13

 授業後、木下沙枝の父親に会いに行く前にもう一度図書館に立ち寄ったが、やはり要の姿はなかった。昨日瞼を腫らしていた司書も休みのようだった。

 校門に行くと盟は既に来ていた。片手にビニール傘を二本携えて、スマートフォンを弄っている。空を見ると、濁った雲が立ち籠めていた。

「お待たせ」

 悠一が声をかけると、盟は緩慢な動作でこちらを振り向いた。悠一はその顔を見て思わずたじろいだ。顔色が悪く、表情に生気がない。目の下には隈が浮いている。父が死んですぐの姉を前にしているようだった。

 動揺する悠一を差し置いて、盟が唐突に言った。

「ごめん。ちょっと急用ができちゃってさ。今日の聞き込みは悠が一人で行ってくれないかな。やり方はもう分かってるでしょ?」

 不意な言葉に悠一は更に狼狽えた。辛うじて言葉を紡ぐ。

「急用ってなんなの?」

「それはまだ言えないな。でも事件に関係のあることだよ。これさえ分かれば全部解決するはずなんだ」

 盟はそういってから傘を差し出して、

「雨降りそうだから持って行きなよ。それと、木下さんには謝っておいて」

 悠一はそれをとてもじゃないが快諾できなかった。

 盟が簡単に約束を違えるような人間ではないと分かっている。きっと悠一の知らないところで、事態が大きく変わってしまったのだろう。盟が解決が近いというのならそれに従うべきだとも分かっている。

 でも、盟の顔つきは自暴自棄になっている人間のそれではないだろうか。悠一はそこが気がかりだった。一体、誰となにをしにいくのだろう。

 そう考えたとき、悠一の意識に何かが引っかかった。先日駅で見かけた光景が脳裏に浮かぶ。あれは盟が腐心する理由になり得るのでないか。彼が盟にとってどんな人間であるか、悠一にもよく分かっていた。

「もしかして、秀介さんと会うの?」

 悠一が聞くと、「なんだ、知ってたんだ」と盟は薄っぺらな笑顔を浮かべた。

「でも、それだけじゃないよ。むしろそれはオマケ。だからそんなに心配そうな顔しないでよ」

「オマケって……」軽んじるような発言は防衛手段なのだろうか。

「それより、お願いできる? 木下さんに話を聞いたら、すぐに電話してきてくれればそれでいい。あとは私がなんとかするから」

 悠一は断られると分かった上で更に食い下がった。

「その急用は他の刑事さんに任せればいいじゃん。オマケだけ姉さんが対処すればいいんでしょ? 秀介さんのところには俺もついて行くからさ」

「他の刑事さん、ね」盟は自虐的に笑った。「ダメだよ。私は独断専行が多いから身内にもあまり信用されてないんだ。女が捜査一課にいるってだけで鼻つまみ者なのに、その上上司に逆らってるようじゃね」

 それを聞いて悠一は口を閉ざした。父が死んで体調を崩した盟を嘲った刑事の顔が思い浮かんだ。

「それに秀介さんとは一対一で話し合いたいの。私の我儘で悪いんだけど、頼まれてくれないかな。お願いします」

 盟は深々と頭を下げた。実姉にそこまでされては、悠一は請け負うしかなかった。

「分かったよ」悠一は頭を掻いた。「その代わり秀介さんとは絶対に別れてくること。これだけは約束して」

 盟は涙を我慢するように眉を寄せて頷いた。「ありがとう。約束する」


    *


 約束のカフェは奇しくも秀介の不貞行為を目撃したのと同じ店だった。何度も店名を確見直したが、間違っていなかった。

 悠一は溜め息を飲み込んで店に入った。店内に客は一人だけだった。背広を着た男性が奥の席に座っている。悠一はその後ろから声をかけた。

「お待たせしました」

 座っていた男性がゆっくりとこちらを振り向いた。総白髪の肥満体型で、厚ぼったい眼鏡を掛けている。その奥に覗く瞳には穏やかな輝きが宿っていた。

 男性は悠一に目を合わせて、目尻に皺を寄せた。

「君が深見さんかな。昌子からは女性の刑事さんだと聞いていたんだが」

「申し訳ありません。盟は急用で来られなくなってしまって。代理でお話しを伺いに来ました。弟の深見悠一と言います」

「そうかい。若いのに立派なことだね」男性は気を悪くする様子もなく言った。「それより立ってないで座りなさい。そんなに時間はないけど、できるだけ沙枝の話はしておきたいんだ」

 悠一は促されるままソファに座った。男性は和彦と名乗ってから口を開いた。

「不思議そうな顔をしてるね。私がもっと非協力的な人間だと思ったかい?」

「いえ、そんなことは……」悠一は首を横にして、「でも警察に対して、多少なりとも遺恨はあるのではないかと思っていました。当時の警察の聴取はあまりにも横暴だったと姉から聞いています」

 悠一が言うと和彦は顎の肉を揺らして笑った。

「ああ、そうだね。当時は酷いものだった。私たちの人権は無いに等しかったし、だから恨みがないといえば嘘になる。いや、正直に言えば警察のことは今でも大嫌いだ」

 和彦はそこで不意に真顔になると、でもね、と窓の外に目を向けた。悠一も首を曲げてそちらを見る。小雨が降り始めていた。

「例えば、あそこに親子がいるだろう?」

 和彦が指さした先では、若い夫婦がベビーカーを押して歩いていた。ちょうど傘を差したところだった。三人で同じ傘に収まっている。幸福で睦まじい光景だ。

「あの子どもがいきなり遺体で発見されたらあの夫婦はどうなるだろう。あのベビーカーにのった子どもが大人になる前に死んでしまったら? そんなの決まっている。ただ絶望だ」

 和彦が低い声で言った。悠一は密かに息を呑んだ。

「私が協力しようと思ったのはそれが理由だよ。これ以上私のような人間は増えて欲しくないんだ。大切な人を失うほど辛いことはないからね」

 それは昌子も言っていたことだ。あるいは和彦の受け売りだったのかもしれない。

「さて、前置きが長くなって済まなかったね。ただ君には承知しておいて欲しかったんだ。決して警察を許したわけじゃないと、警察官の親族である君には理解した上で話を聞いてほしかった」

 悠一が深く頷くと、和彦は時計を気にする素振りを見せてから口を開いた。

「君は事件の概要は知ってるんだったよね。だったら沙枝がどう死んでいたかは割愛させてくれ。愛娘のむごたらしい死に様を何度も話すのは応えるんだ」

「もちろん。和彦さんの話しやすいように話していただければと思います」

 それを聞いた和彦はカップを口に運んでから、深く息を吐き出した。

「……二年前のあの日は、雪が降っていたな」

 いつかも聞いた導入だった。悠一は余計な詮索や出歯亀をしないよう、和彦の左手から目を逸らした。その指輪が未練かどうかなんて聞かれたい話ではないだろう。

 和彦は視線に気づいたのか、左手を覆うように机の上で手を組んだ。

「私と昌子が離婚したのは、ちょうど沙枝が中学校を卒業した年だった。原因はもう忘れてしまったな。それくらい些細なことだった。けど、とにかく別れて、沙枝の親権は昌子が持つことになった。年頃の女の子が父親と二人暮らしは不便が多いからね。でも沙枝は私に懐いてくれていたし、別居になってからも週に一度は必ず会っていた。あの日も同じさ。雪の降る日に、私は娘と会っていた」

 和彦は机の上で組んだ手を握りしめた。たったそれだけの理由で、警察からあらぬ疑いを掛けられたのだ。その屈辱は悠一には到底計り知れない。

 和彦はしばらくの沈黙の後、話を再開した。

「その日もいつものように他愛ない雑談をしたよ。話した内容は今でも覚えてる。沙枝の好きだったアイドルグループの話や、クリスマスに欲しいもの、昌子への愚痴、学校の文句。いつもと変わらなくて、大事な話だった。それに学校の友達の話も聞けたんだ。少し前からよく挙がる名前だったけど、その話は何度聞いても嬉しかったな。沙枝は昔から引っ込み思案な子だったから、なかなか友達ができず悩んでいて……。そんな娘が私に友達の話をしてくれるなんて、本当に夢のようだった」

 和彦はそのときを思い出すように目を細めた。

「沙枝はその友達と遊ぶといっていたから早めに解散したんだ。会って一時間もしないうちに別れたよ。ちょうど雪が降り始めたのもそのときだったかな。夜には積もりそうな粉雪だったよ。沙枝が喜んでいたのを覚えている。あの子は雪が好きだったからね」

「その友達の名前は分かりませんか?」

 悠一は思わず話を遮って聞いた。和彦は気に障ったように眉を顰めたが、質問には答えてくれた。

「確か……カナちゃんといっていたかな。写真も見せてもらったけど、かわいらしい女の子だったよ。フルネームまでは分からないな。沙枝はカナちゃんとしか呼んでなかったから」

 和彦はそれから、「この話も警察にはしたんだけどね。全然まともに取り合ってはもらえなかったよ」と作り笑いを浮かべた。

「どうだろう。事件の役に立つのかな。かつて警察が切り捨てた私の証言は」

 露悪的な言い方だった。が、悠一はそれを気にすることなく笑顔を浮かべた。真相に近づけた喜びの方が大きかった。

「ええ。もう事件解決は近いかと」悠一は頭の中で久下香奈美の顔を思い浮かべていた。

 これで四件全てとの関わりを見つけられた。

「そうか。それならいいんだ」

 和彦は面食らったような顔をしたが、すぐに元のように笑顔を貼り付けると、また木下沙枝について話し始めた。

 亡くなる数ヶ月前から写真を趣味にしていたことや、今でもクリスマスシーズンの度、プレゼントしようとしていたカメラに金を払っていること。そのせいで一人暮らしの家に新型のカメラが増えていくことを、和彦は自虐的に話した。

 悠一はそれを黙って聞いているしかなかった。初めに和彦があんな前置きをしたのはもしかしたらこれが狙いだったのかもしれないと悠一は思った。少なからず負い目を背負わせることで、自分の話を最後まで聞かせることはできる。

 和彦は時間を気にしつつ、それからたっぷり一時間、自身の愛娘について語った。

 段々と雨は激しさを増していき、ついには雷まで轟き始めた。それでも和彦は一度も話を中断することはなかった。

「沙枝が使っていた自転車はまだ実家の方にあっただろう?」

 六時を少し過ぎた頃、和彦は最後にそんなことをいった。悠一はタイヤ以外は新品同様の、もう動かない自転車を思い出した。

「あれは私が沙枝の通学用に買ったものなんだよ。昌子は今日もあれをせっせと磨いているんだろうな」和彦は遠い目をした。「昌子にとってはあれがよすがなんだよ。あれさえあれば沙枝がまだ生きていると一瞬だけ錯覚できるんだ。私の指輪だって同じさ。これで私たちは安寧を図っている。君はこんな私たちを惨めだと笑うかい?」

 和彦が口だけで笑った。悠一は返答に窮して無言で首を振った。娘を亡くした父親に掛けるべき言葉を持ち合わせていなかった。

 和彦は席を立つと最後にもう一度、「これが私のよすがなんだ」と自分に言い聞かせるように零して店を出ていった。

 悠一はしばらく動けなかった。落雷の音が一際大きく聞こえた。

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