わたしは

 わたしは教室のベランダに一脚だけ置いてあるイスに座っていた。真赤な嘘のような太陽が照りつけるグラウンドからは幻聴のような甲高い声が響く。クラスメイトたちが取り憑かれたみたいにひとつのボールをめがけて全力で駆ける。生々しい夏の始まりだった。

「一緒にサッカーしてきたら?」

 隣で先生が窓からわずかに身を乗り出していた。

 わたしはサッカーなんてしたくなかった。

「それとも見ているのが好きなの?」

 わたしはサッカーなんて見たくもなかった。

 交渉決裂のような沈黙が流れた。

「熱中症にならないようにちゃんと水を飲んでね」

 先生は肩をすくめたようにため息を漏らしてそう言うと、ひっそりと窓辺から離れた。そのあいだ、わたしは一瞬たりともグラウンドから目を離すことはなかった。

 彼がゴールを決めた。そして汗と砂に汚れたTシャツを引っ張りながら胸を目いっぱいに張り、青空の向こうまで届きそうな雄叫びをあげた。彼には拍手喝采に揺らぐスタジアム、四方から駆け寄るチームメイトとスタッフ、正面に構えるライブカメラ、すなわちこの世のすべてが見えていた。

 わたしは舌打ちをして教室に戻った。午後の授業が始まる五分前だった。


 わたしは自分の席のイスに座っていた。夏は晴天ばかりとは限らない。壊れた水洗便所のように大雨が降り続ける日もある。そんな日には、クラスメイトたちはグラウンドでボールを蹴り合うかわりに、わたしの前の席の机で消しゴムをぶつけ合った。

 全員が固唾をのんで見守っていた。彼はしゃがんで目線を机と同じ高さに合わせ、神経を研ぎ澄ませるように指を構えている。ぱちん、という音に遅れて、どよめきがあがった。ほとんど机の対角線ほどの距離を隔てた別の消しゴムに見事命中し、机の上には彼の指から放たれた消しゴムただひとつが残っていた。彼は自己効力感に満ちた甘い笑みを浮かべている。彼は堕ちてゆく敵機を通り越して、胸元に輝く勲章と伴侶の接吻まで見えていた。

「すごい」とわたしは思わず小さく声を漏らした。

 その声が届いたのか、あるいはたまたまなのか、凱旋する消しゴムを手に取った彼と一瞬だけ目が合った。わたしは見逃さなかった。その目には、驚愕と軽蔑と恐怖とを三原色の顔料として、無関心というメディウムで溶かして描いた抽象絵画が映っていた。

 わたしは時計を見た。午後の授業までは二十分近くもあった。わたしは席を立ってトイレに向かい、トイレの入り口を陣取って話に花を咲かせている彼女たちを視界の端で確認すると、そのまま踵を返して教室に戻った。再び自分の席についたとき、午後の授業まではいまだ二十分近くあった。


 わたしは窓際にある彼の席のすぐそばに立っていた。彼は壁と椅子との隙間に体をのめり込ませるように必死に身を引いて慄いている。夏休み前の最後の登校日だった。わたしの両手には包丁が握られていた。

 彼はなにかを話したそうに口をぱくぱくさせながら、声にならない不規則な息のかたまりを漏らしている。きゃーという悲鳴とがたごとという物と物とがぶつかり合う音がほぼ同時に左右から鳴り、瞬く間に教室中に伝播していった。新しい音楽の形だった。わたしは首を真横にしてうしろの様子をうかがった。蜘蛛の子を散らすように逃げるクラスメイトやその場で腰を抜かすクラスメイト。わたしはたまらなく嬉しかった。

 包丁を突き刺したとき、一気に力を込めたわりには少ししか刃が入らなかったし、大量の血が溢れ出したわりには彼はまだ目を見開いて唇を震わせていた。彼の目の中にはわたしが映っていた。わたしは笑ってみた。すると彼の瞳の中のわたしも笑った。

 わたしは歯を食いしばって腕全体に力を入れてゆっくりと包丁を奥まで差し込んだ。ほどなくして彼は動かなくなった。わたしは包丁から手を離して、教卓の上に座って教室を見渡した。さっきとは打って変わって教室は冬の朝のような静寂に包まれていた。

 大慌てで駆けつけた先生は彼を目の前にして大いに狼狽していた。

 「一緒に刺されなくてよかったね」とわたしが言った。

 先生は唖然とした顔でこちらを振り向いて、魑魅魍魎を見るような目つきでわたしを見ていた。

 「死なないように救急車を呼んでね」とわたしは先生の真似をしてみた。


 今日は午後の授業がない。明日は夏休み。わたしは自由だった。

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