ミーム・ウォーズ(MEME WARS)
Aruto
第一話 マクガフィン
2050年5月、曇りの東京。灰色の高層ビル群が空高くそびえ、その手前には低層ビルが無数に連なり、通勤電車の窓から一瞬で過ぎ去っていく。
白瀬涼は、混み合う車内の隅でつり革を握りながら、ぼんやりと車窓越しの景色を眺めていた。ガラスに映る自分の顔には、昨夜の疲れがそのまま残っている。電車の揺れに合わせて体を支えながら、考え事をする時間がいつの間にか日常の一部となっていた。
車内のほとんどの乗客は、スマートデバイスに視線を落としている。老人も若者も、その指先は忙しなく動き、目の前に広がるデジタル空間に没入していた。
「次は、大手町です」
車内アナウンスが流れ、涼の社用スマートデバイスが振動した。画面には、上司からの簡潔なメッセージが表示されている。
『今日から新人の平賀くんがきます。早速、朝10時からの打ち合わせに参加させてください』
涼は「承知しました」とだけ返信し、社用デバイスで会議資料の確認をする。
涼は資料を眺めながら、プロジェクト開始時のことを思い出していた。
──この頃、A県の知事である鬼塚の不祥事が明るみになっていた。
朝のワイドショーでは、スタジオのモニターに鬼塚の顔写真が大きく映し出され、その周囲に赤い文字で「県職員へのパワハラ」「怒号と罵倒の県庁」といったテロップが踊っていた。司会者は深刻そうな表情で口を開く。
「これは本当に許されないことですよね。複数の県職員が精神的苦痛で休職に追い込まれていたというんですから」
隣に座るコメンテーターの女性が、資料を手に憤りを露わにした。
「明確なハラスメント行為です。しかも鬼塚知事は記者会見で『厳しい指導の範囲内』と主張していますが、内部告発の音声データを聞く限り、これは指導ではなく人格否定です。『お前は無能だ』『給料泥棒』といった暴言が日常的に飛び交っていた。被害者の中には自殺を図った職員もいるんですよ」
別のコメンテーター、中年の男性評論家が腕組みをしながら続ける。
「私が驚いたのは、鬼塚知事の開き直った態度ですよ。謝罪会見でも終始、『県政を改革するために必要な厳しさだった』と自分を正当化する発言ばかり。被害を受けた職員への謝罪の言葉が一切ない。反省の色が全く見えない。こういう人物が県政のトップにいたこと自体が、A県民にとって不幸だったと言わざるを得ません」
画面が切り替わり、街頭インタビューが流れる。A県の商店街を歩く高齢女性が顔をしかめながら答えていた。
「もう鬼塚さんには二度と政治に関わってほしくないですね。裏切られた気持ちです」
若い男性会社員も首を横に振る。
「クリーンな政治を掲げて当選したのに、結局こんなパワハラをしてたなんて。信じられないですよ」
テレビだけではなかった。新聞の一面には「恐怖の県庁」「暴君知事の実態」といった見出しが躍り、社説では「県職員への人権侵害」「リーダーとしての資質を欠く」といった厳しい言葉が並んでいた。週刊誌には、匿名の県職員たちの証言が詳細に掲載され、鬼塚が会議中に書類を投げつけた、深夜まで職員を叱責し続けた、といったエピソードが次々と明かされていた。
そしてSNS上では、さらに激しい言葉が飛び交っていた。涼は通勤中、スマートデバイスでトレンドワードを確認していた。「#鬼塚やめろ」「#パワハラ知事」というハッシュタグが上位を占めている。
タップして投稿を見ると、そこには怒りに満ちた言葉が次々と流れていた。
『鬼塚、お前のせいで何人の職員が心を壊されたと思ってんだよ。さっさと政治家辞めろ』
『こんな奴が知事だったとか恥ずかしすぎる。A県の恥さらし』
『謝罪会見見たけど全然反省してないよね。サイコパスかよ』
『被害者の職員のこと考えたら涙出てくる。二度と表に出てくるな』
『自分の部下をゴミみたいに扱っておいて県民のために働くとか笑わせるな』
鬼塚の過去の発言を切り取った動画には、「人でなし」「モラハラ野郎」といったコメントが何千と付けられ、彼の顔写真を加工した悪意あるミーム画像、そしてAIによって生成された虚偽の写真や動画が散見された。インプレッション数は瞬く間に数万を超え、批判の渦は日に日に大きくなっていった。
まるで、社会全体が一斉に彼を断罪しているかのようだった。
涼は、プロジェクト開始当初のことを思い出す。
──最初の打ち合わせは、貸し会議室を使って対面で行われた。涼もプロジェクトメンバーの一員として出席した。彼を含むメンバーは客先に出向くにふさわしい、スーツ姿できちんとした身だしなみをしていた。
相手側には三人の人物がいた。五十代半ばと思しき男性が中央に座り、その両脇に若い秘書らしき二人が控えている。中央の男性は紺のスーツに身を包み、落ち着いた物腰で涼たちを見渡していた。彼が今回のプロジェクトのクライアントである。
「皆さんもご存知のとおり、先日、県議会で不信任決議が可決され、鬼塚さんは失職しました。まもなく、A県の知事選挙が始まります。鬼塚さんは選挙で再選を目指しています。皆さんには、鬼塚さんが再選を果たせるよう、力添えをお願いしたい」
このプロジェクトは、パワハラによる不祥事を起こした県知事の再選を目指すものだった。
「われわれマクガフィンにお任せください。我が社は大手企業はもちろん、日本政府からも依頼を受け、様々な戦略PRプロジェクトを成功させてきた実績があります」
プロジェクトリーダーの
改札を抜け、人混みに紛れながら涼は会社へ向かった。前方に見えるのは、先進的で鋭利なデザインの超高層ビルである。雲に覆われた昼の光がそのフォルムを淡く鈍い銀色に染め、交差するフレームの幾何学模様をより際立たせている。晴れた日には鏡のように輝くガラスの外壁も、この曇り空の下ではどこか冷え冷えとした印象を与えている。
下から見上げれば、切り立った崖のような威圧感があるその巨大な建造物は、「大手町グランドタワー」と名付けられたオフィスビルであり、ここの40~42階にマクガフィンの本社が入居している。
涼がエントランスでIDカードをかざし、セキュリティゲートを抜けると、オフィスへ向かう人たちが列をなしており、奥にある4基ものエレベータが彼らを次々とビルの上層部へと運んでいった。
オフィスに到着すると、同僚たちはすでにデスクに向かっていた。ある者はSNSやweb上でのユーザの反応を分析しており、またある者は広告コンテンツの最終確認を行っている。
「白瀬さん」
涼が自席に座ると、一人の青年が涼に声をかけてきた。
「今日から配属された平賀です。よろしくお願いします」
「平賀くんか。打ち合わせまで30分くらい時間があるから、
「もちろんです。承知しました!」
彼が新人の平賀だった。涼は新人のメンターになるのは初めてだった。
平賀はノートPCを広げると、EIKONと呼ばれるアプリを立ち上げた。アプリの画面は非常に簡素で、文字を入力できるフォームが中央に配置されているのみだった。
彼はフォームに確認したい内容を打ち込むと、プロジェクトの概要や経緯の時系列、体制図などの情報が表示された。
「鬼塚元知事のイメージを改善する、それがこのプロジェクトの目的なんですね」
「そうだ。EIKONで世論の動きをシミュレーションした結果、最も費用対効果が良いのは、ソーシャルメディアを利用した鬼塚さんのイメージ改善だった」
「EIKONってすごいんですね」
「ああ、だが、EIKONの分析を鵜呑みにするのは危険だよ。専門チームと連携して分析の妥当性を検証したり、クライアントの要望に合わせて微調整するのが俺たちの役割だ」
EIKONは、マクガフィンが独自開発したAIのことである。社員なら誰もが使用でき、日常業務のアシストのみならず、デジタル空間から吸い上げた膨大な情報をもとに、世論のシミュレーションまで実施できるようになっている。
「やっぱり、AIを使う側も賢くないといけないんですね」
「そうだね。今や大企業の大半はAIを活用しているけど、うちはAIを使ったデータ分析サービスにルーツを持つ会社だから、特に賢いAIが作れるわけだ」
そうして、二人は社内の打ち合わせに参加するため、同じフロアにある会議スペースに入っていった。
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