第8話 住の江の
清水からメッセージが来たのは、二日後のことだった。彼は大学のテニスサークルに入っているうえ、アルバイトもしているとかでなかなか忙しい身であるらしい。
《こんにちは、実朝さま》
《こんにちは。って、いえいえ! やめてください。今の俺は『青柳』ですから》
《いえ、しかし。鎌倉殿に向かって、まさか自分がそのような》
(本当にもう! この人は)
まったく生真面目が過ぎる。
いくらあの鎌倉幕府で将軍として彼の上司であったとはいっても、今の律はただの大学生だ。ましてや、彼の方が先輩ではないか。
《いいですからっ。『青柳』でお願いします。あと、敬語もやめてください》
《ですが、それでは》
《ですがじゃないっ。そうしてくれないと俺、もうあなたとは連絡しませんからっ。お願いです。本当にお願いします》
《そ、そんな》
と、そんなすったもんだがありはしたものの、最終的に清水は律を「青柳くん」と呼び、敬語を使うのもやめてくれた。
テニスサークルにもいろいろあるようだが、彼が所属しているところは男女とも数が多い。現代の若者言葉で言うところの、いわゆる「陽キャ」の人たちということのようだ。要するに、現代の彼は内向的な律とは大違いなのだ。……いや、さすがに律だって自分が「陰キャ」だとまでは思っていないけれど。
◆
翌日、昼休み。
先日も来た、あの裏手のテニスコートの近くにあるベンチで、律は清水を待っていた。すぐまえの二限目、律はここからそう遠くない講義室での講義だったけれど、清水はどうやら専門学部での講義だったらしい。そちらは教養部からは少し離れた建物なのだ。
黒いバックパックを背負って息を切らしながら走ってきた清水を見て、律はほっとした自分に気づいた。軽く片手をあげる。
「清水さん」
「お、お待たせいたしました。大変申し訳なく──」
「清水さんっ」
「あっ」
しまった、という顔をして清水が口元をおさえる。気を抜くと、すぐに臣下としての口調に戻ってしまうらしい。この人らしいとはいえ、まことに不器用な人だ。
「……ぷっ」
「ふ、あははは」
どちらからともなく笑いがこみ上げた。と同時に、すっと胸がすくようなさわやかな気分になり、今までがっちりと肩に入っていた力が抜けたような気がした。
「……どうぞ」
「あ、うん」
お互い、先日のように昼食を準備してある。ベンチに隣あって座り、しばらくはそれを食べながらつらつらと雑談をした。
現代によみがえってきて、前世の記憶が戻るまでどうしていたのかとか、どういうところでどう育ってきたのか、とか。あとは家族構成などもだ。
「青柳……くんは、お兄さんと妹さんがいるんです……だね」
「はい」
「私……お、俺は一人っ子で」
「そうなんですね」
清水はさっきからものすごくしゃべりにくそうにしている。だが、それはわからないふりをした。こればかりはだんだん慣れていってもらうしかない。
「……ええと。あれから、鎌倉幕府や実朝さまの資料は手に入った……の?」
「あ、ええと。『吾妻鏡』だけ……。これです」
「ああ、文庫のやつ。それは俺も買いま……買ったよ」
「そうですか」
「ほかの本は?」
「いえ。それはまだ」
正直、「吾妻鏡」だけでも相当精神力を使い果たした感じがあった。ほかにも大いに気になっていることはあるけれど、すぐにあれもこれもと情報を摂取するような気分になれなかったのだ。
そう説明したら、清水はふっと寂しげな笑みを浮かべた。
「……そうなんだね。無理もないよ。俺もそうだったから」
「清水さんも?」
「うん。あの後、もう一回図書館に行ってね。もちろん君を探したいっていう気持ちもあってのことだったけど」
「あ、はい」
「まあ、会えなかったわけだけどね」
「え、ええ」
それはこちらが故意に避けてしまったので、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
「それでそのときに借りた本と、あとこれを買ったから。君に見せようと思って」
「──あ」
清水がバックパックから取り出したいくつかのハードカバーの本のひとつを見て、律の時間が止まった。
──『金槐和歌集』。
『吾妻鏡』にも簡単に説明されていたが、そのタイトルの「金」は鎌倉の「鎌」の字の偏であり、「槐」は
自分はこれを編んで京へ送ったあとすぐに死んだので、タイトルをつけたのは自分ではないけれど、よい書名をつけてくださったものだと思う。
この自撰家集は、あのつらかった和田合戦から七か月ほどのちに編んだ。建保元年十二月十八日のことだった。
住の江の 岸の姫松
『金槐和歌集』589
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