3章 見てはいけないものを見ている(2)

「……地藤、ごめん、やっぱさっきのまだ痛い……?」

 火曜日、昼休みの教室で昼食を摂っていると、いっしょに食べている友人のひとりが両手を合わせながらそんなことを言ってきた。

「……え? いや……」

「だってなんかず~っと口数少ないしさあ、授業中指されたときもめずらしく答えられてなかったし……、ごめん、結構思いっきり当たったよな俺のボール……」

 朝イチの授業は体育で、種目はソフトボール。キャッチボール中にすっぽ抜けてしまったらしいこの友人の投げた球が、近くで同じく練習をしていた俺の脇腹に当たったのだ。

「だいじょうぶ、もう痛くもなんともないよ」

「そう? でも着替えのときチラッと見えたけど、痣みたいになってなかった?」

「…………そうかな。いや、たぶんなってないよ。見間違いだ」

「そう?」

 球の当たったところはなんともないし、痛みもない。だからこれは、嘘じゃない。

 すると、別の友人も口を開く。

「でもさ、たしかに地藤今日おかしくね? そもそも体育のときに球当たったのも、ぼーっとしてて気づいてなかったからって感じだったし」

「え、そうかな……ぼーっとしてた? なんかちょっとだるくてパッと動けなくて……」

 それで避けられなかったのだ。

 思えば今も、妙に体が疲れているような。体育の授業だけでこんなになったっけか……。

「……ねえ、ごめんアタシずっと気になってたんだけど、地藤くん顔赤くない?」

「草壁さん?」

 今度は、近くで女子グループで弁当を広げていた草壁さん(いっしょに園芸委員をしている子だ)が、くるりと体の向きを変えて話に入ってきた。

「え、まじ? 俺よくわかんねえかも」「女子って人の顔色がどうこうのやつ、すげえ気づくよな。……おーん? 言われてみれば?」

 男友だちふたりが、草壁さんの言葉を受けてまじまじとこちらの顔を覗き込む。

「いや赤いって! ちょいちょいちょいちょい、ちょっと失礼」

 席を立った草壁さんが、こちらに来て俺の額に手を当てて言った。

「……熱いって! これ熱あるよ!」




 ふらふらする。

 草壁さんの言う通りで、保健室で測ったところ見事に平熱を上回る数値。ただ、そこまで高くはなかったし、迎えに来てくれる人もいないので、早退して自分で帰ることに。

 したは、いいのだが。

「……まずい、熱上がってるなこれ」

 今朝、家を出たときは自覚できるほどの不調はなかった。学校でみんなに言われたときも「たしかにちょっと熱っぽいか?」と思った程度。しかし、ひとりで帰っている最中になって悪化してきた。

 とはいえ、自分でなんとかしなければ。

 ふらつく足取りで、帰り道の途中にあるドラッグストアに寄る。ここらでは特に大きな店で品揃えもいいので……ええっと、あー、品揃えのいい店じゃなきゃいけない理由ってあるか? ないか? わからん、とにかくでかい店の方がいい気がする。

 買うのは解熱剤と、あと、えー、スポドリとゼリー飲料と……あと、なんだ?

 ……ダメだ、どんどん思考が鈍くなってきているのがわかる。二、三度頭を振って、ため息ひとつ。そんなことをしてもやはり、ぼうっとした感覚は晴れなくて。


「……地藤さん?」


 その声を、最初は幻聴だと思った。

「奇遇ですね。お買い物ですか?」

「……雷原、さん?」

「はい。ここいいですよね、店舗おっきくて掃除道具の品揃えが……あら?」

 地雷系ファッションの彼女の手にあるカゴには、カビ掃除がどうのこうのの品が入っている。梅雨だもんな、そういうシーズンだ。

「地藤さん、顔色が……それに、そういえば平日のこの時間なのにどうして?」

「カビ掃除……俺もそろそろやらなきゃな……。それこそ雷原さんにお勧めしてもらった道具もあるから……」

「地藤さん?」

「え? あ、いえ、すみません……」

 俺いまなに喋ってた? 頭に浮かんだことがそのまま口から出てた気がする。雷原さんにはなにを聞かれていたんだ? いかんいかん。

「すみません、ちょっとぼーっとしていて……」

「……失礼します」

 サッと雷原さんは俺の額に手を当てて、その端整な顔を曇らせた。

「熱が……なるほど、早退されたんですね」

「……お恥ずかしいことに、すこし具合が」

 そういえば、まさに一昨日そんな話を彼女とした気がする。夜は冷えるから気をつけろとも言ってもらっていたのだが、まったく忠告を活かせなかった。

「だから、解熱剤とかスポドリとか、……あれ、雷原さんは平日なのになんで……」

「今日、創立記念日なんです。いえ、わたしのことより地藤さんです。……おうちの方は?」

「え? あー…………いや」

 熱で緩んだ口が余計なことを言いそうになったので、慌てて締め付ける。

「……今日は自分ひとりです」

「まぁ……」

 雷原さんの顔が曇る。心配で仕方ないと油性マジックでくっきり書いてあるみたいな表情だった。

 彼女がなんて言ってくれるか、もう想像がついた。

「その様子では、お家まで行くのも危ないのでは……。それに、風邪のときほど栄養のあるものを食べないと。……地藤さんっ、わたしもお家まで付き添います!」

「お気持ちはありがたいのですが、そんなわけには……」

「ス、ストーカーしていたような女を家にあげるのはたいへん抵抗あるでしょうが! その、変なことは一切しませんのでどうか!」

「い、いえ、そのような心配はまったくしていないのですが……、せっかく雷原さんがこの前わがままを言えたというのに……ええと、だから、ここで俺が世話を焼かれては、意味がないというか。そういうことをまた雷原さんにさせるのは……」

 またぼうっとしてきたが、気合いを入れて頭を回し、言葉を搾り出す。

「あー、その、せっかく成功し始めたダイエット中にケーキを食べてしまう的なダメさというか……」

 合ってるか? この表現。でも言わんとしていることは理解してもらえると思う。

「むむむ……そ、そう言われると……で、ですが…………」

 伝わったらしく、グッと考え込む雷原さん。

 俺としては、彼女の努力と成功をふいにしたくないのだ。……ここは、さっさと退散してしまうのがいいだろう。

「……ご心配くださったのはとても嬉しいです。ともあれ平気ですので、……風邪を伝染しても申し訳ないですし。……では」

 そう言って踵を返し、俺はその場を離れる。雷原さんの気持ちは嬉しいが、彼女に迷惑をかけたくない。

 解熱剤と適当にゼリー飲料をいくつか。あとスポドリ。こんなもんだろう。それらの入ったカゴを手にレジへ行き、会計を済まして店を出る――


「……チートデイッ!」


 タイミングで、そんな声と同時にグッと腕を掴まれた。

「雷原さん?」

「チートデイ、です!」

 ……チートデイ?

 ってなんだったか。聞いたことあるような。

「食事制限をするときには、節制ばかりしていると体の基礎代謝が落ちて逆に痩せにくくなってしまうので、好きに食べていい日を設けるんですっ!」

 あー、そうだ、なんかそういうのだ。

 アスリートの妹さんたちのお世話をしていた雷原さんだから、そのあたり詳しいのだろうか。

「それと! 同じような感じで! 今日はチートデイということでいかがでしょうか! 今日のわたしはお世話し放題ということで!」

「い、いやそれは…………」

 強引な喩えでは、と思ったものの、そもそもダイエットに喩えたのは俺の方か。

「……しかし、そのように甘えるわけには…………う」

 まずい、いいかげん本格的に熱が上がってきている気がする。クラッときて、フラッと体が傾ぐ。

「……問答無用です! 離れませんので!」

「ら、雷原さん……」

 俺の体を支えてくれた彼女は、そのままこちらの肩に手を回す。

「さあ行きましょう。……えー、その、地藤さんのお家の位置はわかっていますので……」

 ああそうか、こちらのことを観察してた時期に俺の家の場所も知ったのか。バツが悪そうである。

 そして否応なしに意識してしまうが、彼女の体は温かく、女性らしい起伏に満ちて柔らかで……――そして、体幹がしっかりしている。

 支えてもらっていて安定感がすごいし、熱でふらつくこの体では(もちろんやらないが)振り払うのも無理な気が。

 スポーツなどしていなくてこれなのだから、身体的才能の豊かさを感じる。

「才能があるのは、いいことですね……」

「え?」

「あ、いや……」

 ダメだ、本格的に熱で制御が利いていない。考えたことをそのまま口走ってしまう。

 才能があるのはいいことなのだ、羨ましい……いや、だから、じゃなくて。

 これ以上変なことを言わなければいいのだが……。

 そして今更だけど、看病の手間をかけてしまうのは既定路線か。

「……すみません、ご迷惑を」

「あら、わたしがこういうの迷惑だなんて思わないタイプだって、地藤さんはよく知っているはずでしょう?」

 そう言われてしまうと、返す言葉はたしかになかった。




 古びた公営団地の五階の一室。それが俺の住んでいる場所だ。入居条件がいくつかある代わりに、2LDKの間取りとは思えないほど家賃が安い。

「お昼ご飯は食べられましたか?」

「そういえば全然……」

 いよいよ視界が揺れている俺は現在、ベッドの上にいる。

 なにをするにも体がだるくて、雷原さんと話しながら上半身を起こしておくのも限界になって、バタンと完全に横たわる。

 頭が熱いのに寒気がする……と思っていたら、雷原さんが毛布をかけてくれた。

 ポンポンと優しく毛布の上を叩く彼女の仕草を、ぼうっと見る。誰かにこんな風にしてもらった記憶が、頭の中をいくら掘り返しても出てこなかった。

「お薬飲む前に、なにかお腹に入れた方がいいですね。キッチンと食材、使ってしまってもいいですか?」

「すみません……あとで必ずお礼を……」

「もう地藤さんからはたくさんいただいていますよ、わたし」

 柔らかさという概念そのもので出来上がっているような声で雷原さんはそう言って、俺の寝室を出ていった。

 やがて、キッチンの方から音が聞こえる。自分が寝ていて誰かが料理を作ってくれている、そんな状況、最後がいつだったかも思い出せない。

「……あー」

 しっかりしろ。熱があるからってグダグダするな。

 ちゃんとしなきゃ。ちゃんとしろ。

 なにをしたって才能のない俺は、せめていついかなるときでもちゃんとしていなければ、生きていけないのだから。


「お待たせしました~」

 作ったシンプルな卵粥を手に地藤さんの寝室へ入ると、彼はゆっくりと上半身を起き上がらせた。

「すみません……」

 いつもより格段に緩いその口調が、調子の悪さを感じさせる。

「いえいえ。ゆっくりでいいので、がんばって食べていただけると」

 お昼もほとんど摂れていないという話なので、薬を飲むことも考えると、すこしでもお腹には入れてほしい。

「はい……もちろん……お手を煩わせておいて残すようなことは……」

「そんなことは気にしないでください」

 彼らしい言葉だなと思うけれど、こういうときくらい気を張らないでほしい。

 ……甘えることの練習に付き合ってもらっているけれど、この人自身はどうなのだろう。たとえば家族にだったら、地藤さんも甘えるものなのかな。

 一人暮らし、じゃないのよね? 間取り的にご家族と住んではいるはず。

「さ、どうぞ」

 れんげに一口掬って差し出すと、ぼうっとそれを数秒見てから、地藤さんは首を横に振った。

「いえ、さすがにそこまでしていただくわけには……」

「え? あ、……す、すみません、つい……!」

 ……恋人でもない同年代の異性がやるのは、なるほど、よくないのか!

 家族の看病ではいつもやっていたものだから、なんの疑問も持たなかった……。

「いえ……お心遣いは……たいへん……」

 緩い口調で言いながら器とれんげをわたしから受け取って、ゆっくりと食べ始める地藤さん。

「美味しい……」

「ほんとうですか、よかった」

「ありがとう、ございます……」

 言いながら、でも食器を操る地藤さんの手の動きはすこし危なっかしい。体もだるそうだし……。

 …………あ~~~~~~~、こんなに辛そうな姿を前に、なんでボケッと見ているんだろうわたし。意味がわからない、この両手はなんのためについてるの?

 食べさせてあげたい、食べさせてあげたい、食べさせてあげたい、食べさせてあげたい、食べさせてあげたい。

 ……そんなにダメなことなのかな。あーんってするの。

 病気で辛い人に自分でご飯を食べさせることと比べて、そんなにいけないことかしら。正義はどちらにありますか? う~~~~~~ん。

「あ……」

 不意に、地藤さんの手かられんげが落ちた。くるりと舞うそれを、わたしは右手を閃かせて空中でキャッチ。

「すみません……ありがとうございます」

「…………今日は」

「え……?」

「チートデイ、なのでっ」

 彼の手に、わたしはれんげを返さない。

 器も奪って、お粥を掬って、『あーん』の体勢を取ってしまった。

「ら、雷原さん……」

「…………」

「あの……」

「…………」

 パクパクと何度か口を開け閉てする地藤さんだが、やがてこちらの無言の圧に屈してくれたのか、差し出されたれんげにパクリと口をつけた。

 お粥を掬っては差し出し、それを彼が食べる。無言のまま、そんな時間が過ぎていく。

 れんげに口をつけるたび、彼の前髪が無防備にサラリと揺れる。その奥にある、熱でぼうっと焦点の緩んだ瞳と併せ、それはどこかあどけなさを感じさせた。

 普段のしっかりした彼とは――普段がしっかりしている彼だからこそ、カードの裏表を思わせる姿で。

 ……じわり、と自分の背中に汗が浮くのがわかった。

 わたしが彼の口にお粥を運び、彼はそれを咀嚼して飲み込む。その繰り返しの時間が過ぎていく。

 なんか、これ。

 見てはいけないものを見ているような気持ちになる。してはいけないことをしているような気持ちになる。

「……っ」

 無意識に自分の喉が生唾を飲み込んだ、そんな瞬間だった。

「…………地藤さん?」

「…………」

「地藤さん、え……、あの、ど、どこか痛いですか? それともなにかっ」

「……え?」


 わたしは、初めて見た――子どもじゃない『男性』が泣くのを、人生で初めて目の前で。


「……?」

 地藤さんはきょとんとした顔。そんな彼の瞳からは、ポロポロと涙がこぼれ落ちている。止まらない。

 気づいて、ないんだ。自分が泣いていることに。

 それは、すごくアンバランスで。

「……雷原さん? どうしました?」

 見ていられないくらいに切なくて、目を離せるわけがないくらい危うくて。

「あれ? ……これ」

 ポタリとその手に涙が降り立って、そこで彼はようやく事態に気がつく。

「……? なんで…………? ……?」

 自分が泣いていることがわかっていなかった地藤さんは、今度は、自分が泣いている理由をわかっていないようだった。

 痛みに顔を曇らせることも、悲しみに声を震わせることもなく、ただ涙ばかりを落としていく。

「すみません、……はは、熱で涙腺おかしくなったのかな……」

 何度かまばたきをしながら、苦笑を浮かべて目元を拭う地藤さん。

「なにやってんだろ、……ちゃんとしてなきゃいけないのに」

 ぽつりとつぶやかれた言葉は、ゾッとするほど表面が冷たかった。

 頭で考える理屈ではなく、お腹の奥の方にあるなにかが告げる直感が、わたしに教える。

 地藤さんは、すごく大人で、しっかりしていて、がんばり屋で。

 でも、この人はもしかしてほんとうは。

 ほんとうは。

 ――ゴクリともう一度、わたしの喉が鳴った。

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