虎落笛(5)

 源太左衛門が探索に出していた岡と味岡あじおかが城下に戻ってきたのは、年の瀬も押し迫った頃である。丁度今年度の扶持米が給付される日のことで、大広間には明るい空気が漂っていた。それにも関わらず、味岡は事成り行き上、予定を越えてはるばる江戸まで足を運んできたらしく、疲れた顔をしていた。

「両御仁とも、御苦労であった。後で、掛かった費用を勘定方に申し出られよ」

 源太左衛門が労いの言葉を掛けると、味岡が少し頭を下げた。

「して、上野こうずけなどでは水府浪士がしきりに出入りしているとの由だが、間違いないか」

「間違いございませぬ。桐生きりゅうの商人が嘆いておりました」

 味岡は、力強く肯いた。

 味岡が桐生で聴き込んできたところによると、幕府は物価騰貴の原因として庶民の生活奢侈しゃしを強調し、万事天保の改革の折の布達に倣って、質素倹約に務めるよう指示したというのである。天保の改革と言えば鳴海が子供の頃の話ではないかと、番頭の席で報告を聞いている鳴海ですら呆れる思いだった。時代錯誤にも程がある。

 そもそも桐生は、江戸の中頃から京の西陣の絹織物と張り合ってきたほどの絹織物の産地である。近年は開港により諸外国向けの絹織物を輸出することで、ますます顕著な発展を遂げてきた。その一方で、開港のために絹織物の原料となる生糸の価格が暴騰し、土地の生業である絹織物の生産にも支障をきたしているというのである。確かに二本松でも、最近では生糸を横浜へ回すことが多く、桐生に売りに行くのは稀であった。その方が生糸の生産地の利が上がるからなのだが、桐生では生糸と木綿の太物である柳川紬やながわつむぎまで、高騰しているのだという。

 それを知ったのが、藤田小四郎らに代表される水府浪士達だった。彼らは一旦は先の一橋慶喜の東下に従って帰府していたが、再度上洛して幕府の横暴さを朝廷に訴えようとする計画を持ち上げた。だが、水戸藩執政の一人である山国兵部にこの計画を訴えたところ、強く慰留されたのだという。だが、それに凝りずに彼らは江戸で新たに活動を開始した。

 彼らが立てた新たな計画とは、八月十八日の政変後に有栖川宮が攘夷監察使として東下する予定に乗じて、因幡(鳥取)・備前(岡山)両藩の有志数百名がこれに随従し、幕府に攘夷を迫ろうという計画であった。

「因幡や備前にまで同志を求めておるのか……」

 一学が、呆れたように呟いた。両藩の藩主が水戸藩出身だからその伝手を頼ろうという魂胆なのだろうが、荒唐無稽な計画にも聞こえる。

「それだけではございませぬ」

 報告する味岡の顔も、渋い。

 同じく藤田らは、武州にも足を伸ばして同志を募っていた。秋には江戸に出てきていた武州血洗島ちあらいじまの豪農である渋沢一族らと、二度に渡って会談したという。この渋沢一族の一人が、明治期に入ってから二本松の生糸産業にも間接的に関わる渋沢栄一なのだが、この頃はまだ、尊攘過激派の一人に過ぎなかった。栄一らは隣村にいた桃井可堂に弟子入りしていたが、同族の渋沢喜作や従兄弟の尾高兄弟らと共に天朝組(慷慨こうがい組)を結成し、変事の計画を立てていたのだという。計画の内容は、十一月に渋沢らが赤城山で挙兵して高崎城を占拠し、武器や資金を手に入れた後、直ちに横浜へ押し出して横浜の洋館を焼き討ちにしようというものだった。後に「天朝・慷慨組の変」と言われる陰謀だが、結局渋沢らが師と仰いでいた桃井が自首したことで陰謀が露呈し、計画は未遂に終わった。

「今は冬場故、蚕の時期も終わっておりますが、春蚕はるかいこの時期になれば、また水府の過激派らが騒ぎ出すかもしれませぬな」

 浅尾も、眉を顰めている。同席している郡代らの顔も一様に渋く、とりわけ和左衛門はそっぽを向いたままだ。それにしても、水府浪士らは随分と事を急いているものだと感じる。

「水戸藩では、何か手を打っておらぬのか?」

 源太左衛門は、岡の方に顔を向けた。

「今の味岡殿のお話の続きになりますが、藤田小四郎という者が、執政の一人である武田伊賀守様に攘夷実行を再度迫ったという噂が、水戸城下で流れておりました」

「武田伊賀守様か……」

 江口三郎右衛門が、呟いた。どうやら、知っている人物の名前のようである。

「確か、烈公家督の際にご尽力された御方であろう。烈公の遺志を継がんとしておると聞いたことがある」

「ふむ……」

 一学が、小さく吐息を漏らした。

 さすが、三郎右衛門も長く家老を務めているだけのことはあり、近隣他藩の主要人物の名は聞き知っているようだ。ちなみに烈公とは、水戸藩九代藩主の徳川斉昭のことである。

「水戸烈公の話は、今の我々には関係ありますまい」

 種橋が、苛立たしげに首を振った。

「ですが、種橋様。武田殿は今の水戸藩において最も人望のある御仁。武田殿と小四郎のお父上である東湖様は、肝胆相照らす仲だったと聞き及んでおります。武田殿が小四郎を戒めておらなかったら、もっと早くに水府から火の手が上がっていたことでしょう。烈公の御名は、水戸家中では神の如くの扱い。その神の信頼が厚かったのが、藤田東湖殿と武田伊賀守殿でござる」

 岡は、苦々しげに吐き捨てた。 

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