4 夫婦

(わ、笑っている、の……?)


 彼の口元に、ふと思い出される人物があった。

 無実の罪で殺された自分の父だ。物静かな人で、どんなに愉快なことがあっても、こんな風に口の端を緩めるだけだった。

 こんな風に、穏やかに……。


「これはどうだ。ヴンサン家の娘」


 次に放たれたのは、優しい光だった。

 細かい光の粒がループレヒトの体を照らす。落雷のような激しさはない。柔らかく、例えるならば、日の光を空かす花びらのようだった。


 彼を中心に据えて、部屋の中にたくさんの花びらが散っていた。

 室内で、風は吹かないはずなのに、花弁がひらひらと舞いながらジャンヌの体をかすめる。


 誘われるように腕を持ち上げた。ただれた手を花にかざしてみると、指先がじわりと温まっていく。


「……」


 その温度はまるで、従者が用意してくれた湯船、または真冬の暖炉の炎、春先の日差し。

 花びらたちはジャンヌとの邂逅かいこうを喜ぶようにくるくると回り始め、やがて全身を包み込んだ。


 朦朧としかけていた意識が徐々にはっきりと確かなものになっていく。焼けるような痛みは嘘のように引き、肌のただれも消えていく。


(『治癒』……)


 自分の手を見下ろしてジャンヌは息を呑む。

 魔力を扱える者たちの中でも、この能力を持つのは少数だ。


(魔族にも治癒能力があるだなんて……)


――先ほどと同じようにしてみなさい。


 ほうけていたジャンヌは、彼の言葉を思い出す。


(さっきと、同じように……)


 花びらの渦を、胸に抱くように手繰たぐり寄せた。

 一枚いちまいの花弁から、さらに花びらがこぼれる。光量が増し、目も開けていられなくなる。


「な、なにをやっているんだい……」


 ジャンヌの様子にデボラがおびえたように呟き、常人にはこの光が見えないのだと改めて実感した。

 おそらく、光源である魔王さえにも。


 いつの間にか、彼は目の前に立っていた。ジャンヌには、花びらの中から彼が突然現れたように思え、驚嘆した。

 自分の手を、彼の大きく温かい手がそっと取る。手つきは宝石でも扱うように優しい。


 ジャンヌは彼を見上げ、彼はジャンヌを見下ろしていた。


「選べ。どちらがいいか」

「え……?」

「森に放り出され、そして飢え死ぬか、それとも、」


 美しい瞳の中に、戸惑う自分の顔が映っている。


「私の妻となるか」


「…………………えっ?」


 口から漏れたのは、死を覚悟していたとは思えないほどに間抜けな声だった。


(い、今、なんて……?)


「ジャンヌ。私の子を産め。それがおまえに与える役目だ」


 彼はジャンヌの手の甲に口づけをした。






――森に放り出され、そして飢え死ぬか、それとも、

――私の妻となるか。


――選びなさい。どちらがいいか。


 ジャンヌにとって、選択肢は一つしかないようなものだった。


 婚礼の儀式はすぐに、城内の礼拝室で始められた。

 やはり簡素な造りの部屋だったが、中央にはジャンヌも信仰する神の聖像がひとつ飾られていた。


 異端であるはずの魔族が、一体なぜ。

 そもそも、自分はなぜ魔王に求婚などされてしまったのか。食べられるのではなかったのか。


 疑問も投げかけられぬうちに、ジャンヌは祭壇の前に立たされた。室内のベンチには従者たちが並んで座っている。

 司祭はなく、儀式の主な介添えはアイリィが行った。

 彼女は一枚のヴェールを広げ、これから夫婦となるループレヒトとジャンヌにふわりと被せる。


「ジャンヌ」


 布の中で静かな声がこもる。

 彼はジャンヌの左手を取り、薬指に指輪を通した。金の台座フープに赤い石の飾りベゼルがはめられている。

 紋章の類はどこにも無い。


 指輪一をつはめただけの自分の手だが、巨大な石でも乗せられたみたいに重く感じた。

 ループレヒトが手の甲にキスをする。


「生涯、あなたを愛することを誓おう」


 形ばかりのキスに、演劇の台詞を読み上げたような淡々とした文句だった。

 従者たちが立ち上がり、讃美歌を歌う。あるじの言葉と相反し、心のこもった歌声に感じられた。




 豪華な食事を出され、ジャンヌと魔王だけのささやかな宴会が開かれた。

 即席とは思えない豪華な食事が出されたが、舌に乗せてみても味なんてほとんどしない。何もかもが現実離れしているように思える。

 差し向かいのループレヒトも食事にほとんど手を付けず、酒杯で果実酒を飲むばかりだった。



 食事でもてなされたあと、ジャンヌは部屋を移され、また着替えをさせられた。

 今度は寝間着だった。

 横になればすぐに寝られるほどくたくただったが、婚礼の儀式を済ませた後だ。このまま寝かせてもらえるはずがない。


 八歳まで蝶よ花よと育てられ、その後は従属として扱われていたジャンヌだが、「初夜」の意味がわからぬほど世間知らずではなかった。


 今夜、ループレヒトとジャンヌは夫婦となった。だから、今からするべきことは、ただ一つ。


「お支度は済みましたね。では参りましょう。旦那様の寝所へ」


 従者の少女、アイリィは何食わぬ顔でいる。


「あ、あ、あの……、つまり、い、い、い、いいい、今から……」


 夫婦となったのだ。彼と交わったとしても地獄に行くことはない。

 しかし、これから自分の身に起こるであろうことを想像すると背筋がぞっと冷えた。


「いいかいっ! 決して旦那様に刃向かうんじゃあないよっ。声も上げてはならないからねっ。……ふごおっ!」


 いきり立つデボラの口をアイリィがむんずとふさぐ。


「……ジャンヌ様」


 彼女は「お嬢さん」ではなく、「ジャンヌ様」と呼び方を変え、微笑んでみせた。


「深呼吸をして。リラックスです。なにもかもを旦那様にゆだねれば、きっと大丈夫ですよ」

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