第四章 浮かぶ
一 確信 -1-
思いもよらなかった形で後藤との再会を遂げた数分後。冬夜は、我に返ったように張り詰めた声を出した。
「僕、人を呼んできます。浅野さんはここにいてください」
続いて彼が走り出す音も耳に届いたが、俺は、その後ろ姿を見送ることもしなかった。目の前にある後藤の死体が信じられなくて、彼の無惨な姿を見つめ続ける。
恐る恐る後藤の口頭部を探ると、そこには大きな陥没した傷跡があった。主に目と口から吹き出していた水は、ここから体内に侵入していたのだ。冷たくぶよぶよとした感触が指に触れて、背筋に悪寒を走らせる。
「後藤さん、いったいどうして……島を出たんじゃなかったんですか」
もはや答えてはくれないと知りながら言葉をかけたとき。俺は、後藤の右の拳が不自然に固く握られていることに気がついた。彼は全身が死後硬直により強張っているが、それにしても、左手と見比べると違和感がある。
指を一本一本引き剥がしていくように、俺は苦心して彼の右手を開かせた。握られていたのは、小さなプラスティックのケースに収められたSDカードだ。後藤が島での撮影に主に使用していた、デジタル一眼レフカメラの記録媒体だろう。ただし周囲を見回しても、彼がいつも持ち歩いていたカメラ本体は見当たらない。どうしてこんなものを握り込んでいたのか。そう疑問を感じながらSDカードを眺めていたが、背後から複数人の足音が響いてきて、SDカードを自分のポケットの中へ咄嗟にしまい込んだ。
頬を濡らしていた涙を手の甲で拭い、振り向くと、そこには冬夜・瀬戸・夏久の三人がいた。夏久までやってくるのは予想外で、彼の視界に後藤の死体が入らないように俺は立ち上がったが、夏久は後藤の死体を気にすることなく、真っ直ぐに俺へ歩み寄った。
「浅野さん、岩っこに家茂さんが……流れ着いた。それでおれが迎えに」
家茂が流れ着いた。
その言葉に一瞬喜びそうになったが、夏久の言葉の詰まり方や表情を見れば、もちろん、彼が生きて流れ着いたわけではないと想像がつく。
「後藤さんのことは、あとは私が対応いたしますから、浅野さんは岩っこに向かってください。宮松さんが村役場で車を用意して待ってくれています」
予期していなかった後藤の死に直面し、さらに捜索も打ち切られていた家茂が見つかったという知らせを受け、俺の思考は混乱をきたしはじめていた。瀬戸の言葉にはようやく頷いて、夏久の後に続いて歩き出す。
夏久がいるから良いという判断をしたのか、冬夜は珍しく、俺についてくることはなかった。
夏久と共に森を抜けて村役場に辿り着くと、宮松が待っていた。彼の運転するミニバスに揺られ、港へ降っていく。
道中に、夏久から経緯を聞いた。いまから二時間前に、島の漁師の一人が、家茂の死体が岩っこに流れ着いているのを発見したらしい。すぐさま士郎と川中がそちらに呼ばれ、彼らはいまもそこにいるので、枯沢のことは伝えられていないのだという。俺を呼ぶために夏久が宮松と共に戻ってきて、瀬戸に俺の行方を聞いているところで、人を探しに行った冬夜とはち会ったということだ。
車で行ける限界の港に到着すると、そこにはすでに人だかりができていた。車から降りた途端、人の輪の中心にあるのが家茂の死体だということに気がついた。
海産物が腐ったような、強烈な悪臭がする。
「士郎、川中先生、浅野さんをお連れしたよ」
宮松が俺を先導して声をかけると、壁のようになっていた人の輪が崩れた。ブルーシートの上に横たわる家茂の姿が露わになる。水面に叩きつけられた衝撃か、それとも長いこと波によって岸壁や岩場に打ち当てられたからなのか。家茂の体は、全身のあちこちが人の体としてあらぬ方向へと曲がっていた。緑色に変色した肌は膨らみ、腐りかけている。
臭いの発生源はここだった。俺は言葉を発することもできず、ただ込み上げた吐き気を抑えるために、口元を手で覆った。
「酷なものを見せてすみませんね、浅野さん。ただ、家茂さんだって確認できるのならしてもらいたくて。はじめは岩っこで発見されたんですが、あそこは足場が不安定なもので、皆でこちらに運んできました」
士郎の言葉に、俺は頷く。家茂の顔を知っているはずの士郎や川中でも、それが家茂だと断定するのは難しいほどの損傷具合だった。
「いえ、大丈夫です。教えてくださって、ありがとうございました」
極力いつも通りの声を発することを意識して、俺は改めて家茂の姿を見る。水に濡れて、さらに過酷な環境にさらされたことを物語るようにボロボロになっているが、その死体はつなぎの作業着を身に纏っている。間違いなく、彼が身を投げた時に着ていたものと同じである。さらに彼の髪型や髭の生え方も、家茂のもので相違ない。
「家茂さんで、間違いありません」
口の中に溜まっていく唾液を、意識して嚥下しながら答えると、宮松は深く息を吐く。
「どうして、こんなことになってしまったんだろうね……」
その宮松の声には深い実感がこもっていて、嘘を言っているようには聞こえなかった。
ふと視線をあげると、人の輪から少し離れた位置に立っている立川を見つけた。彼の姿を目にした瞬間、俺の中に、怒りに似た感情が込み上げてくる。その感情に突き動かされるまま走り、彼の胸ぐらを掴んだ。
「あなたが……あなたが! 後藤さんを乗せて、八丈島まで送り届けるはずだっただろう。港を出航したあと、いったい彼になにをした!」
俺の行動に、周囲にいた人々は驚き、慌てて俺の体を抑えて立川から引き離そうとする。俺に胸ぐらを掴まれた立川本人も、なにを言われているのか分からないというような表な表情を浮かべていた。
「落ち着いてください、家茂さんの体の傷は誰かがやったものではないのですよ」
俺の体を抑えながら、士郎が勘違いをして俺に語りかける。
「違う!」
叫ぶと、背後に立っていた夏久が俺の言葉を引き継いだ。
「さっき、枯沢で後藤さんの遺体が見つかったそうです。後藤さんを八丈島まで送り届けたのは父さんだから、それで浅野さんは父さんを疑問に思ってるんだ」
「なんだって?」
後藤の死体が見つかったという情報を聞いて、士郎をはじめ、その場にいた全員が次々に驚きの声をあげる。立川もまた同様だった。彼らはこのときになってようやく、俺の着ている服が濡れていることに気づいたようだ。後藤の体からはほとんどの血がすでに流れ出てしまっており、俺の服に血はついていなかった。
「俺が後藤さんに危害を加えたと思っているなら誤解です。俺はたしかに後藤さんを八丈島の港まで送り届けました。船を降りた後藤さんを見送って、それきり引き返してきましたから。そのあと、後藤さんがどうしたのかはわかりませんが」
「ではどうして、後藤さんの死体がこの島で見つかるのだ」
「それは……」
立川が言い淀んだとき、様子を見ていた漁師の一人、坊主頭の男が思い出したように声を上げた。
「今朝、と言っても俺たちが漁に出る前だから、ほとんど夜中だが。この港に見慣れぬ船が停泊しているのを見つけたんだ。もしやその船で戻ってきたんじゃねぇのか」
「その船はいま、どこにあるんだね」
「特になにもしてねぇから、そのままあると思うが。こっちだ」
宮松が尋ね、坊主頭の漁師が歩き出す。
俺はしばらく立川の顔を見つめ続けていたが、息を漏らすと彼から視線を外し、漁師のあとを追う。向かったのは、港の裏とでも形容されるべき場所だった。港につながった岩に隠れた辺りで、港の先端まで回り込まなければ視界に入ることはない。そこに、一隻の船が繋がれて波に揺られている。船と言っても、立川など島の漁師が使う漁船より二回りほど小さく、船室もない。エンジン付きのボートと呼んだほうが正しいだろう。
そのボートの上には、荷物も丸ごと残されていた。俺には一目で、後藤が島を去っていく時に持っていった荷物であることがわかった。
「このように小さな船で、八丈島から勾島までやって来ることは可能なんですか?」
愕然とした思いのまま問いかけると、立川が答えた。
「この辺りの海は波が高いので、高波に煽られての転覆の危険はありますが。燃料を余分に積んでいれば、不可能ではないでしょうね。逆に、小さいからこそ着港する技術がいらなかったとも考えられる」
坊主頭の漁師が船に降り、乗っていた荷物を桟橋に上げた。俺はそれらに近づき、鞄の中身をたしかめていく。
「どうですか、浅野さん。それは後藤さんのものなんですか」
宮松に問いかけられ、頷く。鞄の中からは後藤愛用のデジタル一眼レフカメラを見つけた。電源を入れようとしてみるが、いっさいの反応をしない。海水に濡れたかなにかで、壊れてしまったのだろうか。
「では、後藤さんは今朝、この島に戻ってきていたということか」
宮松の続けた言葉に、俺は、本当は反論をしたかった。後藤はあれだけ島から出たがっていたのだ。自ら戻ってくることなどあり得ない、と。しかし、こうして物証らしきものがある以上、認めるより他ない。
「立川さん、乱暴なことをしてすみませんでした」
低く謝罪の言葉を述べると、立川は構わないと言うように、逞しい手で俺の肩を軽く叩いた。
頭上で低く、ゴロゴロと雷鳴が鳴る。間を置かず、大粒の雨が降り出した。
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