2-2・エーデルフリーデ
「許しもないのに奴隷が口をきくな。その程度の学びも得ていないのか。だとしたら、奴隷小屋に逆戻りしてもらうことになるが」
その口から漏れる言語はやはり英語だ。懐かしい言葉への感情とこれまでに受けた仕打ちへの感情がナイトレイの内側でぶつかり合い昂ぶった。それでもぐっと押し黙ったのは、もちろん少年の脅しがあったからだ。
「なぜ、立ったままでいる」
少年の声は
「お前は今から俺の専属だ。身の回りのことを担当してもらう。もとは武術かなにかを修めていたようだと聞いているが、間違いないか」
ナイトレイはわずかに顔を上げ、目顔で発言の許しを請うた。鷹揚に少年が頷いたので、再び目線をカーペットにやって答えた。
「基礎は幼い頃に学びました。あとは実戦で培ったものばかりです。以前は傭兵団を率いて、
「
「そう呼ばれていました。獣の姿をした、けれど獣ではない悪獣です」
「デーモンか。そいつは……」と繰り返した少年の声には薄い笑いが滲んでいた。隣に立つあの黒い上着の男のものだろう、別の声がわからない言語でなにかを言い、それに応えて少年は次にはっきりと笑い声をあげた。
「ますます、おあつらえ向きだ。いざというときには俺の剣になるがいい」
少年の操る英語にはフランス風の訛りがあった。とはいえ、その英語は下流階級の者が使うものでも、下町辺りで聞く雑多なものでもない。教師かなにかに師事して、文法から発音まで系統立てて学んだ者だけが持つ気品があった。
「お伺いしても良いですか」
ナイトレイはその響きを胸中に確かめながら、すがるような早口で言った。
「構わない。だが、その前に名を名乗れ」
「ベネディクト・ナイトレイといいます。ナイトレイと呼んでください」
「では、ナイトレイ。質問を聞こうか」
「ありがとうございます。ここは何処なのでしょうか」
それはこの生活を始めることになってから、ずっと頭の中でひねり回していた疑問だった。ナイトレイは、イギリスはロンドンの中産階級の家に生まれた。それが奴らの襲撃に遭って逃亡生活へと転落したのが三歳の頃、四歳を数える頃にはすでに王都ロンドンは陥落して新王都としてアイルランド島南部にあった田舎町ウォーターフォードが選定されていた。そのウォーターフォードで暮らしていたのが五歳の半ばまで、以降は新王都を離れて騎士の見習いをやったり傭兵の真似事をやったり、それが腕前を認められて一隊を任されるようになり、ついには団長にまでのし上がった。つまりは拠点を転々と移していたのだが、ここの風景はそれまでに見たどことも似通ってはいなかった。
故郷は常に肌寒く、王都は雨や霧が多く、新王都もどこか陰鬱な雲に覆われていて、ナイトレイの生家はそうではなかったが、町々には糊口をしのぐ人々の恨み節が常に満ちていた。新鮮な魚介類は王様のもので、肉はウサギやシカやカモがよく捕れたが、それとて基本的には貴族の食べ物だ。庶民は少ない小麦に混ぜ物をしてパンを焼き、苦労に苦労を重ねて収穫した野菜とビールで腹を満たすのが常だった。
ところがここはそうではなかった。気候は温暖で、景色は白く煙ることなく、雨の日でもどこか空気はこざっぱりして靴の中が蒸れることはない。屋敷の中には目にも鮮やかな花が咲き乱れ、ところどころには果実と思しき明るい色の実をつける木が植わっていた。残飯のような食事を出されたとしても、中には時々誰かの食い残しと見える肉片が混じっていたりして、もとは誰が食べたかを考えればその食生活の豊かさがうかがえる。なにもかもが真逆だとさえ言って良いかもしれなかった。
「ロンドンではないことはわかっています。ウォーターフォードでも。むしろブリテン島だとかアイルランド島だとかいうことが間違っているのかもしれない」ナイトレイは早口で続けた。
「まったく別の場所――例えば、あなた様の英語にはフランス風の響きがあります。ここはその周辺ということになるのでしょうか。ずっと考えていたのですが、どうしてもわからないのです」
「その疑問は正しいな」
少年の声が聞こえて、それからじーっという――なんだろうか、虫かなにかの鳴き声のような音がした。顔を上げろと声が聞こえたのでその通りにすると、少年は一人がけのソファごと移動してガラス窓の外を眺めていた。
「ここはブリテンではない。もちろん、我がフランスでもない。お前の知る地図や歴史の上を探しても決して名前を見いだすことはできないだろう。ここはな、領主様が治める都アガルマだ。わからないという顔をしているな?」言われてナイトレイは素直に頷いた。「お前の生きた時代にこの言葉があったかはわからないが、ここはお前にとって異世界あるいは異次元というのが適当だろう。覚えておけ、お前は一度死んだ。そして領主様のご高配により、ここアガルマの地に蘇ったんだ。人間は必ずそうだ。もとの世界で死に、死にきれぬ想いを抱えた魂がさすらった結果、領主様に拾い上げられこのアガルマで生き返る。生き返ったものは皆、平等に扱われる。生前の身分に関係なく、まずは奴隷として再び生きるにあたっての定めを学ぶことになる。そう、お前が経験してきたことだ」
「俺が死んで、生き返った?」
「お前、キリスト教徒か? ああいや、ブリテンでは教えが違うのだったか」
「一応、そういうことにはなりますが。教会に行ったのは五歳が最後です」
「なるほど。では、復活は信じていなかった口か」
それを頭から肯定するのは常識的に憚られて――と言っても、少年の言葉が正しければ死ぬ前にいた場所の常識だが――ナイトレイは曖昧に頷くに留まった。
「残念ながら、ここはキリストの教えた永遠の楽土じゃない。それは身に染みているな?」
「ええ、まあ……」
「つまりお前はもう一度、人生をやり直すチャンスを得たんだ。ただし、今度は最初から皆、真実平等に一列だ。生まれも育ちも関係ない。すべては為した仕事、その結果如何で決まる。そしてお前は今、新しく仕事をしてみないかと俺から提案されているわけだ」
伺うように小首を傾げて少年はナイトレイを見た。断ることができるとでも、とは喉元まで出かかった言葉だが、それを口にするのは利口ではあるまいと口をつぐんで、ただ謝意を表して頭を下げるにとどめる。それにしてもと考えた。自分が一度死んだとはどういうことだろうか。あの夜、あの襲撃のあと自分は――。
「答えはどちらだ? 受けるか、受けないか」
「ありがとうございます。お受け致します」
伏したまま答えると指を鳴らす音が聞こえて、続いて首輪を引っ張られた。すぐ横に磨き上げられた革靴が見えるからあの執事然とした男だろう。黙ってされるがままになっていると首輪が外れ、久しぶりの開放感が首筋を撫でた。すうっと冷たい空気がそこに触れるのがすがすがしい。が、男は次にナイトレイの右手を持ち上げるとそこになにかを嵌めだした。盗み見たところ、革の手枷によく似ていた。幅の広い黒い革がぐるりと手首を覆うようになっており、革の端にこれもまた黒の紐が斜めにかけられている。しかし、手かせと違ってこれには金糸で刺繍がしてあった。わざわざ目打ちを使って穴を開けたところに複雑に糸を渡して作ったようで、なにかの文様が形作られている。どうひいき目に見ても値打ちものだと内心で呟くうちに紐が引かれて黒革のバンドはぴたりと手首に結びつけられた。気のせいだろうか、それと同時に金糸がぴかりと光ったような気がした。
「済みました」
それは英語ではあったが、明らかに少年の声ではなかった。初老に差しかかったくらいだろうか、年月を重ねた者だけが持つ深い声色だ。思わず顔を上げた先でこちらを見下ろしていた男が視線に気づき、ぱちりと片目を閉じて見せた。
「ご苦労、アベール。あとのことは頼んでもいいな?」
こちらは少年である。どうやってかはさっぱりわからないが、一人掛けのソファごと移動してきて執事然とした男――アベールを見上げて尋ねた。
「お任せくださいませ」
アベールはそう請け負うと颯爽と少年の先に立って扉を開けた。少年はそれ以上なにかを言うことなく、やはりソファごと移動して部屋の外へ出て行った。あれはなんなのだろうか、考える間に扉が閉じてソファが見えなくなる。かわりに丁寧な礼の姿勢から顔を上げたアベールがこちらへ歩み寄ってきた。
「ナイトレイと言いましたね。お立ちなさい」
どう聞いてもその話す言葉は英語だった。先ほどまでわからなかったものが何故と目を見開いているナイトレイを可笑しそうに見てアベールは言った。
「その腕輪によるものです。我々の共通語を理解できるようになり、また自らの言語を共通語として相手に聞かせることができるようになります」
おずおずと従いながらナイトレイは腕輪に触れてみた。滑らかな手触りにゴツゴツと金糸の触れるそれは、ただの派手な装飾品にしか思えない。
「同時にそれはあなたの身分を証明するものでもある。決して外すことのないように」
「さきほどの少年――いいえ、御方は」
言い直すとアベールは目に見えて相好を崩した。
「良い心がけです。あなたの身分はいまだ奴隷のまま、あくまであの方にお仕えするよう配置を換えられたにすぎない。それを忘れてはなりませんよ。あの御方はエーデルフリーデ様と仰います」
「その、領主様とは違うの……ですか」
「ここアガルマの領主様は揺籃公と呼ばれておいでです。エーデルフリーデ様はかのお方にお仕えする執行官であらせられます」
アベールは見た目にそぐわぬキビキビとした仕草で再度扉を開けるとナイトレイを手招いた。おとなしく従うナイトレイに満足したかのように頷くと廊下に出てその端まで歩く。よく見ておくようにと彼が言って、壁を装飾する彫刻のひとつを押すと微かな隙間風とともに壁面の一部が口を開けた。隠し通路である。
「こちらが使用人に許されている通り道です。先ほどは天空の通りを使いましたが」
「通り?」と思わずナイトレイはアベールの言葉を遮ってしまった。先ほどの大広間がそんな用途であるとは思いもしなかったのである。
「ええ、あれは天空の通りと呼ばれる廊下です。今いる場所には特に名前はついていませんが、使用人の間では小会議の間前と言えば通りますかね。ともかく、使用人には使用人の通るべき道があります。まずはそこから覚えなさい。くれぐれも御方々に姿を見せないよう。用を仰せつけられた時以外はないものとして振る舞うのです」
先に入るよう身振りで促されてナイトレイは壁でできた扉を潜った。背後で扉の閉まる音がする。振り返るとそこは漆喰の塗られたシンプルな壁になっていた。扉がある目印は外の光が漏れ出して作られている白い線だけだ。見まわしてみると、ちょうど人がすれ違えるくらいの廊下が少し先で曲がり角を作っていた。なるほど、使用人はせせこましい廊下を大回りして歩けということだった。ナイトレイが理解したことを把握したのか、アベールは満足そうに笑った。
「頭の回転は早いようですね。エーデルフリーデ様もさぞお喜びでしょう」
「その、名前なのですが」
考えなしに言ってしまったと思った時にはアベールが首を傾げていた。なんと言ったものかと頭の中を引っかき回したが、どうにもよい言葉が浮かばない。仕方なくナイトレイは思ったそのままを言った。
「エーデルフリーデ様は男ですよね?」
「そうですが。なにか?」
「その、お名前が女のものではないかと思うのですが」
この質問はまずかったかとナイトレイは肝を冷やしたが、アベールははてといった感じに顎に触れながら考え始めてしまった。
「そうなのですか? 不勉強かもしれませんが、わたくしはこの世界から出たことがありませんのでね。エーデルフリーデ様が元いらっしゃったと聞く場所にも行ったことがないのです。ご出身はフランスとは伺っていますがお名前のことまでは。その辺りの事情は、いずれご本人から伺うと良いでしょう」
はい、と頷きながら、それも変だなとナイトレイは思った。父親の仕事が交易商だった関係で幼い頃は外国籍の船員と仲良く話したものだが、記憶違いでなければエーデルとは神聖ローマ帝国の言葉で高貴という意味だったはずだ。フリーデも同じく平和だったろうか。これをフランス風に読むとアドルフリーダとなる。フランス人であるはずがなぜローマ風の名を使っているのか。そもそもである。ここまでの会話を聞くかぎり、エーデルフリーデもナイトレイと同じくアガルマの地にやってきたということにはならないか。では、彼も最初は奴隷から始まったのだろうか。あの少年にしか見えないものがどうやってここまで敬意を払われるようになったのか、そのいきさつを考えると謎が深まったように感じられる。案外、ここで成り上がるのは簡単なのではないか、という線は考えて即座に否定した。正確な日数は把握していないが、ここで労役を課せられて少なくとも一年は経過している。大人のナイトレイでそれなのだ。ただの少年がたいした仕事もできるはずがなし、数年やそこらでああまで至れるとは考えづらい。
つらつらと考えながら先導するアベールのあとを追い、いくつかの角を曲がって行き止まりにたどり着くまでに十分以上はかかっただろうか。通路に入った時と同じように外の光を透かす四角い線が壁に引かれており、アベールはその腰くらいの位置にある取っ手をそっと押した。取っ手に手をかけたまま外の様子を伺うようにし、それからゆっくりと開く。あとに続いて歩み出てみると、そこは先ほどの天空の通りを真四角に切り分けたような作りの部屋だった。一方に大きく口を開けた通り道があり、反対側には巨大な扉がある。その左端にこちらは小さな人間が一人くぐれる程度の扉が作り付けてあり、アベールはその扉を手のひらで示した。
「あれを出れば創造の門へ続く庭です。そこで待つように」
「待つ、とは?」
「エーデルフリーデ様がいらっしゃるので、それまで扉の前でお待ちなさい。作法は心得ていますね?」
つまり奴隷の作法であろう。忠犬よろしく庭先でご主人様を待っていろということだ。
「教えて頂き感謝します」
ナイトレイが頭を下げるとアベールはふふふと声に出して笑った。
「エーデルフリーデ様はなかなか難しい御方です。せいぜい送り返されないよう、覚悟してお仕えなさい」
言うなりひらりと踵を返してアベールは出てきた扉を潜って閉めてしまった。こうなれば腹を括るしかないだろう。相変わらずため息をつきたいのをこらえながら、ナイトレイはその小さなチョコレート色の扉に手をかけた。
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