第一話 「地下に降る血の雨」 chapter 2
後に残された少年は、いつの間にかフィルターすら焦がさんとする煙草を弾き飛ばして束の間の休息を切り上げた。
依頼の本来の目的を、彼はまだ済ませてはいなかった。やくざ者の事務所に殴り込んだ事も、その手勢を諸共皆殺しにした事もあくまで過程に過ぎない。重要な仕事はここから始まる。
血みどろの室内を見渡して、奥にもう一つ空間が広がっている事を知る。パーテーションで区切られただけの簡素な空間に歩み寄ると、声を殺して恐怖に怯える女達がいた。
首輪には鎖が繋がれて、猿轡を嵌められた口元と両手足を縛るぞんざいな縄は柔肌に食い込んでいる。鬱血したような色は薄暗闇の中でもより濃く黒猫の目に入る。
騒動の最中も気が気でなかった女達は目の前に現れた少年が何者であるのか判断出来ずにいた。まず何より、害を齎らす邪悪かどうかが彼女達には重要である。
突然強面の人間達に拉致監禁されて、奴隷としての人生を強制される運命を目前にしていたのだ。目の前の年端もいかない少年が正義か悪か、判断する材料が圧倒的に足りない。世界には見えていないだけで絶望に溢れている事を身に染みた彼女達は、ぬか喜びすら心の拠り所になる程に精神を摩耗していた。
そんな事など露知らず乱雑な動きで腰を落とした少年は、女の顔を品定めするように眺める。商品として売り出される奴隷には精神的な教育が施される事が殆どで、人間はその心の持ち様で容易く人相が驚く程に変わる。
憔悴した不健康な顔貌を見て、少年は煩わしさに舌打ちする。薄暗さと恐怖とが相俟って、目的の女の顔が結び付かないでいた。
「ーー斉藤愛美って奴探してるんやけど、自分やな?」
携帯端末を取り出して依頼主から送られた画像データをホログラム投射すると、交互に見比べた後に少年は問い掛けた。
何度か小さく頷く女が言葉にならない言葉を溢すと、気怠そうに少年が猿轡を解く。一挙手一投足に怯えていた女は呼吸さえままならない様子から少しずつ平静を取り戻していく。
「はい、そうです。お願いします。殺さないで下さい。助けて下さい」
感情を押し殺すようにして、それでいて眦からは並々と涙を溢れさせて女は懇願する。助かるかもしれないという微かな期待が胸を渦巻くも、相手の言葉を鵜呑みには出来ない。そうした結果が、今の状況を作り出しているからである。
「お前を殺しにきたんやない。父親と話は付いてる、さっさと付いてこい」
冷淡に事実を述べる少年は虎徹で手足の縄を斬り落としながら依頼内容を説明する。無駄を一切省いて彼は歩き出した。
「あ、あの! この子達は?」
斉藤はほんの少しの安堵を感じつつ、少年を追い掛けようとしてふと我に返った。解放された縄の痕が、正常な血流によって拍動する疼痛が後ろ髪を引く。
彼女は奴隷として売り捌かれる前に助け出された事を理解出来ても、同じ状況下で放置されたままの他の女達の処遇を見過ごせなかったのだ。良心がそうさせるのか、数秒前まで怯えていた人間にしては一端の正義感が芽生えたのかもしれない。
「俺の契約は、お前を生きたまま連れ帰るだけや。他は知らん」
一瞥すらせず、少年はもたつく背後の女に言葉を突き刺した。
少年は正義の味方でもなければ英雄ですらない。一介の悪党であり所詮は只のやくざ者、金で依頼を請けただけの存在である。無造作に散りばめられた死体と然したる違いもありはしない。弱者を救うヒーローのようなそれは、弱肉強食の世界においては馬鹿げている。
契約内容に沿わない要望に応える義理もなければ、何の力もない弱者の主張など聞くに堪えない。非情で酷薄な現実を前に、綺麗事たけではどうあっても生きられない。
目には目を、歯には歯を、暴力には暴力を。そうして世界は残酷に回る。
「でも、このままじゃーー」
弱さは武器にならない。それを理解出来ない斉藤は少年に尚も食い下がろうとして思考が停止する。言葉の先を制したのは、少年から漂う殺気にも似た激情を本能が察したからである。
「ーーごちゃごちゃ抜かすなや。助けたいんやったら、お前が助けたらええねん」
首だけで振り返り、少年は威圧感を伴って言い放つ。
助けたいと思うのであれば、自らの力で思うまま行動すればいい。何もしない、何も出来ない人間が権利だけを求めても取り合って貰えない事は自然の摂理である。
荒廃したこの世の中で自身の我儘を貫く為には力が必要になる。少なくとも今の彼女にはそれを望み叶える事など出来ない。
「……すみません」
上擦った声が涙交じりに少年へ届き、斉藤は悪足掻きで拘束された女を身動きだけ出来るように解放した。
不意に核心を突かれた。助けたいと願う気持ちを行動に移すかどうかは、自身が決める事でしかない。縋るばかりで動き出せない人間へと、拉致監禁された僅かな期間で身も心も奴隷のようになっている事に今になって気付かされる。
然して年齢も変わらない目の前の少年に命を助けられて、あろう事か更にその大きくはない背中へ当然のように優しさを求めていた自身は何者なのか。答えは彼女の中にしか存在しない。
少年はそれ以上は何も言わず、事務所を後にする。静まり返った死の空間には自由を取り戻した女達の啜り泣く声だけが響いた。
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