92、わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわく間もなし
人の心がない男。
周りの人間からそう言われていることは知っている。昔からそうだから。
成績を褒めても喜ばない。コンクールで入賞しても笑わない。高校最後の大会で敗退して、仲間が涙を流していても、一人顔色も変えない。子供が苦手だ。目の前で粗相されようものなら舌打ちが出てしまう。部活や仕事のため法事にはほとんど参加したことがない。親の葬式で泣かなかった。
可愛げのない俺は、幼少時から大人になった今もずっと、他人から距離を置かれる。
べつに生まれて此の方何十年、ずっと無表情に過ごしてきたわけでもない。
長男だからと厳しく育てられた。中途半端な成績では褒めてもらえない、一番でなければならなかった。もっともっと、上へ。両親から褒めてもらえるように。
五歳の時に、妹が生まれた。妹には愛嬌があった。箸が転んだだけでもコロコロとよく笑った。感情表現豊かな妹は、成績が悪くても、我儘を言っても、愛された。テストの点が三十点上がったといって、両親はご褒美にケーキを買ってきた。四十点が七十点になっただけだというのに。俺は、九十八点のテスト用紙を背中で握り潰した。
部活でも、俺が部長になって大会の戦績はぐっと上がったが、友人と呼べる者はいなかった。暇を見つけては遊んでばかりいる副部長の方が人望があった。飴ばかり与える奴に代わって、俺はいっそう鞭を振った。結果が伴えば皆理解してくれるはずだ。けれど、卒業後も連絡を取り合う仲間は一人も残らなかった。
人間社会でやっていくには社交性が重要だと学んだ俺は、大学で上京したのを機に、性格を改変するよう努めた。いつでもにこにこ愛想好くして、けっして自己主張することなく、他人を否定せず相槌を打つ。
はじめは上手くいった。輪に入る。けれど、それだけだった。特別に誰かと親しくなることはなかった。いてもいなくても同じ人。何考えているか分からない。いつもにこにこして気味が悪い。
そんな経験を経て、足掻くのをやめた。他人に受入れてもらうことなんて、俺には土台無理なのだ。何も期待しないように、心を閉ざした。
素の自分を出すようになって、状況が変わった。なんて
うるせえよ。
何も与えないくせに、文句ばかり。なんで、他人の陰口を言うお前らが「普通」で、他人に何も求めない俺が「異常」なんだ。全然分からない。分からないから、駄目なのだと思う。俺がこの世界に受入れてもらえる望みはない。
せめて没頭できる趣味でもあればよかったが、他者を意識してのみ生きてきたため自ら夢中になれるものなどなかった。だから、ひたすら仕事に打込み、余暇には然程興味もない映画を部屋でだらだらと眺めた。一日は短く、なのに人生は無駄に長い。
犬を拾った。
飼うつもりなどなかったが、警察に届けた際、飼い主が現れなければ保健所で処分されるかもしれないということで、結局俺が引き取ることにした。どうせ時間も金も余っている。
迎えに行くと、俺の顔を見て嬉しそうにしっぽを振った。
一瞬、大学時代の自身の健気さを彷彿として胸が疼いた。しかし、犬がしっぽを振ったことに他意はないようだった。
数日のうちに、広くはないマンションの一室にもすっかり慣れたようだ。
教えてもないのにペットシートでちゃんと小便するので「すごいじゃないか」と感心すると、以来トイレを済ますたびにトコトコ報告しにくるようになった。さあ褒めろと、無垢な目でへっへっと見上げる。頭を撫でてやるとしっぽを振る。
毎日がそれなりに忙しくなった。正直世話を面倒に思うこともあるが、フードを多めに出しておくと一気に食べてしまうし、犬は蛇口を捻れないから、甲斐甲斐しく世話をする。
散歩に出ると、人が寄ってくる。無愛想な飼い主に代わって、犬が愛想を振舞う。
犬好きの人間には、犬が可愛ければ飼い主に多少の難があっても気にならないのか、挨拶を交わす顔見知りもできた。こちらも飼育初心者なので、訊きたいことも多く、話題には事欠かない。
「お前、すごいな」
視線を合わせて褒めると、リンチンチーはにかっと口角を上げてしっぽを振る。
寝る時には、勝手に俺の布団に入ってきて、ぴたりと体を寄せてすうすう眠る。無垢な信頼は、ふわふわ温かい。こんな俺なんかを無防備に信頼するなんて馬鹿な奴。
「毛並みの良さを見れば、しっかりお世話されているって分かります」
動物病院の医師が言う。
「本来犬は笑いません。自分に向けられる、飼い主の笑顔を真似ているんですよ」
顔見知りが言う。
そうか、俺はこんな風に笑えているのか。なかなかいい笑顔じゃないか。
「そうだろ、リンチンチー」
頭を撫でると、しっぽを振ってにかっと笑う。
俺もつられて笑う。そうか、俺の方こそこいつに無垢な信頼を寄せているのだ。気付けば晩酌の時に、リンチンチーを相手に愚痴を溢したり、時には酔っ払って涙ぐんだりする。そんな時には、濡れた鼻でツンと俺の体を
といって、今更人生が大きく変わるということもない。相変わらず対人関係は苦手だ。けれど、他者を愛し、愛されていると実感させてくれた。それで十分だ。
「お前は世界一の名犬だ」
頭を撫でる。誰も知らないマンションの一室、俺達は今日も世界一の笑顔で讃え合う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます