第八話 不都合な真実

 危機対策チームの稼働が始まって以来、涼は連日の残業に追われていた。

 マクガフィンは少数精鋭の人材を採用するため、若手のうちから高給が約束されている。しかし、プロジェクトに参画すれば、長時間労働は避けられない。多くの社員は、世の中を動かすダイナミズムにやりがいを見出し、ハードワークに身を投じていた。

 涼もかつてはそうだった。だが、首藤の死、彼の手記との出会い、そしてポラリス2.0の構想――それらを知った今、果たして自分はこの会社に居続けるべきなのか。その疑問が、仕事に没頭しようとする彼の心に重くのしかかっていた。


 七月後半、雲ひとつない快晴の休日。

 涼は実家へと帰省していた。危機対策チームの動向を考えれば、お盆に休みが取れる見込みはなかったからだ。


 快速電車に揺られること約一時間半。車窓から見慣れた街並みが流れ去る。東京の喧騒を離れた郊外の風景は、穏やかで変わらないように見えたが、それでも細部は少しずつ変化している。駅前には新しい商業施設ができ、かつて自転車で駆け回った通学路は、整備されて少しだけ広くなっていた。


 墓地へと続く道を歩くにつれ、蝉の声が次第に強くなる。湿った夏の空気が肌にまとわりつき、遠くから草を刈る音が響いてくる。


 涼は、無機質な灰色の長方形が並ぶその場所で立ち止まった。


 目の前には、磨き上げられた墓石が静かに佇んでいる。指でそっと撫でると、滑らかな表面が指先に冷たく触れた。


「……親父」


 そう呟くと、胸の奥がわずかに痛んだ。墓石には、父の名前が刻まれている。


 生前の父の姿が脳裏に蘇る。涼の父親は、5年前に癌で他界した。生前は大手新聞社で社会部の記者として働いており、日夜色んな事件を追い続け、あまり家にはいなかった。


『人は、都合の悪い事実よりも、心地の良い嘘を信じる』


 ステージ4の癌が見つかり、仕事を早期退職してから、父親は涼にたびたびそのように語っていた。彼の父親には、後悔していることがあった。


 今から40年前、ある地方都市の一軒家で強盗殺人・放火事件が発生した。現場の家に住んでいた会社役員一家3人が殺害され、金品を奪われたのち、家屋は放火され全焼した。


 警察は、事件の発生からまもなく、この会社の元従業員である男を犯人として逮捕した。彼は取調べでは罪を認めていたものの、裁判では一貫して無罪を主張し、最高裁まで争われたが、最終的には死刑判決が確定する。


 この男は、死刑囚となってからも再審の請求を行いつづけ、幾度も棄却されたが、20年後、地裁が再審を認め、保釈されることになる。死刑囚が保釈されるのは異例のことだった。


 そして紆余曲折を経て、10年後に裁判のやり直しが決定し、なんと無罪判決が確定したのだ。現在も、この事件の真犯人は分かっていない。


 後から判明したことだが、警察は捜査の過程で、彼が犯人になるようシナリオを作り上げていた。あえて長時間の取調べを行なって精神と肉体を疲弊させ、警察は彼を自供させることに成功する。


 ただ、彼を死刑台に送るには、自供だけでは不十分だった。警察は証拠品の捏造を行い、確実に有罪を勝ち取れる状況を整えた。


 マスコミは、男が起訴される以前から、彼を世紀の極悪人として報道した。SNSもその流れに同調し、彼の家族は容赦ない人格攻撃に晒され、子供は自殺した。


 涼の父親も、当時新聞記者としてこの事件を追っていた。一部記者の間では男が無実なのではないかという憶測が出ていた。


 報道各社は、男に関するセンセーショナルな記事をこぞって発表しており、涼の父親が所属する新聞社も例外ではなかった。ところが彼は、有罪が確定していない以上、犯人とは断定できないとし、冤罪の可能性を示す記事を書こうとした。


 上司は「社の方針と違う」ことを理由にそれを認めず、涼の父親は仕方なく男を犯人と断定する記事を書かざるを得なかった。


 この事件以外にも、涼の父親はたびたび社の方針と衝突していたようで、退職する直前まで不本意な気持ちで仕事をしていたようだった。ただ、新聞記者は高給だったため、涼の家庭に経済的な不自由は無かった。


 墓前での短い祈りを終えた涼は、背を向けてゆっくりと歩き出した。

 

 墓地を囲む石畳の道を抜け、坂道を下る。降り注ぐ陽射しがアスファルトを焼き、靴底に熱が伝わってくる。遠くで蝉がけたたましく鳴いていた。夏の匂いが、汗ばむ肌にまとわりつく。

 

 ふと前方を見やると、懐かしい建物が視界に入った。新しく改装された校舎。明るいベージュ色の壁に、輝くガラス窓。低い鉄柵に囲まれた運動場の遊具も塗り替えられ、どこか眩しく感じられた。

 

 ——母校だ。

 

 涼は足を止め、小学校の門の前で立ち尽くした。

 

 時間の流れが校舎の表情を変えていた。夏休み期間のせいか、敷地内に人の姿はまばらで、子どもたちの笑い声はあまり聞こえなかった。

 

 校門越しに、涼は運動場をぼんやりと見つめた。そこは、かつて黒野辰起と駆け回った場所だった。

 

 黒野と涼は、家が近かったこともあり、小学校低学年までは仲が良かった。黒野は体が小さく、どちらかというと気の弱い性格だったが、物知りで話が面白かった。彼は休み時間になると、よく図書室で本を読んでいた。涼以外に友達はいないようだった。

 

 だが、小学校四年生のある日を境に、すべてが変わった。

 

 当時、黒野と同じクラスだった涼はそれを知っていた。その日、怖いことで有名な教師の授業中、黒野はトイレに行きたいことを言い出せなかった。そして、我慢しきれず、ついに教室で漏らしてしまった。

 

 教室内には、一瞬の静寂が訪れた。次の瞬間、誰かが笑い声を上げると、それはあっという間に教室全体へと広がった。

 

「黒野、やべぇ!」

「くせぇ!」

「うわ、近寄るなよ!」

 

 教師は厳しい表情で黒野をトイレへ連れて行ったが、それで終わりではなかった。翌日から、黒野はいじめの標的となった。

 

 しばらくして、クラスでは学級会が開かれ、「他人の嫌がることをした者は居残り掃除をする」というルールが決められた。学級会の場には担任の教師もおり、児童たちがクラスの自治に一生懸命取り組んでいるように見えただろう。少なくともこの時は——

 

 ある日、黒野がクラスメイトの落とした消しゴムを拾っただけで、「嫌がることをした」とみなされ、居残り掃除の対象にされた。しかし、黒野は掃除の時間になる前に鞄を持ち、逃げるように帰ってしまった。

 

 彼は何度も同じことを繰り返していたが、そのような逃げ得をクラスメイトたちが許しているはずもなかった。ついにある日、男子児童数人が彼を取り押さえ、無理やり教室に閉じ込めた。そして、抵抗する黒野に雑巾を握らせ、強制的に掃除をさせた。

 

 黒野の机にはいたずら書きがされ、給食の時間になると誰かが彼の牛乳を勝手に飲んだ。体育の時間には、ボールをぶつけられ、着替えの最中に服を隠された。宿題を忘れたことをクラス全員の前で嘲笑されたこともあった。


 不思議なことに、黒野が「A君に嫌がることをされた」と訴えかけても、A君は居残り掃除の対象にはならなかった。それは、このルールが黒野へのいじめを正当化ために作られたものであることを示していた。


 黒野が居残り掃除をしても、次の日にはまた些細な理由で告発され、彼は一週間のうち何回も居残り掃除をやっていた。

 

 ある日、帰り道で黒野とすれ違ったとき、彼の体操服が泥だらけになっているのを見た。おそらく誰かに押し倒されたのだろう。だが、彼は何も言わず、うつむいて歩いていた。

 

 ——俺は、何もできなかった。

 

 涼も最初は黒野を庇おうとした。しかし、いじめは学年全体に広がり、クラスで黒野を庇う者は一人もいなくなった。涼が話しかけるだけで、自分までからかわれるようになったし、何より自分が告発されて居残り掃除の対象になるのは御免だった。

 

 ——関わらない方がいい。

 

 そう思った。

 

 黒野と目が合うたび、申し訳なさが胸をよぎった。それでも、結局何もできず、距離を置くことしかできなかった。

 

 ある日、黒野は涼に向かって言った。

 

「よくも裏切ったな」

 

 黒野の声は小さかったが、はっきりとそう聞こえた。

 

 涼は何も言えず、その場を離れた。

 

 中学に進学しても、クラスのメンバーは大きくは変わらなかった。公立の学校だったため、ほとんどが小学校からの持ち上がりだった。そして、黒野へのいじめはより陰湿さを増した。直接的な暴力こそ減ったものの、勉強も運動もできず、内向的な黒野は完全に孤立し、誰も彼に話しかけようとしなかった。

 

 そして、決定的な出来事が起こった。

 

 ある日の昼休み、隣の教室から鋭い悲鳴が聞こえてきた。

 

 涼が教室を見に行くと、黒野が椅子を両手で握りしめ、立ち尽くしていた。

 

 彼の前では、一人の女子生徒が頭を押さえてうずくまっていた。彼女は、小学校四年生のときにクラスのリーダー的ポジションにいた優等生で、居残り掃除の提案をした張本人だった。

 

 教室中が静まり返った。

 

 黒野の肩が小刻みに震えていた。

 

「二度と口利けなくしてやる」

 

 黒野は不気味に呟きながら、もう一度椅子を振りかぶった。男子生徒数人と、駆けつけた男性教師が彼を押さえ付け、椅子が音を立てて床を転がった。

 

 その日を境に、黒野は学校に来なくなった。他の同級生から聞いた話では、彼は通信制高校に通い、引きこもっていたそうだ。

 

 校門の前で、涼はふと空を仰いだ。陽炎が揺れ、蝉の声が響く。

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