4-3・人間の村

 翌朝は空腹で目が覚めた。考えてみれば昨晩はなにも食べずに眠ったのであった。昼食は馬車の中で商人からパンのようなものをわけてもらったが、まさか人前でエデルと同じものを食うわけにも行かず、その食い残しだった。ぐるぐると不満を訴える腹を擦り、ナイトレイは苦笑した。たった一週間で贅沢になったものである。


 隣のベッドはと見れば、まだエデルは眠っていた。未明ということとナイトレイが窓側のベッドを使ったこととで、その寝顔に落ちる影は濃い。いつもは時間に追われながら起床を促すので、こうしてまじまじと眠る少年を見るのは初めてのことであった。抜けるような白い肌に赤みの濃い髪のコントラストが美しい。生まれがいい者は見目まで良いんだなとぼんやり考えた。


 することもさすがにないのでそうして少年が起きるまで待ち、ベッドから起き上がったり車椅子に座ったりするのを介助していると、徐々に外から人声が聞こえるようになってきた。大窓から伺ってみると、どうやら女たちが食事の支度をしているようだ。昨晩は暗くて見えなかったが家々の間に井戸があり、そこに集まって野菜かなにかを洗っている様子だった。


 ご意向を確かめようと振り返ると、猫のような目がまん丸く見開かれてナイトレイを見上げていた。見たことを伝えれば少し考えて首を振る。ひとまず朝食くらいは用意してもらえるだろうということになり、そのまま待つことになった。


 扉がノックされたのは小一時間ほど経ったあとだった。ナイトレイが扉を開くと昨晩の男が深々と頭を下げていて、エデルに向かって「ご朝食の準備が整いました」と言う。男の背後には黒髪の女が一人立っていて、ナイトレイの視線に気づくとにこりと笑顔を浮かべた。


 車椅子を押してナイトレイは家の外に出たが、そこで男が割り込むようにハンドルを握ってきた。思わず取り返そうとすると、男は陰鬱な眼差しをナイトレイに向けてから首を振った。


「ご案内致します」


 そう言ってエデルを連れていこうとする。連れて行かれる本人がなにも言わないのでどうすべきか迷っていたところついと腕を引かれて、見下ろせば女がナイトレイのすぐ隣に寄り添うように立っていた。エデルの横顔がそれを確かめ、ひらひらと手を振った。行ってこいと言っているのだろう。


「おはよう」


 なんだか取り残されたような気分で遠ざかる二人を見送っていると、女の声がそう言った。今さらになって彼らとの距離の取り方を聞き忘れていたことに気づいたナイトレイであるが、すでに聞くべき相手は彼方である。


 こうして自由に歩いている人間は市民権とやらを得ていると考えて良いのだろうか。市民権を得ている人間の権利が魔の者とほぼ同等ということは、彼らの前では奴隷らしく振る舞わねば何らかの罰が降ると考えるべきか。いや、相手が奴隷であったとしても丁寧に接しておいて損はないはずだ。


 跪こうと膝を折ったナイトレイだったが、腕を思いのほか強い力で引かれて思わず女の顔を見上げた。女は笑顔を浮かべたまま、なよやかに首を振った。そうして「おはよう」と繰り返す。


「おはようございます」


 ナイトレイがそう言うと、女は嬉しそうに頷いた。


「ハル。ハル、ムライ」自身の鼻先を人差し指で示しながら女は言った。ナイトレイは首を傾げたが、女はなおも繰り返す。「ハル、ムライ。ハル。ハル」


 名乗っているのかと気づいてナイトレイは自身の胸元を示して言った。


「ナイトレイ。ベネディクト・ナイトレイ」


「ハル」女はもう一度自身の鼻をつついてから、その指をナイトレイに向け「ナイトレイ」と言った。それからなにか口早に続けたが、その言葉は理解不能である。響きからして魔の者の共通語とも違う、なにか別の言葉であったように聞こえた。女はナイトレイの腕を両手で抱くと、エデルが消えていったほうとは別の方角に向けて引っ張った。来いと言われているのだと理解して、ナイトレイは戸惑いつつも従った。


 案内されたのは三角屋根の家々のうちの一軒だった。間取りは一夜を過ごした家とそう変わらない。一間の大きな空間があり、その床にはなにかの獣の皮を剥いでそのままなめしたらしいカーペットが何枚か敷かれているきりだった。カーペットの上には男女が六人、丸く円を描くように座っている。彼らの中心に土色の皿がいくつか並べられていて、どうやら自分たちを待っていたものらしかった。


 ハルと名乗った女に腕を引かれるままナイトレイが円陣のあいたところに座るなり食事が始まった。誰もなにも喋らない。ただ、皿に盛られた食事をおのおのつかみ取るだけである。ハルも皿に手を伸ばし、薄く焼いたパンのようなものに正体不明の青菜を挟んだものをひとつつかみ取るとさっそく口に運んだ。様子を見守るナイトレイの視線に気づくと、目顔で皿を示す。おずおずとナイトレイは皿に手を伸ばし、その謎の食品を一口頬張った。


 パリッと硬い生地のあと、ねっとりと噛み切りにくい青臭さが漂ってくる。初めて食べる食感のそれは美味いとも不味いとも言い切れず、また腹を満たすにはあっさりしすぎているような気がした。もちろん、供されるものがあるだけありがたいので文句は言わないが、これが彼らの常食なのだろうかとナイトレイは目だけを動かして食事の様子を観察した。


 それはなんとも異様な光景に見えた。誰も一言も口をきかないが、かといって沈鬱に黙りこくっている様子でもない。それでいて食事に喜びを見いだしているようには見えず、ただ黙々と作業のように口を動かしているだけである。集う男女に血のつながりを感じさせるものは一切なかった。年齢にも規則を見いだせない。あえて言うなら全員が大人というくらいか、それ以外はおそらく人種もバラバラだ。


 ナイトレイがパンのようなものをひとつ平らげると、それを待っていたようにハルがその手を取って黒っぽい粒を盛ってきた。なんだろうと目に近づけてみると、それは干しぶどうのようだった。試しにひとつ口に入れてみたが間違いない。ひとつずつ摘まむのも面倒で一気に口に放り込むと隣でハルが目を瞠って笑った。この食事の席において、こぼされた笑いはそれのみであった。


 食事が終わると男たちは部屋を出て行き、あとには片付けを担当しているのだろう、女たちだけが残った。ハルがまた腕を引いてきたのでナイトレイはそれに従った。


 連れて行かれたのは今度は広場だった。夜には誰の姿もなかったが、今は何十人かの姿がある。人々は何人かでグループを作り、思い思いの場所に座ってなにか作業をしているようだ。ハルはそのグループのひとつひとつにナイトレイを連れて行っては、なにか喋れというように口をパクパクと動かして見せたのでこれも従っておいた。


 それは何グループ目のことだったか、草を編んで籠を作っているとおぼしきグループに向かって話しかけた時だった。


「やあ、ご同胞か。こいつは久しぶりだ」


 茶色の髪をした男が編みかけの籠を放り出して両手を開いた。男は立ち上がると親しげにナイトレイの肩を抱き、握手の形に手を差し出してきた。応えて握手を交わし、ナイトレイは目をパチパチさせた。そう言われても、全ての言語は英語に聞こえている。


「イングランド人だろ? ええ? どこから来た?」


 いや、とナイトレイは耳をすませた。若干だがコックニー風に訛っているだろうか。少なくともエデルや他の魔の者の言葉とは違っているように思えた。


「最後にいたのはロビンストンの辺りです」


 そうナイトレイが答えると男は大げさに肩を揺らして笑った。


「そうかそうか、俺はロンドンで死んだんだ。いやあ、あの年の流行病には参ったね。俺はルパート・ブラウン。ルパートと呼んでくれ」

「ベネディクト・ナイトレイです。ナイトレイと呼んでください」

「いやいや、そんな風にかしこまる必要はないんだぜ。ここには人間しかいないんだ。ああいや、今は若干違うが、ともかくだ。同じ国に生まれた者同士だ、変な遠慮はなしでいこうや。それで? こっちに来てからはどのくらいになる?」

「一年です……ああいや、一年くらいだ。そっちは?」

「ははん、じゃあ俺はさしずめ大先輩だな。しっかり数えちゃいないが六年がとこはこっちにいる――ああ、ハル、ご苦労だったな。あとはこっちが引き取るぜ」


 ルパートはそう言ってハルに手を振った。ハルは笑って手を振り返し、それからナイトレイにも手を振ると小走りに駆けていってしまった。見送っていると、どうやらグループのひとつに加わることにしたようだ。赤土の上にスカートを広げて座り込むのが見て取れた。


「ジャパニーズは初めてか?」とルパートが尋ねてきた。

「ジャ……なんだって?」

「ジャパニーズさ。アジアの端っこにある島国の人間のことだ」

「ああ、初めてだろうな。聞いたことがない」

「へえ、それじゃそっちはずいぶん昔の出身か。俺は一八九七年に生まれたんだぜ。死んだのは一九一九年。機械の時代だ。といっても想像がつかないか」

「なんとなく、エデル様からは聞いている」

「へえ、それがあのご主人様の名前か」


 ルパートのその言葉には軽侮のようなものがこもっているように聞こえた。


「この村には人間しかいないと聞いたが、それは本当なのか?」


 ナイトレイが質問すると、ルパートはくるりと目を回してみせた。「そう見えないかい?」と言いながらおどけたように両手を広げて広場に集う人々を示してみせる。


「あいにく」とナイトレイは首を振った。「魔の者か人間か、俺には見分けがつかない。見分ける方法があるのか?」

「あんた、もちろん紅茶ブラックティー派だよな?」


 聞いたことがない単語である。ナイトレイが首を傾げて見せるとルパートは大笑いした。


「なんだ、紅茶も知らないくらい昔か! こいつは参ったね! それじゃ、初体験といこうか。こっちだ、ついてきな」


 ひょいと顎を振ってルパートは歩きだした。ずいぶん陽気な男だなと思いつつ、ナイトレイは広場に集う人々を見渡した。心なしか、先ほどより数が増えている気がする。その誰もが口をつぐんで黙々と作業をしているように見えた。その光景が先の食事風景と重なり、なるほどと考えた。喋ろうにも互いの言語が一致しないから黙っているのかもしれない。おおい、とこちらを呼ぶ声に答えてナイトレイはその場をあとにした。

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