第11話
午後一番のハイビスカス棟。エントランスに足を踏み入れた私は、目の前の掲示板を見上げながら頭を抱えていた。
王立アカデミーで生活を送るようになり、はや二週間。初日は慌ただしかったものの、その後は特に大きな出来事もなく、穏やかな日々を過ごしていた。今日もネモフィラ棟で友人達と講義を受け、お昼には街でランチを楽しみ、午後は一人で次の講義に向かおうとしていたのだけれど……。
「……ペア学習」
エントランスには一般教養コースのアカデミー生向けに、大きな掲示板が設置されている。日々の予定や今後の行事など、様々な情報が貼り出されており、午後の講義に臨む前に確認するのが日課。ところが、いつものように目を通していた私は、ここで頭を悩ます貼り紙を見つけてしまった。
「はぁ……ペア学習なんて……」
――ペア学習。すなわち、二人一組で課題に取り組むこと。まさか入学して間もないこの時期に、こんな課題が出されるとは思ってもみなかった。一般教養コースではまだ友人と呼べる相手がいない私にとって、これはあまりにも厳しい試練。
とはいえ、嘆いてばかりもいられない。掲示板で今日の予定を確認した私は、気を取り直して教室へ向かうことにした。
教室に入ると、まずは席の確保。一般教養コースを選択する令嬢は少なく、教室内はほとんど男性ばかり。入学当初は好奇の視線や軽い冷やかしを受けることもあった。同じ講義を受ける令嬢と出席が重なれば、自然と隣同士に座るのが暗黙の了解だったけれど、今日はどうやら私一人らしい。できるだけ落ち着ける場所を見つけて、なんとか席に座ることができた。
着席すると、すぐに講義の準備に取りかかった。カバンから筆記用具を取り出し、長机の上に並べていると、不意に目の前が影に覆われた。誰かが立っている。気配を感じて顔を上げると、そこには私と同じ新入生の令息がいた。
「ごきげんよう、プライム嬢」
「……ごきげんよう」
目が合った瞬間、私は思わず顔を曇らせた。最近何かと私に関わろうとしてくる伯爵家の令息。彼の粘り気のある笑顔がどうにも苦手だった。
「今日も同じ講義だね」
「……そのようですね」
「そういえば君も見ただろう?ペア学習の件」
「……ええ。でも、それが何か?」
「いやなに、君のことだから、まだパートナーが決まっていないのではないかと思ってね。どうかな?ちょうど僕もまだパートナーを探していて。どうしてもと言うのならば、この僕と一緒に――」
せっかく有意義なランチタイムで気分良く過ごしていたというのに。午後になるなりペア学習や伯爵令息の申し出で、どんどん気分が落ちていく。彼は私が冷ややかな目を向けていることにも気づいていない様子。私は内心うんざりしながら深く溜息をついた。
それでも相手は伯爵令息で、私は子爵令嬢。爵位が下の私が無下に断るわけにもいかない。いくら王立アカデミーでは平等を重んじるとはいえ、それはあくまで建前。貴族社会に生きる者として、その現実は痛いほど理解している。公正な場面もあるが、そうでないことも多い。そしてこの場合、明らかに後者だった。
「……私は――」
困り果て、半ば諦めかけたその時だった。
「申し訳ないが、サリバン令息。プライム嬢のパートナーはすでに僕と決まっているんだ」
――穏やかでありながら、確固たる助け舟。その声を聞いた瞬間、伯爵令息の顔色がさっと青ざめていった。それだけで、この声の主がいかに権力を持つ人物なのかを思い知らされた。
「……あ……これはこれは……ブラームス様……」
先程まで流暢に語っていた伯爵令息の姿はどこへやら。助け舟の正体――エルウィン様の登場により、彼の全身はすっかり震え上がっていた。
「ごめんね、急に。二人の会話が聞こえてきたから、失礼を承知で割って入ったんだけれど……」
「い、いえいえ!僕の方こそ、まさかブラームス様とパートナーを組まれていたとはつゆ知らず!失礼いたしました!」
その後の彼の逃げ足の速さといったら。早口で謝罪の言葉を述べるなり、伯爵令息はあっという間にその場から姿を消してしまった。これから財産管理の講義があるというのに……本当に良いのかしら?
「……レティシア嬢」
台風のように去っていった彼の背中を残念な気持ちで見送っていると、不意にエルウィン様から声をかけられた。先程とは違う、落ち着いた声に導かれて、私はゆっくりと顔を上げた。
同じ一般教養コースの仲間となって以来、私は毎日エルウィン様と顔を合わせている。二年もの間ほとんど会っていなかったのに、入学を機に毎日彼と過ごすことになり、最初はぎこちない関係になるのではと危惧していた。けれど実際に過ごしてみると、二週間も経たないうちに穏やかな気持ちになり、彼がアカデミーに入学する前の感覚を思い出しつつあった。ただそれはあくまでも接し方の話であって、かつての愛情が戻ったわけでは決してないのだけれど。
「……ごめん。君と僕がパートナーだなんて、勝手なことを言ってしまって」
「……謝らないでください。むしろ私がお礼を申し上げるべきことです。ブラームス様のおかげで、彼の申し出を断ることができました。ありがとうございます」
「……そっか」
こうして素直に感謝の気持ちを伝えることも、今では自然とできるようになっていた。けれど私を見下ろすエルウィン様の表情にはどこか陰りがあり、今も少しだけ返答に間があった。
全てが元通りではない。それでも同じ生活圏で過ごしていく以上、私は今の彼を受け入れなければならない。本当はまだ胸が痛むけれど、それをあの頃と同じ無邪気な愛だとは思っていない。これはきっと、ただの過程なのだろう。愛が友愛へと変わっていく、ただの過程なのだと……。
「ところで。伯爵令息が言っていたことは本当なの?」
「……と仰いますと?」
「ペア学習のパートナーの件。まだ決まっていないの?」
「はい、先程掲示板で知ったばかりですから」
「ああ、そうか。新入生は知らないからね。この時期毎年のことだから、僕達は早々にパートナーを決めているんだ」
「それでは、ブラームス様はもうお決まりに?グレゴリー様ですか?」
「……グレゴリーとは組まないよ。彼は男の僕とは組んだりしないさ」
「あっ、なるほど……」
エルウィン様の作り笑いにつられ、私もまた微妙な笑みを浮かべてしまった。
この二週間で知ったことの一つ。ジャスミン様の兄であるグレゴリー様は、何と言えば良いのか、一言でいうと非常に女性好きな方だった。どうやら王立アカデミー入学前から首都では有名で、かなり浮名を流していたらしい。そういった面では硬派なジャスミン様とは正反対で、正直このことを知った時は驚きを隠せなかった。
「では、ブラームス様は別の方と?」
「いや、僕はまだ決まっていないよ。完全に出遅れてしまってね。なかなかパートナーが見つからないんだ」
「あら、あのブラームス様が?」
「そう、あの僕が!」
私がからかうように言うと、エルウィン様も調子を合わせて微笑んだ。私が笑うと彼が笑い、彼が笑うと私が笑う。それはまるで領地で過ごしていた頃のように。
アカデミー生活で気づいたことは多い。貴族社会の厳しさ、首都の華やかさ、そして古くからの友人の大切さ。一つ一つ挙げるときりがないけれど、その中でも特に気にかかるのはエルウィン様のことだった。
かつて領地では嫌というほど耳にした、彼と伯爵令嬢の恋愛話。王立アカデミーに入学してからも噂は続いたのだけれど、領地にいた頃とはどこか少し違っていた。あちらで聞かされたエルウィン様と伯爵令嬢の仲睦まじい話が、ここではなぜか情報が錯綜しているのだ。
エルウィン様とアメリア嬢が一年の時から恋人関係を続けているという噂もあれば、二人はすでに別れているという噂、そもそも初めからそのような関係ではないという噂。挙句の果てにはアメリア嬢の本命はグレゴリー様だという噂や、彼女にはエルウィン様ではない本当の恋人がいるという噂まであった。
一体どれが真実なのか。ここへ来てまだニ週間しか経っていない私にはまだ分からないけれど、一つ確かなことは、エルウィン様もアメリア嬢も一切噂について肯定も否定もされていないこと。それが噂を一層加熱させているのだけれど……。
「それじゃあ、一つ提案なんだけれど――」
別のことに気が向いていた私を、エルウィン様の言葉が引き戻した。慌てて彼を見ると、エルウィン様はにこやかな笑顔で私に持ちかけてきた。
「パートナーがいない者同士、一緒に課題に取り組まないかい?」
「えっ、私とですか?」
「ああ、もちろん」
屈託のない笑みで言い切るエルウィン様に、私は思わず目をパチクリさせた。けれど、心のどこかではこの展開を予想していたのかもしれない。彼の躊躇いのなさに驚きはしたものの、彼の提案はすんなりと胸に落ちたから。
「……そうですね。ブラームス様、どうぞよろしくお願いいたします」
断る選択肢もあった。それを選ばなかったのは、ただ自分の心の赴くままでいたかったから。私の心は彼の真実を知りたいと訴えている。私の知らない彼の二年間、まずはここから始めてみよう。彼の本心は未だに掴めないけれど、この手を取れば、何か一つくらいは見えてくるかもしれないから――。
「それじゃあ、まずは呼び方から変えてみようか?」
「え、呼び方……ですか?」
私がキョトンとした顔をすると、エルウィン様は「そう」と微笑んで、さも当たり前のように私の隣に座った。
「僕達はパートナーになったんだ。たからブラームスではなく、名前で呼んでほしい」
隣から覗き込んでくる彼の瞳は、柔らかくも真剣だった。確かにその目は私に訴えかけていた。以前のような二人の関係を望んでいる――と。
「だって、グレゴリーには名前呼びなのに、僕には他人行儀だなんておかしいだろう?」
口調はいつものように穏やかだった。――その裏に潜んでいる真意までもが同じとは限らないけれど。
私と目を合わせて微笑する彼は、果たして本当に私のよく知る彼なのか。思いも寄らない提案を呑んだ私は、そんなことを密かに考えながら、彼の熱視線にそっと微笑み返した。
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