48.性欲
アルスは人器である無題の魔法書を出していない。スキルを使う様子すら見せない。それで十分だからだ。
ニレアの魔法の技術は低い。膨大な魔力量で威力は出るかもしれないが、さっきみたいに魔法の制御を奪えば事足りる話である。ニレア一人では絶対にアルスには勝てない。
「……スカイ、こいつは殺すぞ。洗脳の条件が分からない以上、生きてるだけで脅威だ。」
返事はない。それを肯定とみなして、ニレアが触れられない距離を保ちながらアルスは近付く。
ニレアはまだ諦めていない。顔色こそ悪いが、まだ負けていないという意志をその目に感じる。だが、アルスにも油断はない。カリティと同じように逃げられるわけにはいかない。
あの時は対抗策が既にあったから良かった。しかし今回は逃げられれば追跡は不可能である。
「いいのかしら。私は今、この状況下でも私を愛してくれている人に命令を出せる。拡声の魔法を使って、私のために死んで欲しいって、そう一言呟くだけで領民は何千人も死ぬことになるわ。」
「試してみたいのか? お前が言い切るのが早いか、俺がお前の喉を潰す方が早いか。」
「私にはこういう時の為にいくつもの魔道具がある。そんなリスキーな橋を渡りたいの?」
アルスは絶対に逃がしたくない。ニレアは絶対に逃げ帰りたい。両者の考えが対極にある以上、妥協点を探すことは決してできない。
だからこうやって話すのは時間稼ぎだ。どうやって逃げ切るか、もしくはどうやって殺すのが確実か、それを考える時間が必要なだけであった。
「私はただ、愛して欲しいだけ。殺したいなんて思わない。私を逃がしてくれさえすれば、誰も傷つけたりせずに大人しく帰る。それじゃ不服なの。」
「駄目だな。お前の言葉を保証できる奴なんてどこにもいない。」
どこかで仕掛ける必要がある。できれば先にだ。後手に回ればその分だけ対応に遅れて、状況は不利になっていく。
「あっそう。」
ニレアはビー玉のようなものを三個握って、それを正面の地面へと放り投げた。ヒビが入るのと同時、中から飛び出すように魔物が出てくる。
その魔物は地面に根を張るような大きな足と、手と一体となっている両翼を持っていた。ワイバーンが三匹、アルスの目の前に立ち塞がる。
「『
アルスの右手から溢れ出る炎の剣が素早く一匹の頭を落とした。もう一匹を斬ろうとした時に、ニレアが指輪を取り出して指に嵌めたのを見た。
アルスはワイバーン二匹を無視して、ニレアへと迫る。その魔道具が何かは分からないが、多少のリスクを負ってでも止めなくてはならないとアルスは感じたのだ。
「は――」
二レアの指輪をつけた右腕の手首が切断される。
「痛い、痛い痛いいたいいたいイタイイタイイタイ!!」
血がどくどくと傷口から流れ出る。それに耐え切れずニレアは叫び始めた。
叫んでいる内にアルスの背後からワイバーンが襲い来るが、二匹が束になったところでアルスには遠く及ばない。何度か炎の剣とワイバーンの体がぶつかりあって、十秒経たずして最初の一匹と同じように首をはねられた。
その間、ニレアは何もしなかった。ただ痛みを訴えるだけで、何も。
「何で、何でよ! 何でこんな事をするの! 私はただ、愛されたかっただけなのに……!」
涙ぐみながらニレアそう言って訴える。
「今からでもいいから、愛してよ。私を愛してよ。私の言うことを聞いてよ。私のお願いを聞いてよ。」
アルスには彼女に対する同情の念は欠片もなかった。彼女の言葉には価値がない。彼女が苦しめた人の事を、こいつを生かした時に苦しむかもしれない人を思い浮かべれば、どれだけ命乞いをしていたとしても生かしておこうとは思えなかった。
ただ、それとは全く別で、アルスの気分が悪いだけだ。苦虫を噛み潰したような顔をアルスは浮かべていた。
もはやニレアは逃げられない。誰もニレアを助けようとはしない。アルスの炎の剣は持ち上げられて、後はそれを振り下ろすだけでニレアは死ぬ。
ニレアは後退る。血を地面に流しながらも、必死に。だけどアルスが数歩足を前に出すだけでその距離は埋まる。
「……せめてもの慈悲だ。楽に殺してやる。」
「嫌っ!」
ニレアはまるで赤子のように叫びながら後ろへと下がる。
「……」
「まだ、まだ死にたくない! だって私はまだ、全然愛してもらってない! もっと愛されなくちゃいけないの!」
しゃがんだ体勢のまま、体を引きずりながら下がっていく。それでも目だけは離さなかった。
もしかしたら、本能的に理解していたのかもしれない。できれば顔を見ずに殺したいというアルスの考えを。だからか、背を向けることは決してしなかった。
だが、道は無限には続かない。下がっていけば壁にぶつかって、覚悟しなくちゃいけない時がやって来る。
「だから、お願い――」
より一層、炎は輝きを増した。
「――私を、愛してよ。」
炎の剣は一つの命を燃やし尽くした。
「……人を愛せない奴が、愛されるわけないだろ。」
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