29.名前の価値

 インディゴはもう動かないヴァダーに一瞥をくれてやり、その後にテルムとヒカリの方へと足を進めた。


「私を、殺すのか?」


 インディゴが立ち止まったのと、テルムがそう言ったのはほぼ同時だった。

 インディゴは体を元の人型に戻しながら、それに答える。


「そうだ。そうすればもう、この内乱は止まりはしない。文字通りの地獄となる。」


 クハハ、と低い声で唸るように笑った。

 最初の冷徹そうなイメージは、もうインディゴにはなかった。内に秘めた、どこまでも深い狂気を、否が応でもテルムは感じてしまった。


「殺せよ。別に抵抗する気はねえよ。」

「……潔いな、つまらん。」

「私はお前を楽しませるためには生きてねえんだよ。」


 テルムはそう言いながらも、若干体が震えていた。誰でも殺されるというのに平気でいられる奴はいない。

 だが、まるっきり嘘というわけでもない。テルムの顔には確かに諦めの色があったのだ。


「人生なんてつまらない事だらけだ。このままもし、上手く生きていけたとして、私の人生はきっとくだらねえものになる。こんなに苦しんで一生を生きるぐらいなら、ここで死んだほうがマシだ。」


 三国時代において活躍した諸葛亮孔明は、『人生とは、困難との戦いの連続である』と言葉を残したとされる。

 事実その通り、人生とはそういうものだ。誰もが自分だけの困難を持ち、それと戦い続ける人生を送る。

 ならばそれに折れる者がいても、不思議な話ではない。


「ああ、それは確かに賢明だ。俺と違って、お前は弱い。生まれながらの弱者にとって、この世界はあまりにも残酷であろうよ。大人しく死を選ぶのが建設的というものだ。」


 生物は優劣を作りたがる。そして、より優れた者を優遇したがる。それは種という全体から見ればとても合理的な判断である。

 しかし人はそれを嫌う。人は平等という、ありもしない幻想を好む生き物であるからだ。この世界は平等で、誰にでも平等に全てが与えられていると思い込みたいからだ。

 実際にそんなことはありはしないのに。いや、そうだったとするなら、テルムはこれほどまでに苦しんでいないだろうに。


「――それは、違う。」


 ヒカリは立ち上がった。慣れ親しんだ日本語で、誰にも通じない日本語でそう言った。


「抵抗する気か、勇者よ。俺は元より、お前を殺す気はないというのに。」

「確かにこの世は不平等かもしれない。誰もが平穏に生きる事はできないかもしれない。だけど、迫る事はできる。ほんの少しだけでも、マシにする事は確かにできる。」


 ヒカリの声は微かに震えている。それでも足を前に、一歩ずつ踏み出し、テルムとインディゴの間に立った。

 これは独り言である。誰も理解できない。記憶にも残らない。自分が自分である為の、誓いであった。


「この子は、幸せになれる。幸福になる事ができる。楽な道のりではないかもしれない。だけど、それを支えてくれる人が必ずいる。いなかったら、こうやって私が支えてみせる。」

「最終忠告だ、どけ。命令外の事はあまりしたくない。」


 戦いの世界にいないヒカリであっても、本気で相手が自分を殺そうとしている事ぐらいは分かった。それでもその足を動かさない。


「私の名前はヒカリ! 星のように、誰かを照らせる光であって欲しいという願いを込められた私の立派な名前だ! 例え異世界であったとしても、私は私を絶対に曲げない! 人に胸を張れない生き方は、絶対にしない!」


 確かにテルムを放っておいても、誰もヒカリを責める事はしないだろう。

 ただそれ以上に、彼女の強い正義感は幼い子供を守らなくてはならないと、そのように叫んでいた。

 鉛が吊るされたかのように重い足を前に、震え続ける声を律し、頭に響き続ける頭痛を振り払い、彼女はそこに立った。


「愚か者め。」


 インディゴはその腕を振るった。超人であるヴァダーですらダメージを受ける攻撃であり、ヒカリが喰らえばきっと即死であろう。

 その腕がヒカリに当たる瞬間――


「ぬぅ!?」


 勢いよく、その腕は弾かれた。それと同時に、目を開けていられないほどの光が炸裂するように伸びた。

 ヒカリは指につけていた指輪が熱くなった感覚と共に、消え失せた事を理解した。それが自分を守ってくれたとも。


「きさ、ま! 小癪な真似を!」


 そして、この一瞬が、このフィルラーナがくれた一瞬が、命運を分ける。


『条件を達成しました。スキル『勇者』を起動します。』


 スキルに関する情報を伝える、世界の声が、ヒカリの脳内へと鳴り響いた。

 そしてその瞬間に、頭にその力の使い方が流れ込む。異界を渡ってきた少女へと与えられた、唯一にして無二の異能が花開く。

 人が呼吸を意識しないように、その力の使い方を特に意識する必要はなかった。


「聖剣顕現ッ!!」


 光が手のひらを走る。その光は質量を持ち、形を成し、美しき白い剣がヒカリの手に握られる。

 その剣は片手剣であり、初めて持つというのに、ヒカリの手によく馴染んだ。


「これはっ!」


 相手を舐めていたインディゴは、回避できる攻撃の仕方をしていなかった。攻撃を受けながら進むしかない。

 白い刀身が、淡い光の軌跡を残して、インディゴの肩を斬った。


 その反応は、さっきまでとは大きく違った。

 インディゴは痛みを無視して進もうと思ったが、まるで背中から足まで鉄の棒を刺されたように体が動かなかった。

 それは一瞬ではあるが、その一瞬のうちに、ヒカリはインディゴの間合いから外れていた。


「何だ、その力は。隊長が言っていた事とは違うではないか。」


 ヒカリは何も言わずに剣の切っ先をインディゴへ向ける。

 今さっきの攻撃が当たったのは、相手が油断していたからである。それぐらいはヒカリも理解していた。


「だが所詮は悪足掻きだ。結局状況は何も変わりはしない。お前ら二人を殺して、俺の任務は終わりだ。」

「……」

「特にお前は、最大限に苦しめて殺してやる。弱者が俺に楯突き、傷を与えるなど許される事ではない。」


 インディゴはヒカリを指差す。その表情は怒り狂うようであり、どうやら彼のプライドは相当に傷つけられたようだ。


「お前が悪いのだ!お前が大人しくしていれば――」

「『天翔あまかける』」


 空から、焔が走る。その焔はインディゴを呑み込み、そのまま引きずって後ろへと吹き飛ばした。

 その焔は次第に人の形を取り、白い髪の青年がそこに現れる。即ち、賢神が一人、アルス・ウァクラートである。


「急に光ったんで来てみれば、当たりだったみたいだ。今回も遅れたみたいだけど。」


 アルスは無傷そうであるヒカリを見て少し安堵の表情を浮かべ、そしてボロ雑巾のように転がるヴァダーを見て少し悲しそうな顔をした。

 そして最後にテルムを見て、無駄な感情を削ぎ落とした。


「安心しろ、もう大丈夫だ。だからただ、見ていろ。」


 ヒカリはそれを聞いて、全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。手に持つ聖剣も光となって消える。

 テルムはそれを聞いて、食い入るように戦いへ目を向け出した。まるで真剣に授業を受ける生徒かのように。


「アルス・ウァクラートォ!!!」

「全世界の魔法使いの上位1%未満。賢神の、本気の魔法を見せてやる。」

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