第23話

「……ねぇ、エルウィン様。どうして愛し合っている者同士が、離ればなれにならなければならないのでしょうか。ジャックさんのことを応援したいと思うのは、私のわがままなのでしょうか……?」

 ――あの日の帰り道。夕陽に染まる石畳の上で、レティシアがふと漏らした言葉。傾きかけた陽に染まった、赤銅色の横顔。夕暮れに包まれた、風に揺れる柔らかな髪の毛。その表情は今にも消え入りそうなほど切なく、か細い光を灯していた。出会ったばかりの相手の恋を、心から応援しようとする彼女の姿。その無私の優しさに、僕は深い敬意を覚えると同時に、どうしようもなく羨ましく思って――。


 アカデミーで偶然にもジャックさんの恋人と出会ったこと。さらにその彼女から、偽りの恋人役を演じてほしいと提案されたこと。どうしてもただの偶然とは思えなかった。見えない糸に導かれるように、レティシアの想いが巡り巡って、僕をこの場所に立たせているのではないかとさえ感じられた。

 伯爵令嬢と庭園で言葉を交わした数日後。悩み抜いた末に、僕は彼女の提案を受け入れることに決めた。ただし、条件をいくつか提示して。

 一つ、僕たちはできる限り共に行動するが、「交際している」とは明言しないこと。

 一つ、グレゴリーには真実を知らせ、協力を仰ぐこと。

 一つ、期間は一年半とし、レティシアが入学する前にこの関係を必ず整理すること。

 条件を述べる僕を、デンバー伯爵令嬢は静かに見つめ、やがて唇を結んで頷いた。そして、代わりに彼女からも一つだけ願いが口にされた。

「もし父……デンバー伯爵が顔合わせを希望されたら、どうか応じていただきたいのです」

 その瞬間、胸の奥に冷たいものが落ちた。

 貴族同士の顔合わせは軽々しく応じられるものではない。表向きに認めるのと同義になりかねないからだ。断る理由はいくらでもあった。けれど、彼女の瞳は曇りひとつなく、真剣そのもので、引き下がるつもりはないと切に訴えていた。

 長い沈黙の後、僕は「友人として伺う」という条件を添えて、ようやく承諾した。


 ――そして作戦は動き出した。午前の講義は常に隣同士に座り、ランチは人目のある中庭のカフェで並んで食べた。休日も時間が合えば共に過ごした。けれど、二人きりの時間ばかりでは疑念を招く。そこで僕たちはあえてグレゴリーを巻き込み、三人での行動を基本とした。時折二人だけになることで、周囲に「やはり恋人同士ではないか」と思わせつつも、決定的な証拠は残さない。――そんな綱渡りのような日々だった。


 そんな生活の中、どれほど彼女と過ごす時間が増えようと、僕の心が向かう先はただ一人。


 僕は変わらず、レティシアへ手紙を送り続けた。アカデミーでの出来事、首都の様子、休日の過ごし方。便箋の余白を埋めるように綴るのは、彼女が少しでも僕を思い出せるようにという願いからだった。……時折、その手が止まってしまうこともあったけれど。罪悪感に胸を締めつけられ、それでも目を逸らして再びペンを走らせた。彼女への想いを紡ぐことだけが、僕に残された唯一の救いだったから。


 ――しかし、ある時を境に、彼女からの返信が途絶えた。


 最初は「忙しいのだろう」と気にも留めなかった。けれど一ヵ月、二ヵ月と過ぎていくうちに、僕はようやく現実を悟った。その瞬間、僕は自分でも驚くくらい動揺した。胸を抉るような衝撃に、呼吸さえ乱れた。彼女の身に何かあったのだろうか。病気か、事故か。領地は遠く、情報は一切届かない。その不安は日を追うごとに膨れ上がり、僕の心を掻き乱していった。


 そして間もなく、その原因は明らかとなった。


「おい、エルウィン。君とデンバー伯爵令嬢の関係が、東部でも噂になっているみたいだぞ?」

 ある日の夕刻。空き教室に飛び込んできたグレゴリーの声に、僕は思わず手を止めた。机の上に広げていた事業計画書の文字が、一瞬で霞んでいった。

「――え?」

 東部で、噂に?

 もしかして、レティシアは……。

 胸がざわめき、嫌な予感が全身を駆け巡った。

 僕と伯爵令嬢の噂が外部に漏れないよう、あれほど慎重を期してきたというのに。確かに貴族の令息令嬢は噂好きだ。けれど信用を損なうような不確かな話を、領地にまで広めるとは考えにくい。王立アカデミーでの噂は、あくまでもアカデミー内で留まるはずだったのに。

「大丈夫か、エルウィン?最近、婚約者からの手紙が途絶えているんだろう。……これが原因じゃないのか?」

「あ、うん……」

 胸の奥で鋭い痛みが走った。

 デンバー伯爵令嬢に協力するにあたり、僕は彼女とグレゴリーにだけ伝えていた。東部に婚約者がいることを。ただし、彼女の名前は明かさずに。

「けれど、なぜ君がそのことを?」

「今の恋人が東部出身でね。彼女には領地に従姉妹がいるらしいんだけど。その従姉妹によると、今東部の令嬢たちの間では、君とデンバー伯爵令嬢が恋仲だという噂で持ちきりだそうだ」

「そんな……どうして……」

 顔から血の気が引いていく。

 きっとレティシアも噂を耳にしたに違いない。僕が最も恐れていたこと――彼女が誤解すること。

 しかし、よりによって東部で噂が広まるなんて。僕の想定した全てが脆くも崩れ去っていった。

「……待ってくれ。なぜ東部だけなんだ?」

 ふと浮かんだ疑問。僕が顔を上げると、腕を組んだグレゴリーは険しい表情で頷いた。

「そうなんだ、他の地方では全く聞かないらしい。……これはあくまで推測だが、誰かが意図的に噂を流したのではないか?」

「誰かが……意図的に……?」

 胸の奥で不気味なざわめきが広がっていく。

 僕と伯爵令嬢の関係なんて、周囲にとっては些細なことのはず。それを誰かが狙って広めた――?

 疑念と混乱に飲まれながら、僕は必死に思考を巡らせた。そして、不意に一人の人物の顔が脳裏に浮かんだ。

「……まさか……」

「どうした?何か心当たりでも?」

「……すまない、グレゴリー。一つ頼みがある。彼女の従姉妹に確認してほしいんだ。僕とデンバー伯爵令嬢の件を、最初に話題にしたのは、誰だったのかを――」


 数週間後。

 グレゴリーは険しい面持ちで僕の部屋を訪れた。扉を閉める音が、やけに重く響いた。

「分かったよ、エルウィン。……君たちの件を最初に話題にしたお茶会を開いたのは――」

 彼の口から出た名前は、やはり僕の予想通りだった。

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