33.偽物と本物
世界最強の魔女の、オーディンの胸元に穴があく。どこまでいっても人類種に過ぎない彼女にとって、それは致命的なものだった。
本来なら喰らうはずのない攻撃だった。ほんの僅かな時間、ただ念じるだけで防げるような些細な攻撃だったはずなのだ。
それでも防げなかったのは、自分ではなく先にアルスが狙われてしまったから。考えるより先に体が動いてアルスを守ろうとしてしまった。魔法使いとしてはその一瞬の隙が命取りだ。
魔法使いの体は脆い。戦士であれば百発食らっても傷つかない攻撃でも、魔法使いであれば致命傷になりうる。これこそが魔法使いの弱さだ。
アルスは血相を変えて空を駆ける。心臓を貫く蔓を手でちぎって、その体を抱えて急いでこの場から離れた。
アルスの最高速は魔法使いの中でも群を抜いている。しかし今はオーディンを手に抱えているからそこまでの速度は出せず、どうせ追いつけるからと、エダフォスも直ぐに追いかけなかった。
「……流石に死ぬと思うけど、どうしようか。魔王様は任務が終わったら即帰れ、って言ってたけど私もお腹が空いたままだしな。」
あの空を浮かぶ2人はエダフォスにとって極上の餌である。魔物はより濃密な魔力を持つものを餌として好む。人というだけで美味しいわけだが、その中でも優れた魔法使いは筆舌に尽くしがたい味がある。
それならまあ、労働の対価としてちょっとぐらい食べても構わない。そうエダフォスは考えた。
地に張り巡らされた根はうねる。勝負は既に決したのだと、そう確信して戦いではなく食事の為に。
癒し手でないアルスには、どうしたらいいかなんて分からなかった。だって体を斬られた時とか、腕を飛ばされた時の止血の仕方ぐらいなら知っていたが、心臓を貫かれた人の応急手当なんて知るはずもない。
いや、そもそも心臓を貫かれた時点で、いくらこの魔法の世界でももう――
「いや、いやまだだ……!」
かなり離れたところでオーディンを地面に下ろし、傷口に腕を突っ込む。その右手は変形して、心臓の代わりを務めようとする。
細かい血管はこの際仕方ない。兎に角、擬似的な心臓を動かして体内に血を巡らせる。ただ、失血がもう既に酷い。血を巡らせたところで、意味はあると言えるのだろうか――?
「――それで、いい。続けてくれ、アルス。」
力のない声でオーディンはそう呟いた。そこでアルスは疑問を全て投げ捨て、自分の今できる事を全うした。
悔しい事だが、アルスの知識がオーディンに勝る事はない。オーディンがそれで良いと言ったらそれを信じるしかない。
オーディンは右手を空に伸ばす。それは天に魔力を走らせて、大きな魔法陣を生み出した。書き終えた途端に、まるでその魔法陣が質量を得たように空から落ちていく。
二人の体を魔法陣が通過していって、下に降りきった時には二人の姿は消えていた。
転移の魔法陣ではない。そもそもあの魔法陣は形式的なもので、厳密に言うならこれは魔法ですらない。神々が与えた本物の奇跡、スキルによるものだった。
「……ここ、は。」
アルスとオーディンは図書館の中にいた。さっきまでのオーディンの大魔導図書館とは違った、神秘的な図書館だった。
オーディンの大魔導図書館も世界有数の大図書館である。魔法によって管理されたそれは、一種の芸術品のような美しさがある。しかしここの荘厳さに比べれば劣ってしまう。
空を本や本棚が飛び回り、白い光で天が覆われている。見渡すばかりの本に囲まれていながら窮屈さをまるで感じさせない開放的な場所だ。
まるで神の国だと、アルスはそう思った。
オーディンの下に二冊の本が飛んできて、その本が開いて中から文字が流れ出す。その文字は魔法陣を形作り、オーディンの傷を治し始めた。
アルスはそこで心臓を肩代わりするのをやめた。すると直ぐに形だけなのかもしれないが、傷口はみるみると塞がっていく。
オーディンは咳き込みながらも上半身を起こして、近くにある本棚へと背を預けた。未だに顔色は青白く、額には汗が流れている。
「大丈夫、なのか?」
「……そう心配そうな顔をせんでも、死にはせんわい。大丈夫とは言いづらいがな。」
そうは言われてもアルスは不安を拭えない。こういう無理矢理な回復魔法は魂に負荷をかける。魂の在り処である心臓を潰された後であれば尚更だ。
アルスの目に映るオーディンの姿はあまりにも弱々しく、まるで子供のような魔力の薄さだった。血も流しすぎた。服は真っ赤に染まっていて、口からも血が垂れている。
「ここは、わしのスキルである『
喋るその声にも覇気はなく、話しているだけで苦しそうだ。
「俺のせいだ。俺が、こんな所に来たから。」
「そんなわけがあるか、阿呆めが。わしがしくじっただけじゃ。」
自責の念がアルスを襲う。例え本人が許しても、それでも、これを後悔しないで済ませる程にアルスは強くない。
きっと自分が来なければ、オーディンはこうなりはしなかっただろう。自分を守る為にオーディンは隙をさらして、それを突かれた。それがアルスにとっての真実である。
「ああ、そんな顔をするな。お主は悪くない。無事でいてくれるなら、それだけで良い。」
向けられる慈愛の目が、逆にアルスを苦しめる。
今でも、アルスは時たまに自分が草薙真であった事を思い出す。その愛情と信頼は全てアルスに向けられるもので、草薙真に向けられたものじゃないのだと、そう考えてしまう。
だから彼は、いけないと分かっていても、苦しくて、悔しくて、心の内を溢れさせる。
「違うんだ。違うんだよ、学園長。」
だってアルスは一度もオーディンの事を、ひいおばあちゃんなんて呼んでいない。自分にそんな資格はないって、そう思っているから。
「俺は、転生者なんだ。アルス・ウァクラートじゃないんだよ。」
だから初めて、その事実をアルスは口にした。実の親にも伝えられなかった、悪友にも明かせなかった苦々しい真実を。
「異世界で死んでさ、俺は気付いたらアルス・ウァクラートになってたんだ。本物じゃないんだ。俺はずっと、皆を騙しながら生きてきたんだ。」
語気はどんどんと強くなる。自分でも何を言っているのか理解できないぐらいに、思いつく限りの言葉を口にしていた。一度始めたら止まらない。
自分は、この人に愛されるべきじゃない。
「あなたに守られる資格のある人じゃないんだ。不出来で、チグハグな奴なんだ。大見得を切って期待に応えようとして、だけど全然そんな事ができなくて、あんな立派な魔法使い達の子孫だなんて思えないだろ。俺は、偽物なんだよ。」
本物のアルス・ウァクラートであれば、こんな事にはならなかったのかもしれない。自分の心を誤魔化していられるのにも限界があった。ずっと、母親が死んだあの日から奥底にある闇が這い出る。
「俺は――!」
非難して欲しかった、罵倒して欲しかった、今のアルスにとって優しさが何よりの毒だった。
だけど、オーディンがくれたのは全く別のものだった。
「――良い、もう良い。十分に分かった。」
「ぁ」
「もう、何も言うな。」
その小さな手にアルスは抱き寄せられる。その時、アルスはオーディンの事が何倍も大きく見えた。
「なあ、アルス。家族とは難儀なものじゃな。ただそこにいるだけでは分かり合えなくて、その縁を切るには、あまりにも近過ぎる。」
オーディンは上を見る。その脳裏に映っているのは誰だろうか、アルスには想像もつかない。
「ただ、分かり合えずとも、わしはお前を愛している。」
その言葉には嘘偽りはない。飾り気のない本心がそこにある。
「偽物のはずがあるか。例えお前が橋の下で拾われた子でも、ラウロとフィリナがそう決めたのならラウロの子じゃ。ラウロの子であるのなら、わしのひ孫じゃ。愛する息子が生んだ愛した孫が、更に愛した子供をどうして嫌いになれる?」
アルスはずっと一人だった。山奥で生まれて、それを拾われて、碌な愛情も受けずに育った。転生してから初めて親からの無償の愛を受け取ったけど、それすらも自信を持てなくて、ずっと一人であるような気がしていた。
だけど、違うのだ。気付いていなかっただけで、ずっと愛情はそこにあった。自分を信じられなかっただけなのだ。
「わしはお前を愛している、アルス。だからもう、そんな事は言わないでくれ。」
涙が、抑えられなかった。アルスはその日、生まれて始めて人の胸の中で泣いた。
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