二 幻覚 -3-

 扉が閉まると、風雨の音が一段遠くなる。本殿は屋外や社務所の中よりも奇妙にひんやりとしていて、風の流れがあり、別世界に来たような感覚になった。先ほどまで強い力で俺の腕を掴んでいた冬夜の手は、いつの間にか離れていた。

 瀬戸から、彼が持参してきたタオルを渡された。礼を言いながらレインコートのフードを外し、顔と手を軽く拭う。本当はレインコートを脱いでしまいたいが、どうせ帰りも同じように濡れることになるのだ。

「こちらで少々お待ちください」

 瀬戸に言われ、俺と冬夜は他の場所を濡らさないように、その場で立ったまま待つ。瀬戸は、一人で祭壇の横にある小部屋に入っていく。

「冬夜くん、さっきはどうかしたの?」

 一瞬あたりに静寂が落ち、俺は声を抑えながら問いかけた。

「何がですか?」

 冬夜はいつもの声の調子のまま問い返してくるが、顔をこちらに向けてくることはなかった。その様子が、俺に違和感を与える。

「外で俺の腕を引いてくれたよね。あのとき、どうかしたの?」

 冬夜と視線を合わせるように軽く背を屈ませた。俯きがちな冬夜の顔を正面から見つめる。彼はようやく、俺と視線を合わせた。その黒曜石のような透明感のある瞳には、僅かに怯えの色が浮かんでいる。そのまましばらく瞳を見つめていると、冬夜は薄く息を漏らした。そして、ゆっくりと俺の耳元に唇を近づける。

「根っこ様のことを、じっと見つめないほうがいいですよ」

 二人だけの空間で、吐息と共に耳打ちされた言葉に、俺は目を見開く。根っこ様。そう言われて、俺はなぜだか納得してしまった。先ほど鳥居の向こうに見えていた、人とガジュマルを掛け合わせてとんでもない化け物にしたような異形の姿。あれが、根っこ様なのか。

「お待たせいたしました」

 声かけと共に瀬戸が戻ってきて、俺と冬夜は同時に姿勢を戻す。瀬戸が抱えてきたのは、ひと目でかなりの年代ものだと見てとれる木箱だった。釘などは使わず、木を組み合わせただけでつくられているその箱は、一辺が二〇センチメートルほどある大きさだ。

 瀬戸は木箱を床の上へと置くと、慎重な手つきで蓋を開いた。木箱はかなり精度良く作られているようだ。ただ蓋が被せられているというわけではなく、しっかりと噛み合って気密性が高められている。たいそうな木箱の中に入っていたのは、事前に説明されていたとおり、枯れた花だった。箱の大きさのわりに、中身は箱の底の隅に僅かに入っているだけだ。ざっと数えただけでも、一〇本もないことがわかる。かなりの貴重品だというのも頷けた。

 カラカラに乾いているのでわかりにくいが、花の姿はエーデルワイスに近い。茎の先端に白っぽい塊のような花が咲いており、茎の随所に細長い葉がついている。表面には産毛のようなものが生えていて、枯れていても全体的にモコモコとした質感を感じる。

「これが根贈花です。使い方は一般的な線香などと同じく、花の部分から火をつけます。その火を消すとじわじわと燃え続けて、煙と香りを出し続けてくれます」

「記録のために、撮影しても構いませんか?」

「どうぞ。これでよろしいでしょうか」

 瀬戸は俺が撮影しやすいように、根贈を一本手にとって出してくれた。乾燥しきった根贈は固くなっているらしく、宙で縦に向けてもピンと伸びたままだった。

 デジタルカメラを構え、複数の角度から何枚かの写真を撮る。

「大変貴重なものを見せていただき、ありがとうございました」

「研究のお役に立つようでしたら、よかった」

「先ほど冬夜くんにも聞いたのですが、瀬戸さんは、この根贈が生えているところを見たことはありませんか?」

「いえ、これは時々海から流れ着くものを乾燥させているのです。生えているところは見たことがありませんね。もし島に自生しているのでしたら、安定して根贈が手に入るのでありがたいのですが」

 瀬戸からの回答は、冬夜から得たものと変わりない。

「その、海から流れ着く場所というのは決まっているのですか? 瀬戸さんがご自分で定期的に回収に行くのでしょうか」

「浅野さんも海から島の形をご覧になったと思うのですが、勾島には浜辺がございません。すべてが断崖絶壁になっているのですが、港から歩いて横に行くと海に入れる岩場まで行くことができまして、その岩場だけに流れ着くのです。正しくは、人が行ける場所がそこしかないのでしょうが。私も時々見に行きますが、島民も根贈を見つけると、この神社まで届けてくれるような形になっております」

「なるほど、では島にある根贈は基本的にはここにあるだけ、ということなんですね」

「はい……」

 不意に、雨風の音が強まった。背後から吹き込む風を感じると共に、不自然に止まった瀬戸の眼差しが、俺を通過して背後のどこかへ向かっている。

 俺は、瀬戸の視線を辿るように勢いよく振り向く。

 先ほどぴったりと閉めたはずの扉が、ごく僅かに開いていた。その隙間の向こう、細長く白い指が、建物の中に入り込もうとゆっくり蠢く。一見すれば外に誰かがいて、扉を開けようとしているようにも見える。

 その指は、明らかに五本以上並んでいる。

 ——バン!

 と激しい物音がして、俺は体を震わせながら視線を戻す。瀬戸が木箱を勢いよく閉じた音だった。

「片付けてまいります」

 瀬戸は努めて平静を装った声で言い、箱を持って、再び祭壇横の小部屋の中へと戻っていく。

 俺は息を漏らしながら、改めて振り向く。扉は薄く開いて、外からの強風を吹き込ませているだけ。中に入り込もうとしている不気味な指は、跡形もなく消え去っていた。

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