四 逃亡 -2-

「ここから先は、見つからないことを祈るしかありません」

 人目を避けて島の端まで到着したとき、茂みに屈み込みながら、俺のほうを振り向いた冬夜がそう言った。

 彼の示す先には、島の上から崖下へ続く下り坂が見えている。この坂は島に来たときも、岩っこへ行ったときも、家茂の死体を確認しに行ったときも通っている。港へ通じる唯一の道であり、車も通れる幅の舗装された道に、身を隠せるような場所は存在しない。

「祈るのならば、根っこ様以外にしたいものだな」

 緊張が続くことによる疲労感にも限界を感じ、軽口を叩く。すると、冬夜はいつもの無垢な顔で笑ってくれた。

 茂みから出る覚悟を決める。周囲を見渡して人影がないことを確認すると、冬夜と共に坂を目指して駆け出した。

 正直、この坂や港に誰も人がいないということはあり得ない。彼らは島全体の通信を遮断するほどの真剣さで、夜の間に消えた俺のことを探しているのだ。逆の立場であれば、俺なら必ず誰かしらに港を見張らせているはずだ。だがそれでも。文字通りの意味で、他に道はない。

 走り続けると、坂の中腹に人影が見えた。彼の纏っている制服で、その者が士郎であることが一目でわかる。誰かはいるだろうとは思っていたが、その「誰か」の中でも最悪の人物だ。

 俺たちの足音に気づき士郎が顔を上げる。視線が交わり、士郎の手が腰へと向かった。俺は一瞬、横を走る冬夜を見ると、彼を庇うように足を速める。恐れることはない。なぜなら島民は、俺のことを冬夜が殺さねばならないと思っているのだ。

 士郎が腰から抜いたリボルバー銃を構えた。あたりに乾いた銃声が響くが、俺はそれでも怯まずに士郎へと突っ込んで行く。太ももにひどく熱い感触がする。ワンテンポ遅れて、銃弾が掠めていったことを知る。だが、直撃はしていない。

 坂を駆け降りる勢いを乗せたまま、士郎に飛び蹴りをくらわせる。後方へと倒れかけた彼の腕を掴むと、今度は逆に引き寄せ翻弄する。体のバランスを崩させ、背後から首元に腕をかけた。もがく士郎の手からリボルバー銃をもぎ取ると、雨に濡れたアスファルトの上を遠くへ滑らせる。

 それからしばらく無言の攻防が続いたが、士郎が形勢逆転することはなかった。首に深く食い込ませた俺の腕が、士郎の意識を奪う。

「浅野さん!」

 冬夜が悲壮な声を上げた。

「大丈夫、気を失わせただけだよ。士郎さんは無事だ」

「そうじゃなくて。浅野さん、足から血が」

 冬夜の指摘に視線を下ろすと、俺の履いているアイボリーのチノパンには穴が開き、太ももから広範囲に赤い染みが広がっていた。興奮で感じていなかったが、ひりつくような痛みが遅れてやってくる。

「掠っただけだから問題ない。冬夜くんは怪我をしていないね?」

 冬夜が頷くのを見ると、今度は彼の手をとって再度走り出した。走ると足の痛みが強まり、まともな走り方をすることは叶わなかった。思うように動かない足がひどくもどかしい。

 士郎は俺たちを発見した時、応援を呼ぶような声を上げなかった。つまり、近くに張り込んでいる見張りはいないということだ。しかし、すでに銃声は響いてしまった。音を聞きつけて、他の場所を探している者たちがこぞってやってこないとも限らない。さらに、士郎が目を覚ますのも時間の問題だ。

 必死に坂を駆け下り港へ到着すると、港の先端まで走って岩陰を覗き込む。だが、先日ここにあったはずのボートは影も形もなくなっている。最後の手段を失い、落胆しかけたそのとき。

「驚いた」

 と、背後から声がかけられた。低めで落ち着いてはいるものの、若々しい少年の声。振り向けば、そこには昏い瞳をした夏久が佇んでいた。

「冬夜も一緒になって逃げようとしてるのか」

 淡々とした言葉少なな口調はいつもどおりのものだが、強烈な批判の色が滲む。彼の手には鋭く長い銛が握られていた。島の少年が持っているものとして違和感ないものではあるのだが、この状況で見るとひどく恐ろしく感じられた。

「おれたちより、自分とそいつが大事?」

「夏久違うんだ、聞いて。僕たちが見ている根っこ様は幻覚で、言い伝えもすべて、真実ではない可能性があるんだ」

 冬夜は一歩前へと進みながら必死に訴える。夏久は冷たい眼差しのまま、そんな冬夜と俺のことを見つめていた。しかし、彼は途中で言葉を挟むことも、手にした銛を構えることもしない。なにもしない、ということが、彼なりの話を聞く姿勢のようだ。

 それから冬夜は、俺が大穴の中で冬夜にしたように、言葉を尽くして説明をした。いままでのことと、これから俺たちがしようとしていることのすべてだ。俺は麻薬取締捜査官であることを証明するため、腰のオートマチック銃を見せる。そのときはじめて、夏久の表情が驚きを感じたものへと変化する。冬夜がひととおりのことを話し終えると、夏久は深く俯く。

「おれは、この銛で眞栄田さんを殺した。それが、なんの意味もなかったっていうのか」

 彼の唇から漏れる低い声に、俺は目を眇める。冬夜と違い、すでに夏久は一線を超えてしまっている。いくら真実を伝えたところで、もはや説得は無理かもしれない。俺がそう思い始めたときだった。冬夜が夏久の元へと近づき、彼の銛を持つ手にそっと手を重ねた。

「僕は、本来は僕たちが生贄になるべき存在だったことを知っていて、それを夏久に伝えなかった。言えなかった。夏久と、千秋に死んで欲しくなかったから。結局は、眞栄田さんと後藤さんより、千秋と夏久を選んだんだ。

 これは僕のエゴだ。夏久も、島の皆も、僕も、すでに大きな罪を背負ってる。でも、もし真実が別のところにあるのなら、止められる罪の一つを、軽くしたい」

 夏久は口をつぐんだまま、明確な返事をしない。すると、冬夜は重ねた夏久の手を持ち上げ、夏久の持った銛の鋭利な先端を、自らの喉に押し当てた。

「僕と浅野さんを見逃してくれないのなら、夏久が僕を殺してくれる?」

 驚きに見開かれた夏久の瞳が揺れ、すぐに歪んだ。それは笑顔のようでいて、いまにも泣き出しそうにも見える複雑な表情だった。

「おれに、できるわけないだろ」

 二人は笑いあい、静かに額を触れさせ合う。そうして、お互いの絆を確かめ合うような時間が数分ほど流れたとき。遠く、坂の上から人の話し声が聞こえてきた。夏久はすぐさま顔をあげ、俺をまっすぐに見つめる。

「もうすぐ、親父が漁から帰ってくる。その船で、おれも浅野さんと冬夜と一緒についていく」

「待ってくれ、立川さんの説得はかなり難しいと思う。瀬戸さんと同じくらい、立川さんはさまざまな細工の中核にいるのだ」

「心配しなくても、親父には話さない。免許は持ってないが、おれは船が操縦できる。船をクレーンで港から上げる作業はおれが任されるから、港から人がいなくなったのを見計らって出港しよう。それまで、岩っこに隠れていてくれ。準備が済んだら迎えにいく」

 坂の上から聞こえてくる声が大きくなる。

「ここは誤魔化しておくから、早く行って」

 夏久の言葉に、先ほどとは逆に冬夜が俺の手をとり、岩っこの方へと走り出した。

「忘れるな」

 背中に、夏久の声が届く。

「ここにいる根っこ様が本物なら。おれは冬夜にあんたを殺させる」

 走りながら振り向いた。首を傾げるような仕草をしている根っこ様が、夏久の横で静かに佇んでいた。

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