三 綱様 -3-
その日の夜。部屋で聞き耳を立てていた俺は、社務所内から物音が消えたことを確認すると、廊下へと出た。社務所ではすでに俺を含めて三名しか生活しておらず、全員が同じ部屋に揃っていても、そう騒がしいわけでもない。いまは、それにも増して人の動く気配すらなく、家中がしんと静まり返っている。冬夜も瀬戸も眠りについたのだろう。
細心の注意を払いながら、歩いて玄関口まで向かう。壁にかけられている時計を見ると、長針と短針は重なって垂直に立ち、真夜中を指し示していた。
社務所の玄関は引き戸になっているため、戸を開けるときにどうしても音がしてしまう。カラカラという乾いた音が、いやに大きく響くような気がする。細く戸を開けると、その隙間から体を滑らせるようにして外へ出た。
街灯などはなく、辺りは一面の暗闇だ。見上げれば雲の合間に星々が煌めいている。体感はそうでもないが、上空の風の強さは、流れていく雲の早さによって見て取れた。
俺は社務所からしばらく歩いて離れたところで、後藤からもらった懐中電灯をつけた。手にたしかな重みを感じる大きな懐中電灯は、辺りをよく照らしてくれる。懐中電灯を向けた方向だけが、黒い紙の上に風景を切り取って置いたように、はっきりと見えていた。
森の中を歩いて村役場まで抜けたが、そこから見える施設や民家にも灯りはなく、集落全体が眠りに包まれていることが窺い知れた。調査へ出ていても、いつも日が暮れると社務所に帰ってきていたので、夜の勾島ははじめてだ。もう何度も通って見知ってきた道が、夜になるとまったく違う場所になっているような錯覚を覚える。都会ではあり得ないほどに寝静まった集落の中を抜けていく。虫の鳴き声だけが聞こえているが、それが、なぜだかいっそう静寂を深めている気がする。誰かを伴わないで歩くこと自体もはじめてのことで、妙な心細さを感じた。
しかし、俺が向おうとしているところに、冬夜を連れて行くことはできなかった。俺はこれから春樹が埋められた墓地へと向かい、春樹の遺体を掘り起こそうとしている。理由は二つ。家茂が身投げする前に持っていたナイフの形状が、彼の体に残る傷跡と一致するかどうか確認するため。もう一つは、春樹の遺体をロープに括り付けて大穴の中に入れ、なにか反応が起きないかどうかを実験するためだ。特に後者の目的は、冬夜だけではなく、他の誰に知られても非難される行為だと理解している。だからこそ、俺はこんな夜中にコソコソと社務所を出てきたのだ。
集落を抜けると、鬱蒼とした森に包まれる。木の枝葉に遮られて月光さえも届かなくなると、久しく体感したことのないほどの深い闇が迫る。墓の位置は、春樹の葬儀のときに来たので知っている。それでも夜道を行くとなるとわかりにくかったが、方向自体は間違っていないはずだ。
手にしている懐中電灯だけを頼りにしばらく歩き続けた俺は、妙な感覚に苛まれはじめた。同じ場所を堂々巡りしているような錯覚に加え、どこかから誰かに見られているような視線を感じる。
ふと、前方で鳥の飛び立つ羽音がした。続けて木が揺れ、葉が擦れ合う。静寂の中に響いた、嗄れたような鳥の鳴き声に驚いて、思わず足を止める。
なにかにせき立てられるように早足で歩いていた俺は、そこで初めて、自分の息が相当上がっていることに気がついた。胸元に手を当て、大きくゆっくりと深呼吸を繰り返す。そうして息を整えてから、再び足を踏み出そうとしたそのとき。
背後で、ガサガサと茂みをかき分けるような物音がした。その距離は、先ほど聞いた鳥の飛び立つ音よりもずっと近い。背筋に悪寒が走るのを感じながら、俺は勢いよく振り向いた。
物音のした方向へと懐中電灯の灯りを向ける。なにもいない。しかし、そこになにかがいたことを表すように、葉が揺れている。収まりかけた呼吸が再度荒くなり、さらに心臓がうるさいほどに脈打ち出す。
今度は横から物音がして、さらに懐中電灯で追う。ガサガサという物音は続き、俺と一定の距離をとりながら、円を描くように移動している。続いて聞こえたのは、低い唸り声。姿は見えないが、茂みの揺れ方からしても、何かの獣のようだ。それも、犬猫よりもずっと大きい。森の中で体を回転させたせいで方角を見失い、もはやどっちの方向に進もうとしていたのかも、分からなくなった。
俺は、恐怖に耐えかねて走り出す。走れば走るほどに、物音も俺を追って移動してくる。さらに走る速度をあげようとしたそのとき、木の根に足をとられた。体のバランスを崩し、その場に倒れ込む。
地面に座り込んだまま背後を振り返ると、ようやく、そのものの姿を正面から捉えることができた。取り落とし、地面に転がった懐中電灯が、対象をたまたま照らし出す。それは、獣ではなく人だった。
その者は光の反射で瞳をギラつかせ、長い髪を振り乱し、四つん這いで俺の元へと走ってくる。異様な姿勢と姿を目撃しても、先ほどから恐怖ですくんでいる体からは、声の一つも上がらなかった。
人影は迫り来る速度そのままに跳躍し、俺に飛びかかってくる。
そのとき、聞き馴染んだ声がした。
「浅野さん!」
庇うように俺の前に躍り出た影が、そのまま獣のような人影に押し倒される。闇の中で響く激しい唸り声に、揉み合う物音。
俺は慌てて懐中電灯を拾い上げると、物音のする方向へと光を向ける。その先では、冬夜が暴れる人物を組み敷いていた。獣のような唸り声をあげている当の人物は、昼間診療所で見かけた琴乃だった。彼女は口元を血まみれにし、四肢を暴れさせてもがいている。
「浅野さん、手を貸してくださいっ」
一瞬だけ呆然としてしまった俺は、冬夜の声に我に返った。それからは二人がかりで、琴乃の体を持ってきていたロープで縛りあげる。
彼女がもはや暴れられなくなったことを確認し、一息つきながら冬夜を見て、目を剥いた。
「冬夜くん、動かないで。ひどい出血だ」
冬夜の右腕は、深く傷つき赤い鮮血が流れ出ている。琴乃の口元を怪しく濡らしていた血の出どころを知る。その傷は、琴乃に噛みつかれてできたものであることは予想できたが、とても人に噛まれた傷創のようには見えなかった。肉の一部を持っていかれ、深く抉れている。
「僕はこれくらい大丈夫です。それより……琴乃さんを家に……」
冬夜は俺に言葉を返して歩き出そうとしたが、すぐにその体からは力が抜け、地面に倒れ込む。
「アッハハハハハハハハハハ」
いままで唸り声しか漏らさなかった琴乃が、突如として人らしい、しかしひどく場違いな、けたたましい笑い声をあげていた。
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