15
悠一は窓から入り込んでくる白々しい朝日で目を覚ました。カーテンを閉め忘れて寝てしまったのだと気づく。顔を顰めて窓の外を見た。昨日の豪雨が嘘のように空は青かった。梅雨時には珍しい、雲一つない快晴だ。雀の鳴き声が聞こえた。
昨日、悠一は濡れ鼠になって家まで帰ってきた。風雨が酷く傘が全く役に立たなかったせいだ。電車が停まる前に帰ってこらられたのは不幸中の幸いだった。
悠一はベッドから起き上がるとスマートフォンを手に取った。時間は九時を少し過ぎている。大学は遅刻だ。しかしあまり気にならなかった。それよりも着信履歴がいくつか溜まっていたことに意識が向いた。
昨日は盟に一度だけ電話を掛けたが繋がらなくて、かけ直すこともせずそのまま眠ってしまった。その折り返しかもしれない。
悠一は番号を確認することなく、履歴から電話を掛けた。三コール目で繋がった。
「もしもし姉さん? ごめん昨日寝ちゃってさ。今起きたとこ」
悠一の言葉に返答はなかった。ノイズ交じりの沈黙が流れる。悠一が不審に思ったところで、声が聞こえてきた。
「深見悠一さんですね」
聞き慣れない男性の声だった。悠一は思わずスマートフォンを耳から離した。ディスプレイを見ると知らない番号が表示されていた。
「あの、どちらさまですか」
悠一が訊くと、電話越しの声は小さく溜息を洩らしてから言った。
「県警のものです」電話の声はまた息を吐いた。「今朝方、深見盟さんの遺体が発見されました」
一瞬呼吸が止まった。頭を揺さぶられたようなめまいを感じる。とても立っていられず、悠一はその場にへたり込んだ。
寝起きで粘ついた唾液を飲み込んでなんとか言葉を続けた。
「間違いではないですか。だって、昨日姉はまだ生きてて、いえ、元気で、仕事に行っていたと思います。だから、そんな死ぬなんて、そんなの」
「遺体確認に、一度署まで来ていただけますか」電話の声は悠一の動揺を予想していたのか、言葉を遮った。「実際に見ていただければ分かると思いますので」
その後も電話の声は何か言っていたが、悠一の耳には入ってこなかった。盟が死んだという重苦しい事実だけが、背中にのしかかっているようだった。
*
悠一は電車を乗り継いで警察署まで赴いた。受付に名前と用件を伝えると、奥から痩身の男が出てきた。制服に身を包んでいる。男は「深見悠一さんですね」と確認を取ると、悠一を手招いて廊下を進んでいった。悠一はそのあとに続いた。
「今回は、本当に残念なことで」男は前を向いたまま言った。電話で聞いたのと同じ声だった。悠一は何も答えなかった。
しばらく進んで、男は廊下の突き当たりで止まった。上方には『安置室』とプレートが掲げられている。制服の警官はドアの前で立ち止まると、悠一に入るよう促した。悠一は会釈だけしてドアノブを回した。制服の警官は入ってこなかった。
部屋の中央には、顔に白い布を被せられた遺体があり、その脇にはスーツを着た何人かの男が控えていた。
「君が深見刑事の弟くんかな」スーツを着た男の中で一番高齢であろう、白髪の男性が言った。「今回は本当に残念だった」
その瞳には憐憫の色が混じっていた。悠一は目を伏せた。
「本当に、姉は死んだんですか。姉さんがそんな簡単に死ぬなんて、そんな……」
「それを確かめてもらいたくて君を招喚した。私たちもこれが何かの間違いであればいいと心から思っているよ」熊のような図体をした男性刑事がいった。その仏頂面はどこかで見覚えがあった。「布をどけてくれ」
指示された一番若いスーツの刑事が緊張の面持ちで布に手を掛けた。こちらを一瞥してから、一気に布を取り上げた。
悠一は息を呑んだ。
そこには紛れもなく姉が、深見盟が横たわっていた。
スーツの男達を見回す。全員真顔で悠一を見ている。悠一は一度だけ頷くと、遺体に近づいた。頭に包帯が巻かれている。
「……間違いなく、姉さんです。なんで、こんな……」
悠一が触れようと伸ばした手を大柄の刑事が掴んだ。痛いくらいに握り込まれる。
「遺体には触れるな」ひどく冷淡な声だった。
それで思い出した。この男はかつて盟を冷笑した刑事だ。父が死んで失意の姉を嘲笑ったのはこの男だ。
悠一は手を振り払うと、男を見据えた。男は余裕のある顔で、「ここは葬儀場じゃないんだ。まだ調べることはごまんと残っている。君も大人なんだからこれくらいで取り乱すな」と口にした。
「先輩!」若い刑事が叫んだ。「いくらなんでも言い過ぎですよ」
「なんだ? じゃあお前はこの坊主が遺体に触れてもいいと思ってるのか。解剖だってまだなんだぞ。もし証拠を潰しちまうようなことがあったら犯人逮捕だって遅れるんだ。それを分かってるのか」
男は途中から悠一に視線を向けてそう言った。上唇を持ち上げて、嘲笑しているようにも見えた。悠一は何も言わなかった。言い返す気力もなかった。
「それでも、そこまで言う必要はないんじゃないですか?」
「おいおい。こいつは驚きだ。先輩に楯突くのか。じゃあなにかあったときお前が責任を取れるのか。下っ端のお前がどうやって——」
「やめなさい」
高齢の刑事が双方の間に立ち、それぞれを睨んだ。
「二人とも少しは落ち着きなさい。遺族さんの前ではしたいない」その声で二人は口を噤んだ。「日下部君も天野君も、今やるべきことはそれじゃないでしょう」
日下部と呼ばれた大柄の刑事は、その言葉に大きく舌打ちをして部屋から出て行った。扉が勢いよく閉じられた。
「まったく日下部君には忍耐力が足りない」
高齢の刑事はそう言って扉を一瞥してから、悠一の方を向いた。
「部下がとんだ無礼を働いたね。申し訳なかった。彼も同僚が死んで少し取り乱しているんだ。悪く思わないでくれ」
きっとそれは嘘だ。日下部にとって盟は邪魔な存在だったのだろう。今の態度だけでそれが伝わってきた。けれど悠一はそれをわざわざ口にすることもなく、無言で頷いた。
「私は日下部君と話してくる。ここは頼みますよ、天野君」
高齢の刑事はそう言い置いて、部屋を出て行った。
扉が完全に閉まるのを待ってから、天野と呼ばれた若い刑事がこちらを向いて一礼した。
「この度は本当にご愁傷様でした。本当に、なんて言ったらいいのか……」天野は盟の顔に目を向けると、「深見先輩には本当にお世話になりました。振り回されることも多かったけど、仕事に熱意と誇りを持っていて、僕はずっと憧れていました。それなのに、こんなことになってしまって」
悠一は拳を固く握りしめた。天野の言葉など少しも耳に入ってはこなかった。姉を殺した人間が憎くて堪らなかった。
「姉を殺したのは、上央の連続殺人事件の犯人なんですか?」
まだ思い出話の途中だった天野の声を遮って聞いた。
「ええ。恐らくは」天野は慌てて手帳を手繰って頷いた。「殺された場所が三件目と同じでしたし、それに、その、手口も似ていて……」
天野はそこで一度押し黙ると、浅く息を吐いてから一息に言った。
「……先輩の女性器にも異物が挿入されていたんです」
悠一はそれを聞いた瞬間、壁を殴りつけた。不思議と拳は痛まなかった。頭の芯が熱を帯びているようだった。
「くそが……。なんで、こんな……」
悠一はまた壁を殴った。頭に久下の顔を思い浮かべる。その顔を岩で叩き潰す妄想をした。何度も何度も岩を叩き付ける。喉の奥が引き攣るように震えた。
壁を殴り続ける悠一を、天野は止めることもなくただ見ていた。
悠一が落ち着くのを待ってから、天野は続けた。「それから、先輩の所持品で失くなっているものもありました」
「なにが失くなっていたんですか」
「婚約指輪です。遺体の近くから空のリングケースが発見されました。ただ、少し気になることもあって……」
「なんですか?」今度はナイフで刺し殺した。
「昨日、主要駅近くの県道で、深見先輩の婚約者の瀬川秀介さんも亡くなっているんです」
ちょっと待っていてください、と天野は部屋を出て行った。代わりにこの部屋まで案内してくれた制服の警官が入ってきた。
制服の警官は悠一の顔を見ると、気まずそうに視線を下げた。よほど酷い顔をしているのだろう。悠一は気にせず盟に触れた。制服の警官は何も言わなかった。
盟の体からは全く熱が感じられなかった。心臓が止まっている。目が開くことももうない。それでもまだ悠一は盟が死んだという実感を得られずにいた。
「お待たせしました」
天野が戻ってきた。手には既に見慣れたファイルを携えている。事件のファイルだ。制服の警察は、それを見咎めることもなく敬礼すると、部屋を出た。
「本当はダメなんですけどね。深見先輩の弟さんですし、これくらいは知る権利があるでしょう」天野は扉が閉まってから言った。「それに、先輩もきっとこうしろっていうはずです。事件解決より大事な規則なんて少ないって」
天野は泣き笑いのような表情を浮かべた。悠一は何も言わなかった。頭の中でまた久下を殺した。
「これを見てください」天野はファイルを開くと、悠一に手渡した。そこには秀介の死んだ場所や時間が記載されていた。「亡くなった時間が瀬川さんの方が後なんです」
盟の死亡推定時刻は昨日の夜七時半。秀介は八時過ぎだ。盟の死因は脳挫傷で、秀介の死因は大型トラックに撥ねられたことによる内臓破裂らしい。
盟は事件性があるが、秀介はどうだろう。悠一は首をひねった。
「これはつまり、どういうことですか。秀介さんが姉さんを殺したと? そのあとに彼が自殺を?」
「端的に言えばそういうことです。それなら婚約指輪が失くなっていたのにも筋が通る。でも、それだけじゃなくて……。次のページを見てください」
悠一は言われるがままページを捲った。そこには年表のようなものが挟まれていた。
「これは?」
「瀬川秀介とこれまでの被害者との関わりです。一件目の間中由佳さんとは肉体関係にあったそうです。二件目の木下沙枝さんの場合、担任を務めていました。また、援助交際の仲介人もやっていたそうで、三件目の蜷川かがりさんとの関係も認められています。それから、四件目の君島若菜さんにはストーカー行為をしていたそうです。君島さんの遺体のそばに落ちていた手紙と筆跡が一致しました。これらのことは深見先輩にも知らせてありました」
恐らく久下と会う前に掛かってきた電話がそれだったのだろう。あれ以来、盟の調子はどこかおかしかった。
「では、警察は瀬川秀介が一連の事件の犯人だと考えているんですか」悠一は溜め息交じりに聞いた。
「もちろんまだ証拠も固まっていないですし、即刻瀬川さんを事件の犯人とするわけではありません。ただ、それも可能性の一つとして考えて、これからは慎重に捜査を進めていく方針になりました」
天野は気まずそうに目を伏せた。
それはつまり犯人逮捕が遠のいたということだ。ようやく久下を捕まえられると思ったのに。
悠一は小さく舌打ちをした。天野はそれに申し訳なさそうな顔をした。
「すみません。今日はもう帰ります。これありがとうございました」
悠一はファイルを天野に返して、ドアノブに手を掛けた。これ以上付き合ってはいられない。久下を殺してそれで終わりだ。自分は捕まるだろうがそれで構わなかった。
「悠一君!」
ドアを押し開けたとき、天野に腕を掴まれた。悠一はゆっくり振り返った。
「なんですか?」自分の声が掠れているのが耳障りだった。
「これ。せめてこれだけは渡しておかないとって思って」
天野が差し出してきたのは盟の腕時計だった。悠一は目を見開いた。
「どうしてこれを……」
「先輩の遺体の近くに落ちていたんだ。雨ざらしだったから壊れてるけど、大事な形見だろう」
悠一が答えずにいると、天野は腕時計を無理やり握らせてきた。
「これは君が持っておくべきだと思う。先輩もきっと喜ぶ」
悠一は腕時計を一瞥した。
「壊れた時計は、所詮壊れた時計ですよ」
あえてそう言った。気恥ずかしいわけではなかった。復讐に感傷は余計だと思った。
「それでも、持っていてほしい。先輩もそれを望むはずだ」天野は真剣な眼差しで、「持っていてくれ」と繰り返した。
悠一は渋々それを受け取ると、今度こそ部屋を出た。ポケットに入った時計が妙に重たく感じられた。
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