第12話 五月山
「いかがされましたか、
「もう『殿』じゃありません。大丈夫です。……いいから言葉を戻して、清水さん」
「あっ。……も、申し訳なく──」
「戻ってないし」
「あっ、あっ……すみません!」
目を細めて
律はこほんとひとつ咳をした。
「でも、おっしゃりたいことはわかりました。俺も、すぐに手に入る文献からわかること以外のこともいろいろと知りたかったので。じゃあ、ええと」
言いながら自分の鞄から「吾妻鏡」を取り出す。
すると、なんと清水も同じものを鞄から取り出した。普通の人が見ればなんとも奇妙な感じだったろう。だが、とりあえずこれもまあ「お揃い」と言えば言えなくもない。衣服や文具などとはわけがちがうけれども、清水とお揃いの何かを持っていることは、ほんのわずかにでも律の胸をなごませた。が、それがまたひどく苦しくもあるのも本当だった。
そこからふたりは、お互いあちこちのページを開きあい「この時はこうだった」「あのときはどうだった」とひとしきり昔話に話を咲かせた。結論からいうと、律が予想していた以上に「実朝」が知らなかった、いや知らされていなかった事実は多かった。衝撃的な話も多かったけれど、これはそれ以上に律にとって心の満たされる時間となった。
ふたりは時を忘れて夢中になって話しこんだ。部屋の電話機がプルルルル、と終了の合図をよこしたとき、ようやくそのことに気がついたぐらいに。
「あ、もうこんな時間か……」受話器をもとに戻しながら、清水はひどく残念そうな顔になった。「ごめん。俺、このあとすぐにバイトが入ってて」
「そうなんですね。それじゃ、今日はここまでにしましょう」
「うん、ごめんね」
彼はこの駅の近所で、高校生を教える家庭教師をしているらしい。家庭教師や進学塾の講師は、働き口こそ多くはないけれど、学生にとってはかなり実入りのいいバイトなのだ。うらやましい気はするけれど、たとえ学力的な問題はなくても、それは引っ込み思案な律にはちょっとまねのできないバイトだった。それに、単純作業に比べれば格段に責任だって重くなるはずである。
「さすがはもと泰時」と妙な納得感をおぼえる。人あたりがよくて聡明で誠実な人柄の彼は、非常に人望のある人だった。そしてその能力を駆使し、第三代執権として素晴らしい功績を残した。家庭教師としても塾講師としても、きっとすばらしい手腕を発揮しているのだろう。
カラオケ店を出て駅へ行くまでの間、律はしばらく清水と並んで歩いた。清水の歩調が普段より少しゆっくりに感じる。それを勝手にうれしがっている自分に気づいて、心ひそかに恥じ入った。
いったい何を都合よく考えているのだろう、自分は。この人にはすでに、れっきとした彼女がいるんだぞ。
羞恥を深く押し込めるようにして、律はそろそろと口を開いた。
「つぎはどうしましょう?」
「あ、そうですね……約束しておかないとね」
よかった。どうやら次もあるらしい。彼の表情はいたって普通で、面倒そうな
「俺はそんなに忙しくないので。サークルも入ってませんし。清水さんが決めてください」
「わかりました。夜にまたご連絡いたします」
「また敬語になってますよー」
「あっ。……本っ当にごめん! 何度もごめんね」
清水が顔の前でぱちんと手をあわせ、こちらを拝むようにした。
「いや、いいですけどね。……それと」
「ん?」
「名前。『律』でいいですよ」
「えっ」
清水が立ち止まった。本気でびっくりしたのだろう。目がまんまるになっている。
それを見たとたん、こっちの心臓も急にばくん、と跳ね上がった。慌てて
「律、でいいですってば。それじゃ」
「あっ! あの!」
もう改札へ向かいかかっている律の背中を、思わぬ言葉が追いかけてきた。
「おっ、俺も! 俺も『
「……!」
思わずふりかえった。
唐突に周囲の景色の解像度が下がる。他の音が聞こえなくなる。
そこらを歩く女の子たちが普通にふりかえるようなイケメンが、顔じゅうでにこにこ笑いながら律に向かって長い腕を振っていた。
無意識に胸の前でちいさく手を振り返し、でも急に気恥ずかしくなってポケットにつっこんだ。あわてて前を向く。歩いていた足が次第に速くなり、しまいにはほとんど駆け上がるみたいにして、二段とばしで階段をのぼる。
(かいと、かいと、かいと)
そう呼んでいいんだ。わたしも。
それだけで、律の胸は鳥になった。
そうして自由な翼を大きく広げ、天に舞い上がっていくのだった。
『金槐和歌集』401
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