夏景

棗颯介

前篇 海の章

 青い空と白い雲。緑の山を流れる川に、どこまでも続く広い海。

 絵に描いたような美しい夏の景色がこの町にはあった。

 その代わり、それ以外には何もなかった。何も。


***


「あの、どうかしました?」

「………?」

 所用を済ませて駅前を歩いていた時、見慣れない男性が町の案内図の前で顎に手を添えているのが見えて、なんとなく声をかけてしまった。都会に住んでいた頃の自分からは想像もつかない行動だ。俺がこの町に引っ越してきて一月ほどになるが、住む場所が変わるとそこに住む自分自身も変わるものなのだと実感させられる。

「どこか行きたいところがあるんです?」

「………白崎神社という場所に」

「あぁ、そこだったら、この道をしばらく進んだ先に川があるので、そこに架かってる橋を渡ってずっと右手に進むと見えてきますよ。途中から山を登っていくことになるので足元お気をつけて」

「なるほど。慣れない土地なので助かったよ。ありがとう」

「いえ。それじゃ」

 短く言葉を交わしてその場を去った。口ぶりから察するにきっと旅行者だろう。茶髪に青い瞳という少々日本人らしからぬ風貌だったが、海外から来たのだろうか。こんな何もない町に観光なんて、奇特な人もいるものだ。俺も人のことは言えないが。

 駅前からいくらか歩いた先にこの町で住まいにしているマンションがある。三階建ての低めの建物で築年数もそこそこ古くエレベーターが無いのが不満だが、それ以外は電気も水道もガスもインターネットもちゃんと通っているので概ね満足している。特にIT系の会社に勤めている身としてはインターネットが無ければお話にならない。

 マンションの階段を昇ると、自分の部屋の玄関の前に夏の陽光に照らされた一つの人影が見えた。

「あっ、海人かいとさんお帰り~」

「ただいま。そんなところで何してるんだ、鈴音りんねちゃん」

「ママに言われて海人さんに夕飯届けに来たの。でも留守みたいだったから待ってた」

「それならせめて自分の家で待っていればよかったろう。日も落ちてきているとはいえこんな暑い季節に立ちぼうけしてたらのぼせちゃうぞ」

「あはは、それもそうだね。のぼせないうちに部屋に入れてほしいな」

「やれやれ」

 俺は懐から玄関の鍵を取り出し、手早く扉を開けて彼女を中に迎え入れる。出かける前にエアコンは切っていたが、部屋の中にはいくらか涼が残っていたようだ。

 東雲しののめ鈴音はこのマンションの隣人の女子高生だ。以前に彼女の母親と偶然マンション前で出会い、いくらか立ち話をしたのだが、その際料理が不得手であることをうっかり溢してしまい、以来こうして毎日東雲家から食事が届けられるようになっている(食費はもちろん支払っているが)。

「今日もうちで食べていくのか?」

「うん、ママ仕事に行っちゃってるから」

「前にも聞いたと思うけど、お母さんは何の仕事してるんだ?随分勤務時間が不規則みたいだけど」

「あはは、私も知らないんだよね。聞いてもはぐらかされちゃうし」

 ———世間に顔向けできない仕事してるわけじゃないよな、さすがに。

 あの温和で優しい女性が血に汚れた仕事をしている様はどうにも想像できない。馬鹿げた妄想を振り払い、テーブルに鈴音が持ってきた料理を並べて食事の用意をした。

 夕飯のカレーを二人で食べていると、鈴音が不意に尋ねてきた。

「ねぇ海人さん、四国地方って行ったことある?」

「ん?前に旅行で行ったことはあるけど」

 学生の頃から旅行は好きだった。知らない土地に行って、知らないものを見て、聞いて、感じる。それだけで自分が人として成長できるような言い知れない感動があるのだ。旅行好きが高じて、社会人になった現在は二年程度の周期で住む場所を転々として生活している。入社した会社がフルリモートのところだったというのも大いにあるが。

 そういった事情もあって俺が他の人より多少はいろんな土地で見分を広げていることを知った鈴音は、ことあるごとに俺が旅したときの話をこうして尋ねてくる。そのこと自体は別に疎ましくは思っていない。旅行はいつも一人で行っていたから、旅の感動を誰かに伝える機会もなかった。なのでそのことに対して若干の心地よさも確かに感じている。

「そっか~、香川県の人は三食うどんを食べてるわけじゃないんだね」

「それはさすがに偏見が過ぎる」

「前に学校で友達が言ってたんだけどな」

「お前、もしかしていじめにでも遭ってるのか」

「あはは、ないない」

 そんな他愛ない会話で談笑しつつ、穏やかな食事の時間は過ぎていく。そうやってて俺の皿が空いた頃にポツリと鈴音が呟いた。

「私も行ってみたいな」

「ん?行きたいならお母さんに話してみたらどうだ?ちょうど学校も夏休みだろ?」

「あはは、そうだね。そうする」

 そう返す鈴音の表情にどこか影を感じたが、その意味をこの時の俺は知る由もないし、知ったところでどうにもできなかっただろう。


***


 翌日は休日だったので、暇を持て余した俺は財布と携帯など最低限の荷物だけを持って、町に面した海沿いの道をのんびりと歩いていた。七月も後半、夏の暑さも本格化しているが、潮風のおかげで町中にいるときほどには感じない。

 太平洋に面したこの町の海の色は、以前見たことがある日本海の海とは明らかに違う。自分は海洋学者ではないのでそういうことには詳しくないし、どこの町から見るのかによっても見え方は違うのかもしれないが、とにかくこの町の海は美しい。浅瀬は透き通るような水色で、沖の方はそれより幾分濃くなった青色。水平線を境目にして夏の大空の色をとても美しく映し出している。緩やかな弧を描く浜の地形は空から見るときっと月のように見えるのだろう。

 この町に初めて来た時から何度となく訪れているが、何度見ても惚れ惚れする風景だった。元々俺は自然が好きだ。美しい景色を見ると心が癒される。たとえば芸術鑑賞の趣味を持つ人ときっと同じだ。この理不尽な世界の中にあって、素晴らしいものを目にしたときはこの世界もまだ捨てたものではないと思える。

「綺麗だな………」

「お?それって私のこと?」

「うわっ!?」

 唐突に背後から声をかけられ、思わず肩を震わせて振り返る。そこには意地の悪い笑みを貼りつけた少女がいた。

「おどかすなよ安奈あんな

「そっちが勝手に驚いたんでしょうが。海人は何してるのこんなところで。暇なの。暇なんだね。じゃあちょうどいい、私も退屈してたところだから暇つぶしに付き合え。今すぐ付き合え。付き合わないと殺す。付き合っても私を退屈させたら殺す。殺されたくなかったら早く死ね。私は一向に構わん」

「勢いでたたみかけるな。あと後半理不尽だし意味が分からん」

 安奈はこの町に来てから知り合った少女だ。ちゃんと聞いたことはないが歳は鈴音とそう変わらないほどだろう。つまり二十五の自分よりも一回りは年下の子供だ。確か最初に出会ったのはこの町に引っ越してきて間もない頃だったと記憶している。夜道を一人で歩く彼女を見て、不審者に狙われやしないかと思わず声をかけたのがきっかけだ。後でよくよく考えてみればこんな人の往来の少ない田舎町で不審者なんてまず出ないし、そうして彼女に声をかけた自分の方がむしろ不審者の疑いをかけられそうなものだったが。とにかくそれ以来、町で遭遇するたびに何かと彼女に絡まれている。

「お前、顔を合わせるたび『退屈』って言ってるけどさ。俺みたいな年上の男より学校の同級生とでも遊んでればいいんじゃないのか?」

「この町の女子は退屈なのしかいないの。あんたの方がまだマシなレベルで」

「そうか、お前友達いないんだな」

「やかましいわっ」

 安奈はふてくされて俺の腹を軽く小突いてくるが、本心から傷ついているわけではないだろう。そう察知できる程度には交流が続いている。

「えいっ」

「んな!」

 一瞬のうちに尻ポケットに入れていた財布を安奈がひったくっていた。

「ほれほれ、返してほしければここまでおいでー、だ!」

「お前、シャレにならんぞ!!」

 俺はこの生意気な少女が好きではない。口を開けば理不尽で訳の分からないことを言うし、会うたびにこうしてちょっかいをかけてくるし、完全に俺のことを玩具か何かだと思っているんだろう。

 そして今日も夏空の下、日が傾くまで俺は彼女に振り回される羽目になった。


「はぁ………」

 ようやく安奈を捕まえて財布を取り戻した俺は疲労困憊の身体で家路についていた。いくら海沿いだったとはいえ夏は夏だ。走れば暑いし汗をかかないはずはない。普段デスクワークをしていて運動不足も祟ったのかふくらはぎが痛む。これは明日確実に筋肉痛コースだろう。衣服も汗でぐっしょりと濡れていて肌にまとわりつく感覚がひどく不快だった。

 ———はやいとこ家に帰ってシャワーでも浴びよう。

「あ、海人さーん」

「………鈴音か。こんなところで何してるんだ?」

「私は学校の帰り」

「学校?今って夏休みじゃないのか?」

「うん、そうなんだけどちょっと委員会の集まりがあったんだよね。ねぇ、一緒に帰ろうよ」

「おう」

「海人さん、何かあったの?汗だくだけど」

「あぁ、タチの悪いひったくりに遭ってな。取られたものは取り返したんだがおかげで夏空の下を延々走り回された。お前も気を付けるといい」

「えぇー、この町にそんなことする人いたの。分かった、気を付ける」

 疲労で会話を続ける気力もなかったのでそれっきり言葉は交わさず静かに二人で肩を並べて海沿いの道を歩いていたのだが、途中でふと鈴音が立ち止まる気配を覚えた。

「ん、どうした鈴音?」

 見れば彼女は歩道沿いにあるコンクリートでできた防波堤に登り、遠くに広がる水平線を見つめていた。こちらから見える彼女の横顔は夕日に照らされてほんのりと薄いオレンジ色に染まっている。

「海、今日も綺麗だね。波はちょっと荒れてるけど」

「なに黄昏てるんだよ」

 俺も他人のことは言えないが。

「ねぇ、海人さんは旅人なんだよね」

「旅人って。まぁ旅行は好きだけど、旅人ってつもりはないな。ちゃんと拠点がこの町にあるし。本当の旅人っていうのは拠点とか帰る場所がない人のことを言うもんだと思うぞ」

 まぁ、住む場所を転々としているのはそうだし、そういった意味でどこかに定住しているわけではないというのも事実かもしれないが。

 そう告げると、鈴音はどこか寂しそうな表情を浮かべた。

「———もう少ししたら鈴音も高校卒業だろ?町の外へでも海の外へでも自由に旅立てばいいさ」

「………ねぇ、海人さん。あの海の向こうには、空の向こうには何があるんだろう」

「うん?方角的には、オーストラリアとか?いやそこから見てる方向だともうちょいズレるか。フィリピンとかその辺かな」

「そっか。世界って広いよね、本当に」

「何なんだよ。今日はやけに神妙だな鈴音ちゃんは」

「あはは。私だってそういうお年頃なんだもん」

 ようやく鈴音が笑ってくれて、少し安心する自分がいた。

「海人さん」

「ん?」

 鈴音がこちらに向き直った。

「私、いつか旅がしたい。自分の目でいろんな景色を見て、知って、感じたいの。そうして、いつか見つけるんだ」

「見つける?何を?」

「———私の居場所」

 彼女が口にしたその言葉を聞いたとき、何かがどうしようもなく、俺の心の深いところまで響いたような気がした。

「鈴音、お前は………」

 俺の中で東雲鈴音という少女に対する見方が変わったのは、間違いなくこの時の会話が切欠だった。

 俺と彼女は似ている。

 二人とも、何かを探している。

 そう。探しているのはきっと、俺も同じだ。


 俺が旅を好きな理由は知らない土地に行くことが好きだから。美しい風景を観ることが好きだから。世界を好きになりたいから。そこに嘘偽りはない。

 世界を好きになりたいというのは、今の世界が好きじゃないというのと同じだ。

 俺にとっての日々の日常は、決して不幸なものだとは思っていない。今住んでいるこの海辺の田舎町だって、都会と比べて不便だけれど心穏やかに過ごせているし、よそ者の自分を気にかけてくれる人だっている。

 でも、心のどこかで満ち足りない想いがある。それはきっと金やモノで満たされることはないものなんだ。何かもっと大きな、例えば、自分が生きる意味だとか目的だとか、そういうものでないといけない気がする。それは“居場所”と言い換えることもできるだろう。

 自分が納得できる、漠然とした心の空白を埋められる何かを俺は探している。いつの頃からか。

 もしかすると探したところで一生見つかるものではないのかもしれない。それでも俺はそれを見つけたい。

 俺がこの町に来たのだって、きっとその何かがここにあるかもしれないと思ったからなんだ。


▼▼▼


「う~ん………?」

 俺が初めてこの町にやって来たのは、今から半年ほど前のことだった。

 当時の俺は遠く離れた別の町に住んでいて、そろそろ次の引っ越し先を探そうと仕事の合間を見て各地を訪問していたのだが、この町もその中で立ち寄った場所の一つ。

 慣れない土地のバス停の時刻表を前に、自分が次に乗るべき便はどれかと目を泳がせているとき、不意に声をかけられたのだ。

「お兄さん、どちらまで行かれるんですか?」

「えっ?」

 振り返ると、見知らぬ妙齢の女性がいた。恰好を見ても特に目立ったところはない。本当にどこにでもいるご婦人、といった出で立ちだった。

「えっと、早瑠璃はやるり駅っていうところまで」

「早瑠璃っていうと、あれかな。山に入って、近くの川辺に温泉旅館があるところ?」

「はい、そこです」

「それだと、十六時十五分発のバスに乗るといいですよ。だいたい二十分くらいで着くと思います」

「あっ、そうなんですか。分かりました、ありがとうございます」


 翌日にも同じようなことがあった。

 予定よりも遅れて宿を出た俺は乗る予定だったバスを乗り過ごしてしまい、仕方なく一人でスーツケースを引いて山道を歩いていた。目的地である麓の電車の駅までは歩きだと一時間以上はかかるし、山の中には自動販売機もなければ店や民家もろくにない。車の通りもほとんどない道でタクシーなんかも拾えそうになくて、もう諦めて歩くしかないと思っていた時、目の前を通り過ぎた軽自動車が徐に停止して、運転席から小柄なおばあさんが出てきた。

「お兄さん、どこまで行くの~?」

緒嬢おじょう駅までです」

「乗っていき、私もちょうど駅前通っていくから」

「えっ、でもいいんですか?」

「かまわんよ、一人で荷物引いて山道歩くの大変やろ」

「あ、ありがとうございます!」

 生まれて初めて知らない人の車に乗せて送ってもらった。それなりに旅をしてきたけどヒッチハイクさせてもらったのはこれが初めてだった。駅前で下ろしてもらうとき、おばあさんに何度も何度もお礼を言って頭を下げた。「このご恩は一生忘れません」なんて常套句を自分が言う日が来るなんて。


 初めてこの町に来た時にそれなりにいろんなものを見て心動かされたけど、見知らぬ人たちに親切にしてもらったことが何よりの思い出だ。

 こんな風に誰かに親切にされたのは随分と久しぶりだったんだ。ただただ嬉しくて、ありがたくて、心が温かくなった。それは今まで旅したどんな場所でも経験したことがない感覚で。

 次の旅の行き先はここにしようと、そう心に決めた。


▲▲▲


 マンションに着く頃には陽もすっかり落ちていた。昼間の熱が少しばかり下がり、身体に纏わりついていた汗の不快な感覚もいくらか薄らぐ。夕涼みというやつだろうか。

「あら、黒崎くろさきさんに鈴音じゃない。お帰りなさい」

「あ、ママ。ただいまー」

「どうもです」

 マンションの入り口の前で声をかけてきたのは鈴音の母である初音はつねさんだった。いつもと変わらずにこやかで温和な笑みを浮かべていて、物腰柔らかなその姿からはマイナスイオンか何かが発せられているような気持ちになる。一緒にいるととても心穏やかになるというか、すべてを包み込む母性を感じさせる女性だった。

「初音さんも今お帰りですか。お仕事お疲れ様です」

「うん、これからすぐお夕飯作るから、二人とも待っててね」

「「はーい」」

 世の母親がみんな初音さんのような人だったら世界はどれだけ幸福になるだろうか。

 それから部屋に戻って軽くシャワーを浴び、冷蔵庫にあったチューハイを一缶のみ終えた頃に初音さんが夕飯を持って訪ねてきてくれた。

「お待たせ。冷めないうちに召し上がってくださいね」

「ありがとうございます。………そういえば初音さん、少し聞きたいことが」

「はい?」

「鈴音―――娘さん、今夏休みですよね。どこかお二人でお出かけされる予定とかはないんですか?」

「うーんそうですね。そうしてあげたいのは山々なんですが、私もちょっとまとまった時間が取れそうになくて。休日も町内会の集まりとかでいろいろ予定が入っちゃってますし」

「だったら、僕が娘さんを連れて出かけるのは、まずいでしょうか」

「えっ?」

 一瞬初音さんの表情が無になったように見えた。それくらい予想だにしない提案だったのだろう。

「いや、娘さんが旅行したいって言っていたもので。僕もじきに会社が夏季休暇になりますし、少し遠くへ羽を伸ばしに行こうかと考えていたのでちょうどいいかなと」

「えっと………」

 普段穏やかな表情を見せる初音さんが、明らかに困惑していた。まぁ、それなりの期間こうしてご近所付き合いを続けさせてもらっているが、やはり一人娘をよその男に預けるのは抵抗があるだろうというのは分かる。

「———そう、ですね。あの子がそれを了承するのでしたら、黒崎さんにお任せします」

「っ、ありがとうございます!!」

 俺は初音さんに深々と頭を下げた。鈴音が聞いたらきっと喜ぶだろう。今年の夏はどこに行こうか。いや、行く場所は本人に決めてもらう方がいい。あの子にとって思い出に残る楽しい旅にするんだ。


***


 翌日の正午、食事を届けに来てくれた鈴音に旅行の話をした。

「え、海人さんと旅行?」

「うん。どうだ、一緒に。それとも、俺と行くよりも一人旅の方が好みだったか?」

「あ、ううん。そんなことない。すごく嬉しい。うん、行くよ、絶対行く!えへへ、どこがいいかな~」

 そう言って期待を膨らませる鈴音の笑顔を見て、俺の心も満たされる。最初にこの町に来た時に自分を助けてくれた名も知らないあの人たちもこういう心持ちだったのかもしれない。

 行き先を考えておくように鈴音に告げて、受け取った食事をいただいた。本日のメニューはちゃんぽん麵。いつも通り初音さんの料理は美味しかった。

 

 午後、家で進めていた仕事がひと段落したところで気分転換をしようと家を出た。外は夏らしい良い天気だ。青い空と白い雲。視線を遠くにやれば陽の光を受けて燦々と輝く雄大な山々が見え、歩いているアスファルトの道を境界線にするようにして左右には田んぼが遠くまで広がっている。

 とても美しい光景だった。写真や絵に残したところできっと今この目で直接見ている景色には及ばないだろう。

「まさに“日本の夏”って感じの景色だなこりゃ」

「うんうん、まったく」

「おわっ!?」

 突然の声に振り向くと、そこには安奈が立っていた。

「お前なぁ、毎度のことだけどいきなり現れるのやめろよマジ。こうも突然声かけられてばっかだと寿命縮むわ」

「何度も言ってるでしょ、あんたが勝手に驚いてるだけ。で、何かあったの海人」

「何か?なんでだ?」

「なんかすごい嬉しそうな顔してるから。自分で気づいてないの?」

「そう、だったか」

 気付いていなかった。一体自分はどんなだらしない顔で往来を歩いていたのだろう。まぁ、すれ違う人もほとんどいないこの町では気にする必要もないかもしれないが。

「まぁ、あれだ、今度旅行に行くんだよ」

「へぇー、どこ?」

「まだ決めてない。連れに行きたい場所を聞いてるところだ」

「連れってもしかして、お隣に住んでる東雲鈴音のことだったりする?」

「え?」

 不意に鈴音の名前が安奈の口から出てきたことに驚いて、思わず彼女の顔を見た。対する安奈はいつも通り涼しげな表情を浮かべている。まるで『私が知らないとでも思ったか』とでも言いたげだ。

「そうだけど、お前たち知り合いだったのか?」

「んーそうだね。少なくともあんたよりは縁があるかな」

「なんか引っかかる言い方だな。まぁなんでもいいけど」

 大方学校の先輩後輩とかそういう間柄なんだろう。

「でもそっか。鈴音と旅行ね。楽しんでくればいいんじゃない?あの子ずっと町の外に憧れてたみたいだし」

「ずっと?あいつこの町の外に出たことないのか?」

「ないんじゃない?小学校も中学校も体調不良で修学旅行欠席してたし」

「はぁ?」

 いやそんなギャグみたいな話が現実にあるのか?

「責任重大だね、おじさん」

「おじさんじゃない、お兄さんと呼べ。俺はまだ二十五だぞ」

「若さアピールするのは結構だけど、逆にそんな若い人が他人の責任持てるのかな~」

 安奈はニヤニヤしながら俺の脇腹付近を人差し指で小突いてくる。

「わっ、お腹ぷにぷにだし。今度から海人のことぷにぷにおじさんって呼ぼう」

「腹筋割れてなくてもお腹出てるわけじゃないからいいんだよ!あんま触るなくすぐったいだろ」

「ほいっ」

「なっ、お前っ」

 一瞬のうちにズボンのポケットに納めていたスマートフォンを抜き去る安奈。いつも通りの手癖の悪さだ。

「ぷにぷにおじさんは仕事ばかりしてないでちょっとは運動しないとねー!」

 そう叫んで安奈は道沿いにあった田んぼのあぜ道を曲がって駆けていく。俺はそれを慌てて追いかけた。

「このクソガキ!いい加減にしろよー!」

「あれー?なんか知らない人からメール来てるよー。なんて返したらいーい?『そんなことより君を抱きたい』って送っとこうかー?」

「それ仕事のメールだからやめろぉ!」

「あっはははは!」

 こうして今日も安奈に付き合わされて延々追いかけっこをさせられることになった。弊社がフルリモート・フルフレックスの会社で本当に良かったと思う。でなければこの町に来てから職務怠慢でクビになっていたことだろう。


***


「準備できたか?」

「うん、大丈夫!」

「じゃ、しゅっぱーつ」

「おー」

 数日後、俺と鈴音は予定通り旅行に出発した。行き先は鈴音がリクエストしたところで、向こうで回る観光地や食事処、宿泊場所も含めてきちんと計画して準備した(泊まる部屋はもちろん別々だ)。

「にしても、良い天気だなー」

「良かったね、今日はどこも晴れてて。私、夏の青空って好き。どこまでも続いてて、どこまでだって行けそうな気がする」

 天気は快晴。それはもう怠いくらいの快晴だ。けれど雨に降られるよりはよほどいい。

「旅先で雨に見舞われるほど萎えることはないからな」

「雨の風景も楽しんでこそ新の旅行好きだってこの前読んだ旅行雑誌に書いてあったけど?」

「旅の流儀は人それぞれなんだ」

「あはは、そうなんだね。私は雨の旅行もいいと思うけどな」

 そんな他愛ない会話をしながら、俺たちは町の駅までやって来た。駅から特急列車と新幹線を乗り継いで二、三時間ほどの道行きになる。

「うし、予定通りに着いたな。あと少しで電車が来るから、それまでにトイレとか済ませておくといい」

「うん、わかった」

「あとは飲み物でも買っとくか。何か飲みたいものとかあるか?」

「ううん、だい、じょう、ぶ」

「鈴音?」

 声色から何かを感じた俺は彼女の方を振り向くが、その表情には明らかにただならぬものがあった。息は荒くなっているし顔色も良くない。暑さによるものとは明らかに違う系統の汗が頬を流れていた。

「おい、鈴音?どうしたんだ、どこか具合が悪いのか?」

「だいじょうぶ、だい、じょうぶ、だから……ぁ」

「ッ、鈴音!!」

 次の瞬間、鈴音はその場でバランスを崩して地面に倒れ込んでしまった。咄嗟に彼女の背中に手を回して地面に頭をぶつけることは回避できたのだが。

 ———なんだ、重い!?

 彼女の身体を支える自分の右腕にかかる重量は、一般的な女子高校生のそれとは比較にならないレベルの重さだった。まるで大きな地蔵や石像を支えているような。重さに耐えきれず、俺の腕を下敷きにして彼女の身体は地面に横たわるような形になる。

「ッ!やばい、かも!」

 なんとか地面と彼女の背中の間に挟まれていた右腕を引っこ抜けたが、力なく横たわり苦しそうに呼吸をする鈴音の症状に変化は見られない。駅員を呼んで救急車を呼ぼうと起き上がったときだった。

「鈴音!」

「っ、初音さん?」

 声のした方を振り向くと、そこに初音さんがいた。今日は朝早くから仕事に出ていたはずだが。初音さんは慌ててこちらに駆け寄り、地面に倒れ込む娘の顔を覗き込む。

「あの、鈴音が急に」

「分かってます。ひとまず私の車まで運びますから、黒崎さんも肩を貸していただけますか?」

 娘の一大事だというのにどこか落ち着いた初音さんに若干の戸惑いを覚えつつも、俺は彼女と協力して鈴音を抱えてその場を後にした。


***


「だから言ったじゃん。責任“重大”だって」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る