ぬるい麦茶

逆塔ボマー

1.

 そこそこ歩きやすい林の中を歩いていたら、急に視界が開けた。

 眩しさを感じて少年は目を細めた。


 膝までの丈もない草がまばらに生えるばかりの広場に、影を落とす白い建物。閉ざされた鎧戸から壁面から、白く塗られた木で出来た洋館。こんな田舎にこんなお洒落な、でも古風な建物があるなんて。

 建物からはこれも全て白く塗られた木で出来たデッキが張り出していて。少年が、この広場がその家にとっての庭であると認識するのと、そこに先客が居ることに気付くのとが、ほぼ同時だった。

「あらあら、どこから入ってきちゃったの?」

 透明感のある、という表現がぴったりな声だ、と少年は思った。デッキに置かれていた、これも白塗りの椅子とテーブル。同じくらいに真っ白なワンピースに身を包んだ、少年からみるとだいぶ年上のお姉さん。古ぼけた文庫本を閉じた拍子に、長い黒髪がさらりと揺れた。

「虫捕り?」

「うん」

 なるほど虫捕り網と虫籠を持っていれば、一目で分かるだろう。やけに白い肌が綺麗なお姉さんは、ちょっと困ったように首を傾げた。

「本当は、君のような子が入ってはいけない所なのよ。虫捕りなんてもってのほか」

 私有地だったのだろうか。少年はいぶかしむ。ここまでくる間に柵とかはなかったはずだけど。どこかに目印の杭くらいはあったのかもしれないが、気づけって言う方が無茶だ。不満そうな少年に、お姉さんはしかし、柔らかく微笑んだ。

「でもそうね……そういうことなら、今日は、貴方あなたをわたしの『お客さん』ということにしてしまいましょう」

「お客さん?」

「そう。今日だけは貴方あなたはわたしのお友達。それなら問題ないはずだわ。それとも、わたしなんかとは友達になりたくない?」

 ぶんぶんぶん。少年は首を振った。お姉さんは椅子に腰かけたまま、細い指を組み直した。

「そうね……あまり離れても危ないから、ここから見える範囲にして頂戴な。それなら、好きに虫を捕ってもらっても構わないわ」

 家主――あるいは家主の娘さん? の要請なら仕方ない。そう納得するだけの知性と倫理観が少年にもあった。背に浴びる視線に微妙な居心地の悪さを感じつつ、少年は何もない庭に面する林の中に踏み込んでいった。


 最初はお姉さんからの視線が気になってしまっていた少年だったが。

 こちらから白い影が見えていれば向こうからも見えているのだろう、と割り切れるようになってからは、虫捕りにかなり集中することが出来ていた。

 神社裏から繋がる林の中とはうってかわって、広場を挟んだ反対側の林は虫たちの宝庫だった。特に大振りな羽根を広げた蝶が多い。ナミアゲハチョウに、アオスジアゲハ。この辺の地域にも居てもいいものだったっけ? 図鑑でも見たことのない、色鮮やかなエメラルドグリーンの蝶もふわふわと浮かんでいる。

 しかもそのどれもが少年を恐れる気配がない。

 けれど……どれも捕まらない。そっと近づいて、網を構えて、振って、入った! と思って見ても、すり抜けたかのようにいつの間にか網の外に舞っている。

 いつまでたっても虫籠の中は空っぽで、少年は流石に疲労を覚え始めていた。

「今日はもう蝶はいいや。網もいいや」

 少年は作戦を変えることにした。ついでに荷物も持ち替え、標的も変える。

 蝶を追うついでにちらほらと見つけていた、木にしがみついている甲虫たち。生態を考えると、本来ならこの時間帯には少ないはずだが、こちらもやけに目に付く。樹液を求めて集まっているポイントのひとつに狙いを定めて、そーっと腕を伸ばす。

「よしっ!」

 一斉に甲虫たちが飛び立つ中、少年の手の中では一匹の大振りなクワガタが虚空に牙を鳴らしている。オオクワガタに似ているが、目の前にある突起がやけに長く伸びている。図鑑で見た覚えのない形だ。お父さんなら知っているだろうか。そんなことを考えながら、少年は唯一の戦利品を虫籠にいれる。


「何か捕まえられた?」

「うんっ。あの、虫捕り、ありがとうございました」

 庭のデッキの所にまで戻ってきた少年は、お姉さんの問いに元気よく答えて頭を下げた。手招かれるままに、さっきよりも近くまで距離を詰める。

 ふと、少年の鼻に、かすかな消毒液の匂いが届いた。お姉さんがまとっている匂いだった。少年は少しだけ寂しい気持ちになって、すぐにその理由に思い至った。おばあちゃん……いま遊びに来ている、まだまだ元気な、お父さんの方の『山のおばあちゃん』ではなく、お母さんの方の『海のおばあちゃん』。その最後の頃の記憶にある匂いだった。少年にとってそれは、ほのかに死を想起させる匂いだった。

「お姉さんは……」

「うん?」

「お姉さんは、なにしていたんですか?」

「なにって言われても……何度も読んだ本を読み返したり、君を見ていたり……あとは、そうね、『何もしない』をしていた、かな」

「なにもしない……ですか?」

「ちょっとね、身体が弱くって。大したことができないの」

 嘘だ、と少年は思った。身体が弱いなら、夏の真っ盛りに外になんているべきじゃない。都会よりはよっぽど涼しい『山のおばあちゃん』の田舎でも、日中はそれなりの暑さになる。どう考えてもクーラーの利いた部屋に居るべきだ。

 そこまで思って、少年はやっと気が付いた。

 お姉さんの額には、汗ひとつ浮かんでいない。

 改めて消毒液の匂いを意識する。体臭らしい体臭は、自分のものだけしかしない。

「あの」

「なあに?」

「また……ここに来てもいいですか。夏休みで、おばあちゃんちに来てるんです。この一週間、こっちに居るんです」

 少年は自分でもなんでそんなことを言い出したのか、よく分からなかった。ただ、微かに香る消毒液の匂いが、ここでお別れしてそれっきり、にしてはいけないような、そんな気分にさせていた。

 お姉さんは少しだけ困ったように眉を寄せた。

 少しだけ悩むようなそぶりを見せて、そして、口を開いた時には、少年の問いには答えていなかった。

「麦茶」

「えっ」

「麦茶……飲む?」

 お姉さんに指で差されて、少年はやっとその存在に気が付いた。いつの間に用意されていたのだろうか。お姉さんが肘をついているテーブルの上に、汗をかいているコップがふたつ。ひとつはお姉さんの手元にあって、中身が半分ほど減っている。もうひとつは少年に近い位置にあって、なみなみと茶色い麦茶が注がれている。氷は浮いていない。

「……いただきます」

 言われてみれば、喉はからからに渇いている。少年は少しだけ躊躇うと、頭を下げてコップを手に取り、口をつけた。

 おばあちゃんちで出てくるものと違って、キンキンに冷えてはいない。少しだけぬるい。前に井戸水を直に飲んだ時を思い出す、自然で弱いが心地よい、控えめな冷たさと、芳醇な麦の香り。

 素直に美味しい、と少年は思った。

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