好意よりも大事なもの⇒仕事

「……悠人君……」


 どうにもこの空気が居たたまれない。けれど、レジにはクロワッサンを持った彼女が立っているわけで。焼きたてを買ってくれるのはめちゃ嬉しい。


「ありがとうございます。お支払いは現金でよろしいでしょうかぁ~?」


 セールス笑顔だってのに相手は真顔のまま、何も言わずにパンを見つめている。


 さっさと金出せよ。暇じゃねえんだぞこっちは。


「……私、まだ言いたいこと、ちゃんと言えてない」


 声が震えていた。たぶん彼女の中では、今日このときが一世一代の覚悟だったのだろう。知らんがな。僕はいつだって今が全てだ。


「じゃあ、スタンプカードはお持ちで?」


 乾いた笑いを浮かべて僕は言った。営業時間外にやってくれ。


 彼女の口が開きかけすぐ閉じられる。息を吸うタイミングを失って、それでも彼女は無理やり言葉を押し出した。


「ねえ……なんで、あんなふうに消――」


「スタンプカードないのでしたらご新規様ということで新たに発行しますね」


 確かタンスの中にあったな。一度見聞きしてよかった。言いながら、僕は手元の台帳を開く。ボールペンを握り、日付と品名をとてつもなく汚い字で書きあげる。

 デジタル時計から見よう見まねでやってやった。


「名前フルネームでお願いします」


 彼女は唇を噛んでいた。ありありと不満が分かる。さもありなんだ。


「……いらない」


「あ、そうですか。でしたら――」


「いらないってば!」


 大声を出され僕は手を止める。静かにペンを置いた。大人として振る舞う気なんてなかったがやっぱりやめた。


「……なにっ?…なんなの?…ほんと…どうしてそんなに嫌なの…悠人君……」


 怒りと屈辱に混じった唇が震えていた。泣きたくて、でも泣いたら負けみたいで、どうしても崩せない理性の中で、彼女はそれでも僕にすがろうとしていた。


「だから、なんだ?」


「ッ……へ?」


「僕はあんたを知らん。君も僕を大して知らん。知らんことだらけで先走ってどうするつもりなんだ?」


 彼女の目が見開かれたまま言葉を失った。 桜井さんが何事かとノコノコ後ろに来ているので僕はさっさと切り上げたかった。

 店主は大変困っている。僕が渦中そのものなので申し訳ない。

 レジ台の前でクロワッサンが落ちた。あーあ、これだからこういうの嫌なんだよ。


「僕も正直。僕自身のことなんて知らん、君がどう思ってるのかもなんて猶更分かりっこない。ここで君の気持ちが晴れることを期待してるならお門違いだ」


 僕は淡々と相手の浅い二重の目を覗きこむ。急速に相手の瞳孔が広く。ちゃんと見て欲しいらしいから、見てやった。すると、すぐさま茶色のカールがかった髪が跳ねて視線がそらされる。ふん、威圧感に負けたか。


 仕方なく僕は、レジ奥の棚に視線を移しながら続ける。相手が見てほしくないならどうしようもないね。結果的に出たのは、冷えた声だった。


「僕言ったよな?人に話があるなら要点整理して場所を選べ。タイミングを合わせろ。それができねえならお話なんてできない。それに…ここはそういう場所じゃない。違う?」


 たったそれだけのこと。それだけのはずなのに、彼女はまるで殴られたみたいに、目を伏せた。


 そうして…ようやく、レジ台にお金を置いた。そっと、置くように。


「……ごめん。ほんと、ごめん。……馬鹿みたいだよね」


 そう言って、代金ぴったりにして去るように逃げていく。スタンプカードも受け取らず、落ちたパンも拾い上げもせず、ただただ都合の悪いことへの逃避だ。

 

 扉のチャイムが鳴る。軽やかに空虚な音だった。気持ちよくねえな。

 パンだけが残された。クロワッサンが一つ、レジ前の床に落ちている。明日の朝飯にしたい。


「あー……拾っておいて…」


 そう呟いて僕は桜井さんに視線を向けることなく、奥の作業台に戻った。すごくいたたまれない顔をしていた。

 おっと、そうは問屋が卸さんぞ。


「ちょっと席外しますね~」


 僕は新しいパンを袋詰めして、スタンプカードを握りしめた。 背中に視線を感じる。店主は何か言いたげだったが、気づかないふりしてレジを離れた。

 扉を開けて外に出る。空気が気持ちいい。いつもこんなきれいな夕暮れだったらいいのに。


 通りの角を曲がる彼女の背中が見えた。走っている。逃げるように。いや、実際逃げているのだろう。


 だけど、訓練されたわけでもないのですぐさま追いついた。走り抜いて通せんぼしてやったら、涙目になりながら恐怖している。


 片手を突っ込んだポケットの中で、スタンプカードがくしゃりと音を立てた。


 僕はそれを取り出して、数秒ほど見つめる。

 白紙だ。なにも書かれていない。未使用。そりゃそうだ。僕は書ける側の人間じゃない。

 けれど。やらない理由はどこにもない。

 勇気を持った人間に敬意を示しても罰は当たらんだろう。


 「はい、これ」


 僕はスタンプカードをぐいと彼女に押しつける。反射的に受け取った彼女は、それが何かも理解できないまま、ぎゅっと手に握った。


 「……なに、これ」


 掠れた声で言われると、ため息が出ちまう。走って息が荒くなったので整えながら僕は言ってやる。


 「お買い上げありがとうございました。焼きたてクロワッサン一個ぶん。あと、住所今から言うからメモッときなよ。それはメモ」


 彼女はきょとんとした目で僕を見上げる。まるで、世界が反転したかのような顔だった。


 「……え?」


 「だから、メモ。じゃ行くぞー」


 僕は彼女の返事も頷きも待たず、一方的に喋り始めた。仕事に戻んねえとなそろそろ。


「――町、17-1番地。ひまわり荘。ポストに名前は書いてないけど、大家さんに聞けば全部教えてくれるから。あ、そうそう電気代払えてないからインターホンは聞こえん。三回ノックすれば多分出るはず」


 彼女がポケットをまさぐって必死に記録しようとするのが視界の端に入る。

 だが、そこまで確認してから僕はもうくるりと背を向けていた。


 「じゃ、またのご利用お待ちしてま~す」


 背中から「えっ、待って、えっ!?悠人君、ちょっと待っ――」という声がかすかに聞こえたけれど、僕の足取りは一切緩まなかった。

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