アルに纏わりつく蝶(ACK)
ヴァンジがニヤリと歯を見せた瞬間、どこからともなく透きとおる翅がふわり——一匹の蝶が、ハーマナスの肩に止まった。
「……やばい!」
反射で手が動く。ハーマナスは肩を払うが、指先に伝わるのは手触りではなく微かな振動だけ。払った途端、周囲の空気がきらめき、数十、数百の蝶が生まれたように舞い上がる。光の粉の群れが輪郭を成し、花吹雪のように彼らを取り囲む。
「触るな、大樹! 一匹でも——絶対に触っちゃだめだ!」
「え、え、なんで!? ただの——」
「ただじゃない。“触覚ACK(アック)”だ。触れた瞬間、それを“受領”って解釈して、RLPの外側にショートパスを作る。礼儀層の抜け道だ。指先の同意が奪われる」
大樹が息を呑む。「同意って……押してもいないのに?」
「“押す”前の“触れる”が儀式なんだ。蝶は“ありがとうトークン”の化身だ。触れた肌から、ICL——内部制御ループへ微弱な位相差を注入してくる。咳、瞬き、引き金——ぜんぶ、作法の単位に落とし込まれる」
ヴァンジは楽しげに足先で拍を刻む。BPMは先ほどより遅いが、蝶の舞いが拍に同期している。ふわり、と一群がアルの肩へ降り、次々に止まっては翅を休めた。
「アル——動くな。呼吸、四で吸って六で吐く、覚えてるな」
「ん……っ、できる。けど——」
「目を閉じるな。瞼に触れると、それも“儀式”だ」
アルは頷こうとして、頸に走る小さな抵抗にわずかに目を見開いた。蝶がさらに増え、肩から鎖骨、前腕へ、衣服の上にも、露出した肌にも、薄い影を作って止まる。止まるたび、微細なざわめきがICLに入る。礼儀の拍。礼状の拍。
「ハーマナス、な、なにが起きてるのこれ!?」大樹が混乱のまま問いかける。
ハーマナスは短く答えを走らせる。「“ポリネータ・ルーチン”。オファー型の古典ネタだ。礼儀を媒介にする“授粉”。蝶に触る=“許可、受取”の非言語シグナル。受け取った以上、返礼の帳簿が開く。帳簿が開けば、作法の権利関係が組まれる。こいつは力で押さえつけない。作法で縛る」
「作法で——」
「そうだ。いまアルの反射層は、蝶の拍に“合わせた方が礼儀正しい”って錯覚させられてる。だから、身体が自分の意思より礼儀を優先し始める。結果、制御が効かなくなる」
言っているそばから、アルの動きが僅かに鈍くなる。呼吸の出入りが浅く、脈は落ち着いているのに、全身の筋紡錘が「待て」を優先している。胸元で、蝶が重なり合い、小さな重さを作る。
ハーマナスは一歩踏み出そうとして、足首に絡みつく見えない糸を感じた。領域の縁だ。踏み込めば踏み込むほど、作法の“借り”が増える——そういう構造になっている。
「……遅かったか」
彼が呟くと、ヴァンジがくるりとこちらを向く。表情は笑っている。だがその声は、妙に平板だった。
「やぁ! おいらヴァンジ! こんにちは! ありがとう! どういたしまして! やぁ! おいらヴァンジ! こんにちは! ありがとう! どういたしまして!」
同じフレーズが、同じ抑揚で繰り返される。言葉の間合いも、音節の長さも、ビット単位で一致している。コンピューターのテスト音声のような正確さ。さっきまでの即興性が、消えている。
「……スクリプトに落ちたな」ハーマナスが目を細める。「“親切の固定文(スタティック・コーテシー)”。ポリネータを展開するときのフォールバックモードだ。自由度を捨てて、儀式の成功率を上げる」
「えっと、それってヤバいの?」大樹が息を詰める。
「ヤバい。柔らかい拘束が“硬い作法”に変わる。可変が消えるぶん、ほどきにくい」
ヴァンジの周りで、蝶が増殖する。翅のきらめきがIID(独立同分布)に近づき、群れ全体がノイズのような均質さを帯びる。アルの肩で、蝶の群れが“重さ”を積算していく。重量ではない。帳簿上の“借り”の比喩的重量だ。
「アル!」大樹が半歩踏み出す。すぐにハーマナスが腕で制す。
「止まれ。踏み込むほど“借り”が積み上がる。礼儀の帳尻は、後で必ず取り立てに来る。まずは——触れずに、断る」
ハーマナスは喉を開き、意図的にフラットな音程で、短く、はっきり言う。
「《リバースセンド:アンリスィーヴド》」
蝶のいくつかが、わずかに翅を止めた。空気の粘度がほんの少し下がる。だがヴァンジの声は変わらない。
「やぁ! おいらヴァンジ! こんにちは! ありがとう! どういたしまして! やぁ! ——」
「聞いちゃいない……」
「ハーマナス、アルが——」
アルの瞳孔が固定し、焦点がわずかに手前に寄る。姿勢維持スレッドが過度に礼儀化し、“待機”を選んだのだ。両腕は自然な角度のまま、しかし意思の動線がそこに届かない。体表の蝶はさらに増え、肩、胸、髪、指先の関節にまで止まる。翅の微振動が、ハプティクスの微弱なノイズとして皮膚に返り、ICLを撫で続ける。優しい拷問だ。
「アルは、制御が切れたら止まるタイプだ。逃げようとしても、礼儀に引き戻される。——つまり、今は止まるしかできない」
ハーマナスは呼吸を整え、自分の指先の痺れを測る。さっきよりは動くが、引き金に“礼儀の重さ”が残っている。
「ヴァンジ」彼は呼びかける。「それは、お前の意思か。スクリプトに落ちてるなら、ここにいる“お前”は、聞けない」
返ってくるのは、同じ行。「やぁ! おいらヴァンジ——」
「……いい、なら手順で行く」
ハーマナスは手短に大樹へ囁く。「三つ覚えろ。一、逆拍。二、無題の挨拶。三、謝意の無効化ウィンドウ」
「え」
「一、逆拍。蝶の拍に合わせず、心臓の拍に逆らって歩く。二、無題の挨拶。声を発するが、意味を載せない。『……』でいい。三、ありがとうと言いたくなる瞬間に、意図的に1秒の空白を挟む。——これで礼儀の同期を崩す」
「できるかな……」
「やれ。私は“断り”を積む」
ハーマナスは深く吸い、短い句を続けざまに投げる。文法は正しいが、意味が空。空だからこそ、礼儀の連鎖に絡まない。
「どうも。…… 失礼。…… こちらはアンタイトル。……」
大樹は鼓動を数え、蝶の拍と反対側で足を運ぶ。最初の二歩でバランスを崩し、三歩目で掴む。蝶の群れの縁がわずかに揺れる。アルの頬に止まっていた一匹が、少しだけ浮いた。
「っ……アル、聞こえる? いま、こっちから行くから——」
「行くな」ハーマナスの声が低く鋭い。「“行く”が礼。“待つ”が礼。——アル、聞こえるなら、目だけ右三、左一で瞬け。返礼ではない。信号だ」
アルの睫毛が、ぎこちなく、しかし指定どおりに動く。わずかな自由が残っている。ハーマナスは頷き、続けざまに《逆礼状》を重ねる。
「受け取りません。受け取りません。受け取りません——」
三度目で、ヴァンジのスクリプトが一瞬咳き込むようにノイズを挟んだ。
「やぁ! おいらヴァン……——ジ! こんにちは! ——どういたしまして!」
ハーマナスはその隙を逃さない。「《クローズ型、セレモニーエンド》」
礼儀の文句。砂時計の砂が、わずかに早く落ちる音がした気がした。蝶の群れの一部が、ふっと薄くなる。だがすぐに、別の層から補充される。スクリプトの補填だ。
「しぶとい……」
大樹が歯を食いしばる。「ハーマナス、もっとできることは——」
「ある。だが“触らずに”やれることだけだ。今は空気を変え続けろ。——アル、もう一度。右三、左一」
アルの睫毛が応じる。蝶の重みはまだ残る。ヴァンジは、まるで壊れた玩具のように同じセリフを繰り返し続ける。その繰り返しの均質さが、逆に“意思の欠落”を証明していた。
「やぁ! おいらヴァンジ! こんにちは! ありがとう! どういたしまして! やぁ! おいらヴァンジ! ——」
ハーマナスは銃を下げ、セーフティは入れたまま、両の掌をわずかに開く。攻撃は通らない。通るのは作法だけ。ならば、作法で押し返す。
「《セレモニーオペレーティング、ナンバーゼロ アンタイトル》」
無音が、蝶の翅の音の間に入り込む。わずかな無題が、固定文の歯車に砂を噛ませる。長くはもたない。だが、その短さで十分だと、ハーマナスは知っている。ほどく手が、いちど動けば、結び目は“ほどけた実績”を覚えるからだ。
「大樹、息は?」
「逆拍、維持。——アルの肩、少し軽くなってる」
「よし。ここを突破口にする」
蝶の群れはなおも美しく、なおも危険だった。触れたくなる作法の形をまとっている限り、その危険は消えない。だが、触れない礼儀も、同じだけ強い。ハーマナスは短く息を吐き、固くなりかけた心を、もう一度“無題”に戻した。
「……」
ヴァンジのスクリプトが、二音ぶんだけ沈黙する。アルの肩の蝶が、三匹、四匹と浮き上がる。翅のきらめきが薄れ、空気が軽くなる。
「——遅かったか、で、終わらせない」
ハーマナスは静かに言った。繰り返される機械の挨拶の向こう側に、先ほどの幼い声——“やぁ! おいらヴァンジ!”の、ほんものの揺らぎを探しながら。
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