脱藩者(2)
「今しがた、郡山宿の検断今泉久三郎より、守山領の
鳴海は、血の気が上るのを感じた。かねてより、鳴海が「手合わせ」と称しながら様子を伺っていた相手である。他領に逃げ込んだということは、すなわち脱藩を意味した。
「あの馬鹿者!」
思わず駆け出そうとした鳴海の肩を、与兵衛が押さえつけた。その力は、歳の割に強い。
「新十郎。詳しく申せ」
報告を受けた丹波も、顔に血色を上らせている。芳之助の祖父である藤田三郎兵衛は、丹波の祖父である貴明がとりわけ目を掛けていた者だった。元は相馬中村藩の出であり、貴明の取りなしによって、従来より二本松藩にあった藤田八郎兵衛家の分家として、藤田三郎兵衛家が認められた経緯がある。芳之助の脱藩は、二本松藩に対して恩を仇で返したのも同然であった。しかも、駆け込んだ先が火種含みの水戸藩とつながりが深い、守山藩ときている。
かねてより、鳴海は芳之助の「剣術修行のために水戸表へ遊学したいので、丹波にとりなしてほしい」との嘆願を却下し続けてきた。芳之助が歳を取りすぎているというのが表向きの理由だったが、日頃の言動から、芳之助は祖父である藤田三郎兵衛の行動を
新十郎によると、遠乗りと称して郡山宿までふらりとやってきた芳之助は、そのまま阿武隈川の
現在芳之助は、欠け入り寺の一つである
他領の駆入寺に逃げ込まれた以上、現在の新十郎の地位では手出しできない。それなりの重職にある者が行かないと、引き渡してもらえないだろうというのである。
「大谷鳴海。新十郎と共に守山に行って参れ」
丹波が、厳しい声色で鳴海に命じた。
「承知」
丹波に言われるまでもなく、鳴海は自分が赴くつもりだった。かねてより芳之助を警戒していた鳴海の面目も、丸潰れだったからである。
城の片隅にある馬房から自分の馬を引き出すと、鳴海はそのまま騎上の人となった。このところ雨が少なく、怒りに任せて馬を疾走させるその足元には、もうもうと土埃が舞い上がった。新十郎も同じように、後から馬を駆けさせてくる。
「してやられましたな」
背後から馬で追ってくる新十郎の声にも、苦々しさが滲んでいる。郡代見習いの地位にある新十郎にとっても、脱藩者を出したというのは失点に違いなかった。
「あれは、以前から水戸に遊学させろといって聞かなかった。だが、急に思い立って水戸へと言い出したわけではあるまい。以前より唆していた者がいたはずだ」
鳴海の言葉に、新十郎が横に馬を並べて鳴海の顔を見た。
「それが、守山藩の手の者だったと?」
鳴海は肯いた。
「以前から、丹波様は勤皇派の様子を探られていた。水戸の天狗者らは、三春領にも随分と入り込んでいるらしい。三春に入り込んでいるのならば、二本松にも潜入させていると考えるのが自明」
新十郎の顔も、険しさを増した。
「先程、小書院の間から聞こえ漏れてきた三浦平八郎ですが、薩摩の尊皇派ともつながりがあると聞いたことがあります。悪名高い、月照や西郷吉之助とも、交わりがあるとの由」
鳴海は新十郎の言葉に、思わず手綱を引いて馬の歩みを止めた。
「それはまことか」
両名とも薩摩の倒幕思想の危険分子として、藩主である島津久光から処分命令が下されたという噂は、鳴海も耳にしたことがあった。そのような危険分子と、隣藩の高位にある者が関わりがあるとなれば、話は穏やかではない。
「やはり、丹波様から伺ったことがあります。丹波様は公にお供して何度か江戸に在府されていたこともお有りですからな。藩内では嫌われておりますが、あれで藩公への忠義心は篤く、藩に関わることの情報収集には熱心な御方ですから」
丹波に対する悪口は聞き流すことにして、切れ者と評判の新十郎の言葉は、鳴海にも納得がいくものだった。
「藤田も、とんでもない者に引っ掛かったものだ」
唇を引き結ぶと、鳴海は黙って再び馬を進めさせた。
やがて、前方に阿武隈川の大河が見えてきた。阿久津の渡しで船頭に船賃を払い、舟を出させた。舟の中から手綱を巧みに操り、嫌がる愛馬を宥めながら泳がせて向こう岸に上陸すると、二人は再び馬に跨り、安養寺の方へ馬首を向けた。そして、安養寺の門前には既に数名の兵士と、肩衣をつけた立派な風体の初老の男が待ち構えていた。
「あれが……?」
鳴海は、新十郎に尋ねた。新十郎が、肯く。
「守山藩の三浦平八郎殿と見受けました」
あらかじめ、二本松藩から追手が繰り出されるのは予想していたのだろう。ここで待ち構えていたことからしても、守山藩に芳之助を匿う意図があるのは明白だった。
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