8.姫様
魔法を習得する過程は、案外地味である。最初は魔力の操作、制御に始まり、体内に留められる魔力を上昇させ、次は体外の魔力放出をひたすら反復する。手慣れてくれば放出した魔力の制御、形成を練習し、次にやっと魔力に属性を与える領域に入る。
だから天野に教えるにしても、次の段階に行くまでは何も教えられることはない。そしてそれは、これから教える相手にも同じ事が言える。
「魔法が好きな奴なら、楽でいいんだがな……」
地味な作業を好む奴はいない。その作業自体が好きっていう奴ならいいが、そうでないなら最大の苦痛である。
特に座学と違って、魔法というのは反復が多過ぎる。楽しくなるのは大体、一年を過ぎた後。つまりは俺の任期終了後の事である。
人に教えるというのは、あまり得意だとは思っていないし、相手が意欲的であれば助かるというのが本音だ。
「お待ちください、姫様ぁ!」
しかし、そんな俺の儚い思いは、仕事初日の早朝にて呆気なく打ち砕かれる事になる。
一日しっかり準備をして、やる気を出して布団から出て仕事に向かった俺に対して、それはあんまりではなかろうか。
「へっ! 待てって言われて待つやつがいるかよ!」
城内の廊下で、使用人の間を縫うようにして一人の少女が駆ける。背丈が小さい子供であれば遠慮なく進めるが、それを追っていただろう帯剣した男は、使用人にぶつかる事を恐れて簡単に追う事ができない。
俺は仕事が開始するその初日から、自分のこの先に訪れる受難を覚悟した。
少し現実逃避をしたくなり部屋にいて勉学に勤しんでいるだろう、天野の事を考える。頭の回る子であるから大丈夫であろうが、それでもここは異世界であるから、細かな何かで躓いていないかは多少は心配になってしまう。
「誰かっ! 姫様を捕まえてくれぇ!」
焦ったようにして大声で、その男、恐らくは騎士が叫んだ。我々のイメージする騎士といえば甲冑に身を包むものであるが、この世界において甲冑を着込んだ騎士はそう言えば見た事がない。
きっと、甲冑なんかより自分の体の方が強い世界だからだろう。ああ、異世界とは恐ろしいものだ。
「――『
俺の横を通り過ぎようとした少女に、練り込んでいた魔法を放つ。網目状の光が、少女を上から包み込み、その場に縛り付ける。
「あがっ! 何だこれ! 動けねえ!」
少女は身をよじったり、手で網を引っ張るが壊れる事はない。賢神が使う魔法を、そう簡単に壊されては逆に困る。
その少女はドレスを着ている事だけはお姫様のようであったが、整えられていない髪に粗暴な口調、さっきの走り方。どれを取ってもそこらの平民、いや、それ以下の立ち振る舞いであった。
俺は訝しむように少女を見たが、それも一瞬の事で、正面からこちらへ駆け足でくる騎士の方を見た。
「これでいいかな?」
「ご協力感謝します、アルス殿。」
「俺を知っているのか。」
「ええ、もちろん。学内大会の話は有名ですし、騎士であるなら誰が敵か味方か分からなくては失格です。」
それもそうだ。俺の顔と名前は、既に城内に通っているのだろう。
「君は近衛の騎士か?」
「はい。姫様専属の騎士、ヴァダーと申します。」
「俺はアルス・ウァクラートだ。よろしく頼む。」
俺は手を差し出し、ヴァダーと握手をする。
疲れたのか大人しくその場に座り込む少女の、その網を俺は解除した。流石にこの距離であれば逃げれないと自覚しているのか、逃げはしなかった。
「……私を無視して楽しそうに話してんじゃねえよ、ムカつくな。」
「姫様、そのような言葉遣いはいけません。」
「うっせえな! 私がどんな風に話そうが私の勝手だろうが!」
少女は立ち上がり、俺を睨み付ける。俺はまだ16歳だが、流石に12歳程度であれば身長差はかなりある。
そう言えばと、お嬢様が言っていた事を思い出す。お嬢様は依頼を、12歳の平民に魔法を教えるだけと言った。実際はまあ、王族だったわけだが、きっとそれは、そういう事なのだろう。
恐らく、というかまず間違いなく、平民から養子を取ったのだ、あの国王は。
「それで、誰だお前。」
そう言って少女は俺に指を刺した。
「俺の名前はアルス・ウァクラート。ただの魔法使いだよ。」
「この方が、先日お伝えした魔法の教師です。凄い魔法使いの方なのですよ。」
隣からヴァダーが俺の情報を補足する。しかし、少女の訝しむような表情は変わらない。
何だろう。母から貰った顔であるから、ヘルメスみたいに胡散臭かったり、ディオみたいに怖かったりはしないはずだが。
「私、こいつ嫌いだ。人生の苦労なんて何にも知らないような顔をしてやがる。」
「ほう、その歳で人生の苦労を語るか。」
「お前と私じゃ生きてきた世界が違うんだよ。そもそもそんなに歳は変わらないだろうが。」
歳が違わないというのはその通り、それに生きてきた世界が違うというのも、意図せずして核心をついている。文字通り、異世界から俺は来たわけだから。
「姫様、おやめください。人の事を侮ったり、馬鹿にしたりしてはいけません。」
「うるせえな、ヴァダー。小さい事ばかり気にしてるとハゲるぞ。」
「ハゲません。私は毛根の強い家系です。」
「そんな事は言ってねえんだよ、馬鹿!」
ヴァダーは自分のことを専属の騎士と言っていたが、きっと教育者としての立場もあるのだろう。日常生活からこういうのは正さなくてはならないからな。
「それでは、アルス殿。案内致します。」
「私を無視すんな、馬鹿! ばーか!」
「姫様、そのような言葉遣いは――」
「うるせえ! 同じこと繰り返してんじゃねえよ!」
そう言って先陣を切って、少女は歩き始めた。それに合わせてヴァダーと俺も後ろからついて行った。
歩き方が、ドレスを着ているとは思えない歩き方だ。歩幅も大きいし、足をやたら上げるし、お嬢様が見たらそれだけで顔を歪めそうな歩き方である。
「少し質問をしてもいいか?」
「ええ、なんなりと。」
「元平民の子、だよな。」
「厳密に言うなら、スラム街の者です。気付いた頃には親はおらず、物乞いをして生きてきたとか。」
中々に過酷な過去だ。むしろよくここまで生きてこれた、と言ってもいい。
「どうやって見つかったんだ?」
「不思議な魔法を使う者がスラム街にいると噂を聞き、保護をしました。」
「という事は、最低限の魔法は使えるのか。」
それは楽でいい。色々と環境には同情するものがあるが、今の俺にとって重要なのはそこだけである。
いつかは、スラム街も消してみせるけどね。残念ながら根本的に解決するだけの力が、今の俺には到底ないというだけだ。
「それじゃあ最後に、名前は?」
「テルム様です。」
「わかった、ありがとう。」
一言感謝を述べて、俺は前を歩く少女、テルムを見た。
今からどうやって魔法を教えようか、俺の頭の中はそれだけで一杯になっていた。
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