針道の富豪(4)
黄山によると、江戸や水戸城下などの都市部では、横浜開港前と比較して穀類や豆類の価格が二割以上も上昇しているという。市中で買い暮らしの生活を送る者らは物価上昇に苦しんでいるが、逆に二本松の場合は都市部のための農産物を作っているわけである。農業が藩の主要な産業であるため、このような不況の折には銭に頼らなくとも、最低限の生活は確保できる。それだけでなく、生産物の価格の上昇は、そのまま藩の増収にもつながってくることもあり、一概に物価の上昇が悪いとばかりは言えない。
一昔前の安政地震や、度重なる不作。不作の裏には天候不順があり、鳴海ら大身の者ですら、扶持米を米問屋に持ち込んで一分銀などに変え、それで必要な武具を揃える一方で、家人らを養わなければならない。さらに、不作が続けば当然年貢の徴収もままならない。江戸などの大量消費地で売るための米は
さすがに頭痛がしてきて、鳴海はこめかみの辺りを揉んだ。尊攘派の懸念もわからなくはない。確かに、現在の経済の有様となったのは、開港が一つのきっかけには違いなかった。だが、経済の悪化の原因は、それだけとは考えられない。
「……難しいものだな」
すっかりぬるくなった茶が、喉に苦い。
幕府や和左衛門のような保守派は、「倹約」に励むことで懐具合を改善せよと言うが、度重なる天変地異を乗り切るには、それだけではどうにもならない。そもそもの収入を生み出す手段を工夫せねば、状況は改善されないのである。
それに加えて、海の向こうから聞こえてくる欧米諸国の強引なやり口。その問題と対峙するにしても、相手方の考えを知り、先手を取ることが肝要である。
「……外に向けた扉を閉めてしまえば、相手を知ることもまた叶わぬ。さすれば、己の身を守る最善の方法も生まれてこないであろうに」
鳴海の独白に、善蔵が眉を上げた。
「やはり、鳴海殿は面白きお人でございますな」
どうやら、善蔵の方でも鳴海を気に入ったようである。
「物の値段が上昇しているため、商人を目の敵にする御仁もおられるようですが、庶民の暮らしが苦しいというのは、国全体の一部の事象でございましょう。それが見通せぬようでは、この現状を乗り切ることはできますまい」
きっぱりと言い切る善蔵の言葉からは、己もまた二本松の藩政に寄与しているという自負が伺えた。
そこへ、一人の武士がすらりと襖を開けてずかずかと入ってきた。その顔を見るまでもなく、羽織の裾の文様が視界の隅に入り、鳴海は反射的に頭を下げた。このような派手な着物を着るのが許されているのは、家中では一人しかいない。
「これは御家老」
鳴海に続けて、黄山と善蔵も頭を下げた。入ってきたのは、何と丹波である。
「これは珍しい組み合わせであるな、大谷鳴海」
気安く話しかけないでほしい。そのような内心を押し殺し、鳴海は黙って更に頭を下げた。
「そなたも、黄山殿や善蔵殿に無心をしにきたか」
あまりにも悪意のない軽々しい口ぶりが、鳴海の勘に障った。薄々漏れ聞こえてはいたが、やはり丹波はあちこちから金を借りては、己の遊興の一部に回しているらしい。先程まで、丹波の経済政策の先見の明に半ば感心していたことでもあり、余計に腹立たしかった。
「決して、そのようなことはございませぬ」
きっぱりと言いきった鳴海だが、丹波はひらひらと手を振った。
「気にするでない。押し借りなどの無体を働くのでなければ、問題はないゆえな。どの藩士も、一つや二つの秘め事はあるものだ」
丹波なりの庇い立てのつもりかもしれないが、ちっとも慰めになっていない。
(御家老と一緒にしないで頂きたい)
内心の呟きが顔色に出ていたか、善蔵がちらりとこちらを見た。
「彦十郎家の御息女で、どなたか良い御方がおられぬかと思いましてな。僭越ながら私めが三春の春山家から縁組の御相談を持ちかけられておりました故、針道から出張って参りました」
そんな話は、先程までおくびにも出ていなかった。だが、善蔵の機転に咄嗟に鳴海も調子を合わせた。
「善蔵殿の仰る通りでございまする。先年志津を内藤四郎様に嫁がせましたが、次は那津の番かと思いましてな。父の喪が明けたら、本腰を入れて嫁ぎ先を探さねばなるまいと思っていたところでございました」
丹波に疑われないように愛想良く答える自分に、半ば嫌悪感を覚える。だが、丹波の機嫌を損ねれば、どのような災難が降りかかるかわからない。
「おお。確かに、彦十郎家にはまだ年頃の御息女がおったな。三春の春山家であれば、悪くない話だのう。儂からも、何か祝儀を贈らねばなるまい」
上機嫌にぺらぺらと喋る丹波に、鳴海は閉口した。丹波からの贈り物など、絶対にお断りである。が、言えるわけがない。
「……勿体なきお言葉でございまする」
ようやくそれだけを絞り出すと、鳴海は後ろに下がり、丹波に上席を譲った。そのまま、黄山に会釈をすると、目だけで意を伝えた。微かに黄山が肯いたのを見て、鳴海はほっとした。丹波の相手は、後は黄山に任せれば良い。
これにて失礼致しまする、と述べると、鳴海は会所の外へ出た。黄山や善蔵との談話は実りが多かった。これで最後に丹波と顔を合わせなければ、更に良かったのだが。
「……御家老が苦手なのですな」
背後でクツクツと笑い声を殺しているのは、先程まで一緒に茶を飲んでいた善蔵だった。年の功とでもいうのだろうか。咄嗟に鳴海と丹波の関係を見抜いたようである。
「無礼でござろう」
軽く睨むが、善蔵は笑顔を崩さなかった。
「いえ、武家の方々の人の子らしいところを見るのは、悪くはございませぬ。我々とて、武家の方々とは違う角度から二本松の御方や民を守る立場ゆえ」
やはり、この男は一筋縄ではいかない。この男の前で、殊更身分をひけらかしても恐らく無意味であろう。だが、確かに面白い人物である。
「彦十郎家の鳴海殿。これも御縁でございましょう。どうぞ、今後とも何卒よしなに」
亡父とあまり変わらない年頃の善蔵に改めて頭を下げられ、鳴海は慌てた。
「いや、こちらこそ先程は助かり申した。御家老の餌食になってはたまらぬ」
思わず出た鳴海の本音に、善蔵がぷっと吹き出した。
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