虎落笛(2)

 鳴海は善蔵を客間に招き入れると、一旦廊下に出て、りんに「茶は那津に運ばせよ」と小声で命じた。三春の春山家との縁談は既に決まっているが、まさか嫁となる娘の人や為りを知らないままの善蔵に、春山家との縁談を進めてもらうわけにはいかない。さらに、家人全員を呼んでくるように告げて、鳴海は客間へ戻った。

「失礼致します」

 りんよりもやや若々しい声が、襖の向こうから聞こえた。すっと襖が開けられると、那津が一礼して茶托に乗せた煎茶を善蔵の前に置いた。

「どうぞ、御遠慮なくお召し上がり下さいませ」

 客人への茶のもてなしは、普段はりんや玲子が行っている。那津の手は、緊張のためかやや震えていた。

「これが、義姪の那津です。那津、御挨拶せよ」

 鳴海が善蔵に那津を紹介すると、那津は再度頭を下げた。善蔵は、にこにこと目を細めて笑っている。

「那津と申します」

 緊張気味の那津に対し、善蔵は穏やかに話しかけた。

「お美しい御息女でございますな。きっと、春山家の伝七郎でんしちろう様とお似合いの夫婦になりましょう」

 善蔵がそう述べると、那津の頬にさっと赤みが差した。鳴海も那津の夫となる人物の名を聞き、目を細めた。

 善蔵によると、春山家はいくつか分家があるが、三春大町に居を構えるその家が本家であり、三春大町の顔役なのだという。伝七郎はその大町春山家の嫡子で、那津より少し年上の二十一だとのことだった。

「那津殿は、機織りなどをされますかな?」

 善蔵の言葉に、那津が顔を俯かせた。もう少し下流の武家の妻女であれば、内職として機織りも嗜んでいることもあるが、さすがに大身の彦十郎家ではそのような躾はしたことがなかった。那津は不器用者であるため、些か気が引けたのだろう。

「まあ……。そのようなことまでしなくてはならないのですか?」

 娘の苦労を思ってか、玲子が眉を顰めた。だが、鳴海は首を横に振った。

「春山家は郷士格の家柄とは申せ、那津は嫁に入る身。婚家の流儀に合わせるのが、道理でございましょう」

 鳴海の言葉に、「それもそうですわね」と、玲子が渋々と言った体で肯いた。その様子を見守っていた衛守は、

「那津。嫁入りの日まで上崎こうざき家に通って、アサに習えば良い」

と述べた。衛守と心を通わせているアサの上崎家は、大谷家よりかなり格下の家柄であり、家計を助けるためにアサが機織り仕事に精を出すこともあるのだという。アサも那津と馴染みがあり、アサが相手であれば那津も機織りを習うのに抵抗はなさそうである。

「婚儀の日までは、あと二月余りある。それまで、機織りの格好位はつくようにさせます」

 水山も、笑った。既に、両家の間で祝言は二月の立春と決められていた。

「何も京の西陣に卸そうというわけではないのです。そう悩まれますな」

 善蔵は、穏やかに那津を励ました。那津が再度頭を下げると、それを潮にりんや祖母の華は退席した。後に残ったのは、那津の親である水山夫妻と、鳴海、実兄の衛守である。

「あれで、嫁が務まりますかしら」

 心配半分、期待半分といった様子で、玲子がため息をついた。

「大丈夫でしょう。女人は、輿入れされる婚家に身の丈を合わせるのがお上手でございますから」

 さすがに、善蔵の言葉は如才がない。続けて、那津の嫁入り道具の打ち合わせを行った。婚礼家具は勿論のこと、機織りの道具や雛人形など、結構細々としたものも注文しなければならない。鳴海が番頭に就任して支給されるはずの俸禄米も大幅に増えたとは言え、かなりの出費になりそうである。婚礼家具は亀谷坂かめがいざかにある家具屋に、そして雛人形は善蔵の伝手を頼って、はるばる武蔵国の岩槻いわつきに注文を出してあった。娘のために岩槻人形を注文することを決めたのは、水山である。

「現在は本家の与兵衛様が京へ上られておるのですから、与兵衛様に京雛をお頼みしてもよろしかったのでは?那津は与兵衛様にも可愛がっていただきましたのに……」

 玲子は、まだぐずぐずと言っている。だが、水山は妻の言葉をいなした。

「与兵衛様が上洛されているのは、遊山ではないのだぞ。それにその噂が広まれば、今度は丹波様が黙っておるまい」

「義父上の申される通りでございます、義母上」

 鳴海は、水山の意見に賛成だった。此度の縁談は、元を正せば鳴海と善蔵が初めて顔を合わせた際の咄嗟の作り話から生まれた話である。あのときも丹波は彦十郎家の縁談にいやに興味を示し、鳴海を辟易させた。派手好きな丹波のことであるから、出方を間違えると彦十郎家の縁談にも口を挟みかねない。できれば丹波が差し出がましい真似をしないように、鳴海は上洛組が帰藩する前に那津を嫁がせたかったのである。

「お武家様も、大変でございますな」

 善蔵が、茶を啜りながら穏やかに笑った。そして、年が改まる前の鳴海の公休日に、鳴海が彦十郎家の当主として針道村に出向き、鍵屋の客間にて結納を行うことになった。媒酌人は、善蔵夫妻が務める。

 そろそろお暇せねばなりませぬな、と善蔵が腰を上げた。鳴海は久保町の大手門のところまで、善蔵を見送ることにした。

 善蔵は針道から連れてきた下人に馬の手綱を引かせつつ、しばし鳴海と並んで歩いた。

「――ところで、先程の岩槻人形の話でございますが」

 善蔵の言葉に、鳴海は眉を上げた。雛人形の上下の価値など、鳴海にはわからない。

「ついでですから、我が家の手代にも、岩槻で武蔵や上野の水府浪士らの情報を集めてくるよう、取り計らいますかな」

 鳴海は、ぎょっとした。なぜ、善蔵がそれを知っているのだろう。藩の上層部が水戸藩の動きについて探っているのは、藩の機密の一つであるはずなのに。

「そう訝しがることはございますまい、鳴海殿」

 善蔵が肩を竦めた。

「商人には商人の伝手がございます。既に我々の耳にも、関東各地で生糸問屋や大店が水府浪士らによって襲われ、押借りの被害を被っているとの話が届いておりますよ」

「まことか……」

 鳴海は、眉根を寄せた。だが善蔵は生糸の卸を生業としている者である。関東各地の生糸生産地の商人とも日頃から付き合いがあるために、その手の噂話は嫌でも善蔵の耳にも入ってくるのだった。

「岩槻は、あの辺りでも大きな宿場町でございます。各地から商人が集まって参りますから、うちの手代ののような不束者でも、何か鳴海殿のお役に立てる話を拾ってくるでしょう」

「然らば、お頼み申す」

 水府浪士らは、既に関東でも勢力を広げつつあるらしい。鳴海は素直に、善蔵の申し出を受け入れることにした。


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