第四話 バタフライ効果
6月下旬。東京のビル群は薄暗い雲に覆われ、空は雨脚が強まる気配を見せていた。大手町の街路を覆う濡れたアスファルトは、ビルの明かりを鈍く反射し、通りを急ぐ人々の足音に混じって雨の滴る音が響いていた。道路脇の植え込みに溜まった雨水が、ゆっくりと排水口へと流れていく。
朝の通勤電車に乗り込む涼は、つり革に軽くつかまりながら、無表情で車内のディスプレイに映るニュースを眺めていた。"A県知事選挙、鬼塚元知事が再選"というテロップが流れると、画面は彼の満面の笑みを捉えた選挙会場の様子に切り替わる。歓声と拍手の中、支持者たちと握手を交わす鬼塚の姿が映る。
涼は目を細めながらも、特に感情を表に出さない。彼の周囲では、出勤前のニュースに見入る者や、スマートフォンでSNSをスクロールする乗客たちが立っている。車両が揺れるたび、視線はディスプレイから離れていき、何事もなかったかのように目的地へと向かう。
涼がオフィスに到着すると、上司の宮園が既にデスクで作業をしていた。窓際の会議室では、プロジェクトチームが数人集まり、今回の選挙戦を振り返る資料を確認しているようだ。雨がさらに強まったのか、窓に叩きつけられる水滴が不規則なリズムを刻んでいた。
宮園が振り返り、涼に微笑みかける。
「お疲れさま。鬼塚候補の当選、無事に決まったわね」
涼は軽く頷きながら椅子に腰を下ろした。宮園はスプレッドシートを開き、タブを切り替えながら続ける。
「ここまで世間の話題を集めた案件を対応したのは初めてだろうけど、正直言って成功よ。特に鬼塚知事に商店街と学校を視察させるキャンペーン、狙いどおりにテレビ局が取り上げて、イメージの挽回に繋がったわね」
「ありがとうございます。鬼塚知事が就任したあとも、次の案件が受注できそうですね」
「彼の代理人と話したけど、私たちに頼んで命拾いしたと言っていたわ。今後は危機管理コンサルティングを依頼する予定だそうよ」
「え、官公庁の案件って競争入札ですよね。今からそんなことわかるんですか?」
「向こうがうまくやってくれるみたい」
背後でコーヒーマシンが軽く唸りを上げ、事務的な音が室内に響いた。
夕方になり、外の雨は勢いを増していた。
通りを行き交う傘の群れは濃い霧に霞んで見え、街灯のオレンジ色の光が水滴の膜を通して滲んでいた。涼は少し早めにオフィスを後にし、雨音の中を家路へ急いでいた。
スマートフォンがポケットの中で振動し、画面に折原真依の名前が表示される。彼女からの電話は久々だった。
「もしもし、真依?」
「涼、今外にいるの?ニュース見た?」
真依の声は焦りを含んでいた。
「いや、まだ見てないけど…」
彼女の次の言葉に、涼は歩みを止めた。背後を通り過ぎる車の水しぶきがかかりそうになったが、気に留める余裕はなかった。
「おじさんが、首藤さんが、刺された」
涼は一瞬、真依が何を言っているのか分からなかった。その言葉に現実感がなかった。
通話の後、彼はすぐにスマートフォンでニュースをチェックした。首藤が刺されたというのは、本当らしい。降りしきる雨の音が、彼の胸の鼓動を早くした。
自宅のマンションに着くと、涼は部屋の明かりをつけずに薄暗い中、テレビのニュース画面を見つめていた。そこには朝の事件を報じるアナウンサーの姿が映っている。
『今朝未明、元市議会議員の首藤才助さん、65歳が自宅付近で倒れているのが見つかりました。首藤さんの体には多数の刺し傷があり、搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は、首藤さんが帰宅途中に何者かに刃物で刺されたとみて、捜査を進めています』
映像は現場周辺の様子を映し、警察官たちがテープを張る姿が流れた。傘を差した記者たちが集まり、インタビューを試みる様子が見え隠れする。アナウンサーの声は冷静そのものでありながら、背景に流れる映像はどこか現実味を欠いた。
涼はソファに深く座り込むと、無意識に膝の上で手を組んだ。窓の外からは雨音が微かに聞こえ、テレビの音声と交じり合う。首藤の穏やかな笑顔が画面に映し出されると、涼は一瞬まぶたを閉じた。そして次の瞬間、画面には"犯人像は不明"というテロップが映し出される。
テレビの明かりだけが部屋を照らし、暗い空間に淡い光の揺らぎを生み出していた。涼は画面越しの喧騒に耳を傾けながら、床を見つめていた。
翌日から数日間、涼は仕事に身が入らなかった。
デスクに座り、資料に目を通すものの、内容が頭に入ってこない。ふとした瞬間に、首藤の顔やニュースで見た現場の映像が頭をよぎり、気が散ってしまうのだった。
SNSでは異様な投稿が目立つようになっていた。「鬼塚知事は首藤に嵌められていた」「首藤は陰で悪事を働いていた」という内容が拡散される中、首藤への誹謗中傷や殺害を示唆する投稿も後を絶たなかった。多くの投稿は選挙期間中から行われており、アジテーターが手引きしていると思われたが、首藤のイメージダウンを仕掛けた自分たちにも責任の一端はあるのではないかと涼は考えていた。
中でも、涼の胸を締め付けたのは「市議会時代にサボってたから当然」という言説だった。あの会議で自分が意を唱えていれば、何か変えられたかもしれない——後悔が残っていた。
そんな中、涼は昼休憩中に新たなニュースを目にした。犯人とみられる50代の男は県内在住で、首藤の自宅から少し離れた雑木林で首を吊っているのが発見されたという。その男はSNSに複数のアカウントを持ち、首藤について、鬼塚を陥れる悪の元凶だと決めつける投稿を繰り返していた。
涼はその場に立ち尽くし、冷たい汗が背中を流れるのを感じた。
自分の仕事が、取り返しのつかない結果を招いてしまったような気がした。
その日の夕方、涼は岩村を訪ねた。情報戦略部の薄暗いデスクで岩村は、いつものようにパーカー姿でディスプレイに向かい、モニターには複雑なグラフやデータが並んでいた。
「岩村さん、少し時間をもらえますか?」
岩村が振り返り、「どうしたんです?」と椅子を回転させた。
涼は深く息を吸い込み、事件のことを伝えた上で、ポラリスのシミュレーションがこのような過激な行動を予測していたかを尋ねた。
岩村は眉間にシワを寄せながらデータを呼び出し、静かに答えた。
「確かに、選挙戦中に候補者への誹謗中傷や殺害予告を含む投稿は予測されていますね。ただ、主要素への影響度がきわめて低く、ノイズ扱いされている」
涼は拳を握りしめた。自分たちの計画がこの事件を招いたのではないか。自分なら止めれたのではないかと良心の呵責に苛まれていた。
「あの時、アジテーターへの対処を行い、首藤候補のイメージを落とすPRは止めるべきでした」
涼はデータを眺めながら、低い声でそう言った。
「白瀬さん。首藤候補が亡くなったのは気の毒ですが、これは私たちのPRとは無関係に発生した出来事です。他の選挙戦でも候補への殺害予告はよくありますし、対立候補のイメージを落とすのも作戦の一つです。今回は、偶然不幸な出来事が起きたと考えるべきでしょう」
その夜、涼は上司の宮園に相談した。静かな会議室で向かい合うと、涼は意気消沈した様子で口を開いた。
「我々の展開したPRの結果、第三者が傷つくことってあるんでしょうか」
宮園はしばらく黙って聞いていたが、やがて口を開いた。
「『ブラジルで1羽の蝶が羽ばたくと、テキサスで竜巻が起こる』という喩えを聞いたことはある?」
涼が無言で頷くのをみて、宮園は続ける。
「あらゆる物事は複雑に関連しあって、時に予期しない結果をもたらすことがあるわ。候補者が殺されるのはシミュレーションでは予測できない。もし、ビジネスにおいてあらゆる影響を考慮する必要があるなら、私たちの事業どころか、個人の一挙手一投足が、全く関係ない個人の死を招いている可能性も考慮しなければならない」
宮園は雨空が広がる外の景色を見つめながら、涼を諭した。彼はうつむきながらも小さく頷いた。
「白瀬くん、ショックなのは分かる。みんなプロジェクト休暇を取得してるから、あなたも少し休みなさい」
窓についた水滴のうち、いくつかが流れ落ちていった。
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