。その様子を見て、善蔵は益々笑みを深める。

「今一度申し上げておきますが、ちゃんと配当は全員に回るように計画を組んでおります。だけでなく、手元不如意にも関わらず急に入り用になった場合には、積立の一部を取り崩して充てることもできますよ」

 ん?と鳴海は首を傾げた。以前に説明を聞いたときには半ば聞き流していた。あの時は一方的に貸し付けられるのかとばかり思っていたのだが、どうも違うようである。積立ということは、満期を迎えればきちんと鳴海の手元に還元されるということか。

 そればかりでなく複利式であるから、毎回受け取る金利の額は年々大きくなっていき、最終的には、最初に投資した額以上の金子が、手元に戻ってくる。

 善蔵の淀みない説明に、鳴海は次第に魅入られていった。今売り出しているのは二十口の講であり、そのうち十口は善蔵ら金主の分。五口は、勝手方のくじである。残り五口が並くじで、この並くじが、善蔵が鳴海に勧めているものだった。

「勝手方と申すと、もしや我が藩の勘定方も金を出しているのか?」

 鳴海の知らないところで、そのような取引が行われていたとは。何も、鳴海が引け目を感じることはないではないか。

「左様でございますよ。此度の積立の一部は、藩のお台所から出ております」

 善蔵は、笑顔を崩さない。その恵比寿のような笑みに気を付けなければと思いつつ、鳴海はつい懐から矢立を取り出してしまった。

「――一口の値段は?」

「二十両でございます。当家へ納めていただく会月は、以前にお話したのと同じ一と七、十一月とご承知おき下さいませ。此度は三年で満期となりますので、少しお安く致しました。満期を迎えたときに全てお返しいたします」

 すらすらと講の仕組みを説明する善蔵の手には、いつの間にか大福帳があった。覗き込むと、並くじの空欄は、あと一枠しか空いていない。その空白の右側にある最初の欄には、堂々たる筆跡で「丹羽丹波富教」の名が記されていた。

 まさか、あれほど贅沢な暮らしをひけらかしている丹波の名を、ここで見かけるとは。鳴海は可笑しみを押し殺しつつ、つい空白の欄に自分の名を書き入れてしまった。

「よろしゅうございました」

 善蔵は鳴海の署名を確認すると、大福帳を閉じた。

「では、質草をお預かりしましょう。何が宜しいですかな?」

 その言葉に、鳴海は目を剥いた。

「質を取るのか!?そのようなこと、申しておらなかったではないか!」

「何を申されます。人から金を借りる時に質草をお預かりするのは、世間の常識でございますよ」

 涼しげに答える善蔵は、小憎らしいほど落ち着いていた。

「鳴海殿も、番頭としての俸禄が上がりましたでしょう?これから物入りになることも多いでしょうが、懐に入ってくる御給金もそれなりに上がるはずです。なに、本当にお困りの際には質草をお返しいたしますので、ご心配は無用でございますよ」

 うっ、と鳴海は言葉に詰まった。そうは言うが、果たして善蔵は本当に返してくれるのか……。

「武士に二言はございますまいな?鳴海殿」

 留めの駄目押しをされ、まじまじと恵比寿神の如く無垢な笑顔を見つめながら、鳴海はこの男の真の恐ろしさを、身を以て思い知らされたのだった――。

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