六八話 少女との再会


 マリエッタは兵士の駐屯所からサテルの街に飛び出すと、息詰まった胸中の塊を吐き出すように深呼吸した。

 風が吹いても肌寒くなくて、温い空気の塊に抱かれるような心地よい日。雲ひとつない青空。雨の心配なんてする必要はない。降り注ぐ陽光の気持ち良さを感じながら頭を空っぽにして歩いていれば、天気に釣られて段々と気分が晴れてくるはずだ。そんな期待を胸に街中を進んでいく。


 マリエッタの現在位置は街の北部。街ゆく人々と軽く世間話をしたり、屋根の上で小気味よく歌う鳥を眺めたりしながら、中央広場にある教会へと確実に接近していた。


 ――その頃のオクリーは、金髪坊主に貰った路銀の価値が分からずに困っていた。この世界で生きていく上で特に欠けてはいけない部分が抜け落ちているわけだが、彼に備わっている知識は前世のものかアーロス寺院教団内における常識。つまり一般的なゲルイド神聖国の常識は皆無と言って良い状態だった。

 ゲルイド神聖国における一般的な常識は『原作ゲーム知識』で一部知っている程度のエピソード記憶であるため、記憶障害においても忘却されない言語などの意味記憶とは別物である。見知らぬ男に親切にしてもらったはいいが、その親切心を上手に活かせない状態であった。


 硬貨の価値を知らぬオクリーは、当初の予定通り教会を頼ることにした。道行く人に尋ねても良いとは思ったのだが、村と街の様相が劇的に違っていたため警戒心が高まっていた。


 オクリーの現在位置は街の南部。あちらこちらをふらふらと歩きながら、人の流れに導かれるようにして街の中央の教会へと誘われていく。


「ここがケネス正教の教会か。初めて見るなぁ」

「ゆっくり歩いてたから、結構時間がかかっちゃったな」


 教会前の中央広場に一瞬早く到着したのはマリエッタ。オクリーは初めて目の当たりにする純白の教会の立派さに足を止めた後、彼女に続いて広場に足を踏み入れる。

 先んじたマリエッタは、左右に長椅子の置かれた教会内を澱みない仕草で歩いていく。適当な椅子に座った少女は、奥部に沈黙する唯一神の石像に向かって目を閉じるようにして祈りを捧げた。朝一番から神に祈りを捧げているのはマリエッタだけではない。敬虔な教徒の多くは日の昇り切らない内から教会に足を運び、彼女のようにして祈りを捧げるのだ。


 疎らな人の集まりを恐る恐る縫いながら、オクリーもまた教会の扉に手をかける。重々しい扉の軋む音が静かな内部によく響き渡って、扉をゆっくりと閉める手に力が入った。

 誰が入ってこようとも多くの人間は見向きもしない。しかし、今日のマリエッタは違った。誰が入ってきたのか無性に知りたくなっていた。運命に導かれるようにして、祈りを中断したマリエッタの瞳が開かれる。そのまま足音の行方を追うように――横目でを見上げた。


「――えっ」


 少女の赤い瞳が揺らぐ。マリエッタは夢でも見ているのかとさえ思った。線の細い体躯、黒い髪、澱んだ瞳。一瞥しただけでは没個性的な青年と思えるようなこの青年こそ、マリエッタにとっての英雄だった。

 間違いない、あの人だ。ダスケルの街が崩壊していたあの時、落下してきた巨大な瓦礫から自分を救ってくれた命の恩人。薄々もう二度と会えないと思っていただけに、その動揺は計り知れないものだった。


 マリエッタにとっての英雄は二人いる。命を賭してメタシムの悲劇から自分を守ってくれたアルフィー・ジャッジメントと、ダスケルの危機から間一髪救い出してくれたオクリーという青年だ。今まで面倒を見てくれたセレスティアやポーメットにも感謝しているが、直接的な危機から救ってくれたのはこの二人しかいない。

 オクリーの生存をずっと願っていた。いつか再会して感謝の気持ちを伝えられたらと思っていた。再会に何年かかるのだろうと思っていた矢先、彼が目の前に現れたのだ。

 マリエッタの時間が止まる。思わず立ち上がって、何度も言葉にならない声を漏らしてしまう。そんな彼女の素っ頓狂な声は、横を通り過ぎていった彼の足を止めていた。


「おっ、お、おくっ……」

「……?」


 マリエッタが口をぱくぱくさせていると、立ち止まった彼が不思議そうな視線を送ってくる。視線が交わされる。あぁ、やっぱりそうだ。見間違えるはずがない。


「――オクリー……さん……?」


 やっとのことで意味のある言葉を絞り出したマリエッタ。地獄から救ってくれた命の恩人が生きていた。約一年ぶりの再会に涙すら流してしまいそうになりながらオクリーの手を取るが、彼の反応は芳しくなかった。

 名前を呼ばれても周囲をきょろきょろと見回し、まるで誰を探しているんだろうと言いたげなオクリー。終いにはマリエッタの手を優しく振り解き、彼女の声を無視してモニュメントの方に歩き始めた。


 何度か声をかけても大した反応が得られなかったため、席を立ったマリエッタはオクリーの後ろ手を掴んで呼び止める。


「ちょちょ、ちょっと! オクリーさん、あたしです! マリエッタです! ダスケルの街で助けていただいたマリエッタです! ……お、覚えてないんですかっ」

「……知りません」

「そんな……」


 どうやら彼は自分のことを覚えていないらしい。少女は言いようのない寂しさを感じてしまったが、それも仕方ないと思った。一年前に数分間顔を合わせただけの仲だ。救われた者は救世主のことを覚えていても、救世主は救ってきた者の全てを覚えていない……ということなのかもしれない。


 だが、マリエッタは次の返答を聞いて耳を疑った。


「……多分、オクリーって人、俺のことじゃないですよ。人違いです」

「……え?」


 予想の斜め上だった。申し訳なさそうにそう言われて困惑と羞恥で一瞬固まってしまったが、まさか記憶に焼き付いたヒーローの顔を間違えるはずはない。マリエッタは改めて顔の正面に回り込み、記憶の中のオクリーと照合してみる。


(……いやいやいや。ちょっとやつれてるけど、オクリーさんに間違いないよ!)


 ……一致している。目をガン開いて隅々まで確認してみるが、身長や顔の造りに至るまでが瓜二つだ。雰囲気が少し柔らかくなった……ような気がする。


「い、いえっ、あなたはオクリーさんですよ。間違いありません」

「人違いです」

「人違いじゃありませんって!」

「……まさか、そんなはずが。ちょっとこっちに来て」

「え? きゃっ」


 何度かやり取りをしていると、オクリーの目の色が急激に真剣味を帯びた。そのまま教会の外に引っ張り出され、人目の少ない場所まで連れていかれる。その場で両肩を鷲掴みにされ、顔をずいと近づけてきた。

 身体を拘束された上に異性の顔が間近に寄ってきて、その不意打ちに心臓が跳ねた。まじまじと見られている。変なところでもあったかなと目を逸らしていると、オクリーの口から奇妙な文言が矢継ぎ早に繰り出された。


「あなた、俺を知っているんですか」

「え? 知ってるも何も、助けていただいたんですけど……」

「俺はオクリーという名前なんですね?」

「一年前自分で名乗ったじゃないですか……」


 『一年前』という単語を出した途端、彼は言い返す言葉を無くしたように押し黙った。何度もマリエッタの顔色を窺って眉根を顰めている。様子のおかしな彼に圧倒されつつ、変なことをされたら股間を蹴り上げてやろうと足元に力を込めていたところ、オクリーは観念したように両肩に乗せていた手を下ろした。


「……すみません、何度も疑うようなことを言って。実は俺、記憶喪失なんです。自分の名前すら思い出せなくて……」

「き、記憶喪失……!? ってことは、一年前のことも全然覚えてない感じですか?」

「……そうなります」

「は、はぁ……そりゃまた大変なことに……」


 命の恩人と再会したら記憶喪失だった件について。だから会話が妙に噛み合わなかったのか。


(ど、どうしよう。いきなり記憶喪失って言われても頭ぐちゃぐちゃで訳わかんないよ……)


 感動の再会かと思いきや、それどころではなくなってしまった。この気持ちを身に染みて理解してもらうまで感謝し倒そうと考えていたのに……。

 しかし、記憶喪失になってしまったなら色々と不便があるに違いない。


「オクリーさん、今住んでる場所とかは……」

「……分かりません。お金もこれだけしか無いので」


 そう言って小包から硬貨を取り出してくるオクリー。一週間は暮らせるだけの纏まった金だが、恐らく家も職もない現状では心許ない金額だった。マリエッタは恩返しのために彼の手助けをすることに決め、その胸を拳で叩いた。


「つまりオクリーさん、今とっても困ってるってことですよね?」

「はい……恥ずかしながら」

「大丈夫です、安心してください! あたしが住む場所とかお金のことは何とかしてみます! ついてきてください!」

「えっ、ちょっと――」


 マリエッタはそう言い放つと、オクリーの手を引いて教会に舞い戻った。そのままモニュメントの横にある扉を開き、関係者用エリアにずけずけと進んでいく。マリエッタはケネス正教上層部が認める有望な兵士――幹部候補の候補と言えるような立ち位置――である。ポーメットが臨時的な保護者になっていることもあって、多少のワガママなら通せる環境にあった。


「ドルドン神父! 少しお願いが!」

「うん? あぁ、マリエッタ君か。そんなに慌ててどうしたのかね?」


 マリエッタは街の教会の管理者であるドルドン神父に直談判して、オクリーの寝床と食事を用意してやってほしいと頼み込むことにした。あまりにも図々しい頼みではあるが、少女のバックには幹部序列四位ポーメット・ヨースターの影がチラつく。ドルドン神父は嫌な顔ひとつせずに彼女の要求を呑んでくれた。


「マリエッタ君の恩人なのか。……うんうん、手厚く歓迎させてもらおうじゃないか」

「良いんですか、いきなり押しかけたのに」

「良いとも、良いとも。……ワシは部屋の準備をしておくから、しばらくは街をぶらついておきなさい」


 ドルドン神父はオクリーの格好を一瞥した後、口端から垂れた涎を拭いながら奥に引っ込んでいった。


 マリエッタは教会の外に出た後、オクリーと共に街を探索しながら一年前に起こったことについて詳細に話し始めた。

 一年前、マリエッタの故郷であるメタシム地方が邪教徒の手によって陥落し、地図の上から消えてしまったこと。謎の魔法によってメタシムの街が見つからなくなった後、近隣にあるダスケルの街も同じようにして破壊されてしまったこと。オクリーが死の直前に助けてくれたお陰で今まで生きてこれたこと。自分も誰かを助けたいという思いからケネス正教の兵役に志願したこと――


 恩人のオクリーに聞いてほしいことと客観的な事実が混ぜこぜになって取り留めのない話になってしまったが、オクリーにとっては過去の自分について知れただけ相当な前進である。彼は食い入るようにして彼女の話を聞いていた。

 ただ、過去の自分が何故ダスケルの街にいたのか、そして「俺にはやることがある」と言って地獄絵図の街に舞い戻った理由は分からなかった。


「マリエッタさんは――」

「マリエッタでいいですよ。敬語もいらないですから」

「そ、そうで……そうか。分かったよマリエッタ」

「はい!」

「良くしてもらって本当に有難いんだけど、用事とか大丈夫なのか? 今の君は国に仕える兵士なんだろう?」

「え? ……あっ!?」


 マリエッタは気分転換の散歩に出かけていたことを忘れていた。小一時間の休憩のつもりが、昼前まで街をぶらついてしまった。時間にして四時間。ポーメットの仮眠時間を優に超えている。駐屯所に帰った途端、ポーメットに「どこで仕事をサボっていたのかな」と鉄拳制裁を食らってしまうだろう。

 まだオクリーの傍から離れたくない気持ちを抑えながら、マリエッタは事情を端的に話して駐屯所に戻らなくてはならないと伝えた。


「なら今日はこれでお別れなのか。マリエッタさえ良ければだけど、暇な時は教会に来てくれると嬉しいな」

「もちろんです! 上司の目を盗んでいっぱい来ますから!」

「はは、程々にな」


 教会に戻っていくオクリーと別れて、マリエッタは大急ぎで駐屯所に全力ダッシュした。

 無事駐屯所に帰還したマリエッタを待っていたのは、三時間の仮眠から目覚めた女騎士ポーメットだった。入口で仁王立ちになって目を血走らせている。その様子に絶望しながらポーメットの真正面に走ってきたマリエッタは、息を整えながら「これには事情があって」と口早に切り出そうとした。


 しかし、拳に息を吐く彼女を見てしまっては言い訳の余地もない。

 ポーメットが睡眠時間を切り詰めて任務をこなしていたのは、今なお国の南西部で助けを求める多くの人がいるからだ。マリエッタの行為は到底許されるものではなかった。


「……よく眠れましたか?」

「お陰様でな」


 マリエッタは素直に拳骨を受け入れた。


「仕事を再開するぞ、マリエッタ」

「……はい」


 弱すぎる拳骨一発で済ませてくれたのはあまりにも優しい罰だなと己の迂闊さを悔いるマリエッタだった。

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