西の変事(1)
江戸警衛組が帰藩してきたのは、五月二十八日のことだった。その一行の中には、りんの父である江口三郎右衛門や若手の番頭である種橋主馬介、そして小川平助の姿もあった。
「鳴海殿。りんは達者にしておりますかな」
久しぶりに殿中で会った三郎右衛門は、江戸での疲れも見せずに、にこやかに話しかけてきた。
「おかげさまで、家政のこともよく取り仕切ってくれております」
鳴海は、義父に軽く頭を下げた。実際、昨年志津が内藤家に嫁いだため、最近ではりんが玲子と相談しながら家政を取り仕切ることも多い。先の竹ノ内擬戦の後の宴も、宴席の仕出しの手配を行ってくれたのはりんだった。
左様ですか、と三郎右衛門は曖昧な笑みを浮かべた。
恐らくは、次の彦十郎家の跡継ぎについて一言肚に秘めているのだろうが、特に何も言わなかった。
三郎右衛門の後ろには、鳴海より一足先に番頭の座に就いた種橋主馬介がいる。
「我々の留守中に、鳴海殿も何やらご活躍だったご様子。江戸まで噂が聞こえてまいりました」
種橋は、にこやかに三郎右衛門と鳴海の会話に加わった。
「守山藩の三浦に一泡吹かせてやったのでしょう?」
種橋の言葉に、嫌味はなかった。守山を含む水戸藩の動きには、江戸詰めの者らも神経を尖らせているのだという。
「あれが解決と言えるかは、まだ判りかねまする」
鳴海は、言葉を濁した。守山藩の助郷の話は、まだ談判の最中であるらしいと、その後新十郎から聞いた。また、それよりも横浜鎖港の話の方が今は気になる。
それを告げると、三郎右衛門の顔が曇った。
「江戸の動向についてこれから御前にご報告しなければならぬと思うだけで、胃が痛みまする」
一同が江戸を出立してきたのは二十二日であるが、どうも幕政の方針がはっきりしないのだという。
そこへ長国公が姿を見せ、奥の間に座った。その直ぐ側には丹波が控えている。
鳴海も袴の裾を捌いて、自席に着いた。
「江口殿。長旅でお疲れであろうが、早速江戸の様子を伺いたい」
丹波が告げると、義父は軽く頭を下げて、江戸の状況を説明し始めた。
まず横浜鎖港についてであるが、京からの朝廷からの勅命伝達を受けて、幕府老中小笠原
当然、諸外国の公使はこれに反発した。だが、もっと不可思議なのは幕府の対応で、町奉行である井上直行に鎖港談判を命じておきながら、どうも口頭では「鎖港はあくまでも建前だ」と公使に説明していたらしいとの噂が、江戸では流れていたのだという。
三郎右衛門がそこまで説明すると、丹波が顔をしかめた。ただでさえ短気な丹波である。生糸は二本松藩の重要な交易品であり、現在藩の財源の一つでもあるから、丹波が苛立つのも無理はなかった。
「して、幕閣の方々は鎖港をするつもりがあるのかないのか、いずれでござる」
苛立ちを隠そうともせず、丹波は三郎右衛門を詰問した。
「それが、はきといたしませぬ」
説明をしている三郎右衛門自身も、この事態に苛立っているようだった。
口では京の朝廷の勢いに押されたか、「鎖港」を告げたものの、一行が江戸を発ってくる直前の十八日には、「十日に横浜鎖港」の予定を延期するとの通達が、永田町の藩邸にもたらされたのだという。いつまで延期するかという情報は、付されていなかった。
さらに本気で国政を考えているのかいないのか。将軍後見職であるはずの一橋慶喜、及び将軍目代(代理)に任じられている水戸藩主徳川慶篤が、そろってその役目の辞任を願い出ているとのことだった。
「水戸め……。これだから、信用ならぬ」
最早苛立ちを隠そうとせずに、丹波は手元の扇をぱしぱしと掌に打ち付けていた。丹波の言葉を聞いているはずの和左衛門も、やはり憮然とした面持ちで座っている。尊攘派の領袖となるはずの一橋慶喜らがのらりくらりと役目から逃げ回ろうとするのは、尊攘派の和左衛門からしても許しがたいのだろう。いつもであれば丹波の言葉に食って掛かるところであるが、今は慶喜・慶篤兄弟の振る舞いへの怒りの方が勝っているようである。
そもそも横浜鎖港となれば、その実行は将軍の名で行わければならない。だが、どのようなつもりなのか、朝廷側は何やかんやと理屈をつけて、将軍を江戸に帰そうとはしないのである。横浜鎖港は将軍の帰府から二十日後に行うと先に決められていたため、未だ鎖港が実行的されないという、奇妙なジレンマが生じていた。
「横浜のことは、なるようにしかなりますまい」
半ば諦め顔で、三郎右衛門は一旦言葉を切った。だが、まだ話し足りない素振りである。
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