第9話 対決
その時だった。一斉に、廊下の窓ガラスが割れて飛び散った。生徒たちはパニックになった。逃げ出すものもいたが、多くは少し距離をとって遠巻きに野田を見つている。
「お前だったんだな。許さん」
「許してくれ、まさか死んでしまうなんて思わなかったんだ。事故だったんだ」
「お前が突き飛ばさなければ、僕は生きていたんだ」
「殺そうとして突き飛ばしたんじゃない。許してくれ、岩倉」
生徒たちがざわざわし始めた。
その時、彼らの前に美緒と浩二が駆け付けた。
「信一さん、待って」
「兄さん、止めるんだ」
「うるさい。やっと犯人がわかったんだ」
振り返った信一は二人をにらみつけた。その瞬間、二人の体が後ろに吹き飛んだ。
信一は野田の首を掴むとその体を高く持ち上げた。
野田の体が宙に浮いた。野田が苦しそうに喉のあたりをかきむしっている。信一の姿が見えない生徒たちには吹き飛んだ二人と奇妙に宙に浮いた苦しむ野田の姿しか見えない。
あんなに動画を撮っている生徒がいたのに今は三~四人だけが撮影を続けている。
飛び散ったガラスでけがした女子達の泣声や我先に逃げ出そうとする生徒達で廊下は大騒ぎになっている。
「お兄ちゃん、そんなことしちゃだめだよ」
「何もわからなくなって、ここから動けなくなっちゃうよ」
信一の足に小さな男の子がしがみついていた。愛くるしい大きな瞳とサラサラの髪の幼児が小さな手で必死に信一を止めようとしている。
「だれだ、うるさい」
「あ、健太」
このままではいけない。美緒はとっさにどうすべきか考えた。
「お姉ちゃん、僕の事、覚えていてくれたんだね。ああ、このお兄ちゃんを止めないと」
美緒は力を振り絞って信一に近づこうとした。
その時右足に痛みが走った。倒れた拍子に足首を痛めたらしい。よろけた美緒は飛び散ったガラスの上に倒れ掛かる。
「お姉ちゃん、危ない」
健太の声が響いた。信一は美緒に気付いて振り返った。浩二も美緒に駆け寄った。そして美緒を抱きとめた。
「美緒ちゃん、ごめん」
信一はいつもの信一に戻っていた。
野田は肩で息をしながら地面に這いつくばって後ずさりしている。
「ちきしょう、大丈夫か」
信一も美緒のそばに来た。ひるんだ信一の様子を見て野田が攻撃的に言った。
「岩倉、お前が俺をからかうから、いけないんだ。」
「何を」
言いかけて信一は些細な事で野田をからかっていた事を思い出した。
いつものように二人の友人、秋山と小沢を引き連れて廊下を歩いている時だった。
たまたま下を向いて歩いていた野田の肩とぶつかった。一瞬、野田がびくついた表情をして首をすくめた。
「お、野田」
「すみません」
その時大あわてて謝る野田を見て信一はむらむらと怒りがこみ上げたのだ。
「おい、ちょっと来い」
その日、信一は野田を屋上に連れて行った。
始めは暇つぶしのような軽い気持ちだった。やがてパンを買いに行かせたりとまるで奴隷のように雑用をさせるようになった。それがやがて習慣のように日常的にそしてしだいに過激になっていった。
――よくないぞ。
信一はこれがいじめの始まりだと気づき始めた。だから三人と距離を置くことにした。信一が抜けても三人はいつも一緒に行動していた。一方、独りでいる信一の周りにはクラスの男子達が集まってきた。
「秋山たちが側にいるとなんとなく話しかけにくかったんだ」
「へえ、そうか」
「あいつら、なんとなく違うって感じなんだよ」
「目つきも怖いし」
「......」
「ふ~ん、そうかな」
信一はいつの間にかクラスの中心になっていった。
信一は気にも留めなかったが、信一の抜けた後の三人の関係はますます歪んだものになっていった。秋山と小沢の野田に対するいじめは激化していった。二人は気に入らないことがあるとサンドバッグ代わりに野田を殴るようになっていた。
野田もへらへら笑っていたから、それほど嫌がっているとは周りも気づかなかった。むしろ相手にされて喜んでいると思われていた。
――野田は嫌だったんだ。だけど、なんで俺が殺されなきゃいけないんだ。
「野田、おまえが恨むなら秋山と小沢だろう。」
「あの日の事がきっかけだった。あの日お前が屋上に連れ出さなければ、二人もあんな事を始めなかったんだ。その上、お前はグループから抜けて人気者になったじゃないか」
理不尽な境遇が野田の屈折した思いを募らせた。信一がクラスの人気者になったのも気にいらなかったらしい。あの日のことがきっかけで恨まれて命を落とすことになったと思うと信一は悔やまれた。
「ああ、あんな些細な事で恨まれることなんて。あんなことしなければ、因果応報ってことか」
信一は首を垂れた。両腕はだらんと力なく下がっている。後悔してうなだれている様はさっきまでの信一ではなかった。
「行こう。お兄ちゃん」
健太が信一の手を引いている。
「健太、信一さん」
美緒が二人に話しかけると二人は振り返った。
「やる方はたいしたことないと思っているけど、やられた方は忘れられないんだな」
「こんな簡単なことがわからなかったなんて。そうしてこの有様か。あんなことで突き飛ばされて死ぬなんて理不尽だと思ったが」
信一は自嘲気味に口の端を上げた。
「野田の方からすると......必然だったんだ。あの事故は」
信一は悲しげに美緒と浩二に微笑んで見せた。雨は上がってあたりは明るさを取り戻している。信一は健太とともに光の中に消えていった。
「健太と信一さん、行ってしまった」
「そうか、きっとこれでよかったんだ」
やっと、先生達がやってきた。生徒たちは口々にさっきまでの出来事を説明した。
「そんなことあるはずないだろう」
始めは信じなかった先生たちも色々な角度の動画を見て頭を抱えた。
やがて救急車が来て野田とパニックになった数人の生徒が運ばれていった。
浩二は美緒に手を貸して保健室にむかった。保健室にもけがをした生徒達がいて、けがの治療を受けていた。美緒は右足首に湿布をしてもらった。
「軽症のようだから今日はもう帰っていいわ。明日病院でちゃんと診てもらってね。その時は診断書も書いてもらって。学校で入っている保険の手続きがあるから」
保険の先生は手際よく応急処置をした後美緒に言った。二人は保健室を後にした。
「足は痛くない?歩くの大変じゃないかな。」
「大丈夫、歩けるわ。ガラスの上に倒れたらもっと大けがしてた。助けてくれてありがとう」
雨がおさまってあたりも明るさを取り戻していた。校庭の向こうの丘には虹がかかっている。柔らかい光の中で茂り始めた若葉の先には宝石の様に雨のしずくが光っている。雨上がりの澄んだ光の中で二人は黙って信一と健太が消えた方角を見つめた。雨上がりの虹が美しかった。
「まるで二人のためみたい。健太と信一さん、今頃あの虹を渡っているんじゃないかしら」
「うん、そうだね」
浩二も遠くの虹を見つめながらうなづいた。
浩二は美緒のカバンを持ってくれた。駅までの坂道を二人は並んで歩いている。
浩二がためらうように美緒に話しかけた。
「ところで、あの小さな男の子、健太って」
浩二の言葉が終わらないうちに美緒は早口で言った。
「健太は六年前に亡くなった弟なの」
「やっぱり、あの子が亡くなった弟さんだったんだ。健太君のおかげでひどいことにならなくて済んだ。ありがとう」
「......」
美緒は小さくうなづいた。
遠くを見るような目をしながら浩二は続けた。
「兄さんは自由になれたのかな。」
「ええ、きっと」
「家まで送るよ。けがしてるし、心配なんだ」
二人の最寄りの駅は同じだった。浩二の家は駅の南側、美緒は北側にある。
「同じ駅なのに今まで一度も気づかなかったのが不思議だな」
「本当に」
二人は黙ってただ電車に揺られていた。
改札を出てからも二人は黙って歩いた。
家の前に来ると美緒が快活に言った。
「ここで大丈夫です」
「うん。ここまで来れば、大丈夫だね。僕も失礼するよ」
「ありがとうございました。本当は一人で帰るのは少し心配だったんです」
浩二ははにかむように微笑んだ。そして呟くように言った。
「今頃、二人は一緒にいるのかな」
「......」
「じゃあ、また」
「本当にありがとうございました」
「お礼を言うのは僕の方さ。西原さん、本当にありがとう」
美緒は浩二が角を曲がって姿が見えなくなるまで見送った。あたりはすっかり暗くなっていた。
――遅くなった。みんな心配してるに違いない。怒られるかな。
玄関のドアになかなか手が伸びない。やっと玄関を開けるとと母と祖母があわてて飛び出してきた。
「大丈夫?さっき、健太の位牌が倒れたの。おばあちゃんと仏壇に手を合わせていたら、数珠も切れて」
――心配してくれてたんだ。
心配そうな瞳に見つめられて張りつめていた緊張の糸が切れたのか、思わず涙がこぼれた。
「もう大丈夫よ。健太が助けてくれたの」
そういって美緒は二人に微笑んだ。ポケットのお守り袋を握りしめ美緒は家族に感謝した。祖母は美緒の無事な姿を見て仏壇に手を合わせた。そしてお経を唱えた。
「健太」
その時母が声を上げた。
母の視線の先に健太がいた。死者はお盆だけでなく、その人の事を思ってお経を唱えるともどってくれるという。
健太は少し哀しそうな顔をしていた。
「ママ、パパとお姉ちゃんにやさしくして。みんなが仲良くしてくれないと僕、心配だよ」
「そうね、健太の言う通りね。ほら、もう心配ないから」
母は涙交じりでそういうと美緒を抱きしめた。その様子を見て健太は微笑んだ。
「僕、もうすぐもどってくるよ」
健太は弾んだ声で言った。
「もどって来るって?」
美緒の問いかけに答えるように健太は微笑んだ。そして明るい光に包まれていった。
「よかったね。健太はみんなの事が心配だったんだね」
「おばあちゃんにも見えたの」
祖母は微笑みながらゆっくり頷いた。そして美緒のお守りを見て言った。
「ほら、美緒この鈴覚えてる?美緒が小さい頃にもつけてたものよ」
「そう、おばあちゃんの子供の頃から代々私達を守ってくれた銀の鈴」
母はそういった後、続けた。
「おばあちゃんもママも死んだ人が見えたのよ。この銀の鈴は代々私達を守ってくれたの」
そういうと母は涙を拭きながら、美緒の手を取って言った。
「美緒、パパにも今日の健太が来てくれたこと、話してあげようね」
――そんな大切なものだったんだ。あの頃は小さかったから、大きな鈴と思っていたけれど、こんな小さな鈴だったんだ。そしてこの銀の鈴はちゃんと私を守ってくれた。
美緒は今日学校で起こったことを母と祖母に話し始めた。しばらくすると、父が飛び込んできた。
「美緒は大丈夫か。学校の事がニュースになってるぞ」
そのあわてた様子を見て三人は驚いた。
「こんなに早くどうしたの。会社は?」
母が微笑みながら言った。
「美緒が心配で、休みをもらったのさ。けがをしたのか」
「ちょっと足をひねっただけよ。大丈夫」
「そうか、そうか。よかった」
そういって父は微笑んだ。
「それじゃ、私は食事の支度にかかろうかね。二人はさっきの話を説明してあげるといい」
そう言って祖母は小走りに台所にむかった。二人の話を時折うなずきながら、父は静かに聞いていた。
「健太を思い出すから、家に帰るのがつらかった。逃げていたんだ。悪かった」
「いいえ、わかってあげなかった私が悪いわ」
「パパ、ママ。みんな自分の事でせいいっぱいだったのね」
「健太はもうすぐ会えるって言ってたわ」
「もうすぐ......」
父と母は見つめあった。
「もうすぐか。きっと会えるんだ」
三人は深くうなずくといつの間にか手を取り合っていた。そばでは祖母が微笑んでいた。
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