5 青年

 声をかけてきた青年は目深に麦わら帽子を被り、金色の前髪を垂れさげて顔を隠していた。


 従属のものほどではないが、古着屋で誰からも相手にされないような擦り切れた服を着ている。靴にも穴が開いていた。

 乞食だろうかと考えたが、それにしては髪からのぞく頬は血色がよく、声にも張りがある。


 彼は了承を得ずにジャンヌの右手を取り、しげしげと指先を眺めた。


「栄養が足りていないようだね。爪も変形してしまっている。足がふらつくことがあるんじゃないのかい」


 彼は手の甲にキスしそうなほど顔を近づけていた。前髪の隙間から美しい形の唇が見える。

 異性に触れられて、ジャンヌの顔はかっと熱くなっていく。


 気がつけば、彼の身体は白い光に包まれていた。夏の日差しを独り占めしているかのようだ。

 呆気に取られてものも言えないうちに、遠くから怒鳴り声が聞こえてきた。


「おいっ! なんだおまえは! 他人様の従属に勝手に触るんじゃねえ!」


 ジャンヌがついてこないことに気がつき、買い付けの男が腹を立てて戻ってきたのだ。


「これは失礼。今にも倒れそうな女の子がいると思ってね。すぐに食事を与えたほうがいい。連れて帰る前に倒れられても困るだろう」

「女の子ぉ?」

 男が鼻を鳴らす。

「従属に女もなにもあるか。失せろ、クソガキ」


 男はつばを吐き捨て、ジャンヌの細い腕を引っ張った。

 連れて行かれながら、曲がり角の手前で青年を振り返る。彼はジャンヌと目が合うと片手を上げ、口角を上げてみせた。


「……」


 角を曲がり、路地の中に入る。

 名も知らぬ青年の温もりが残る右手を見下ろした。握りしめていた拳をそっと開く。

 中にはボタンが一つ入っていた。先ほど、金髪の青年にこっそりと握らされたものだった。


 ボタンをよく見ると、両翼を広げた鳥の絵が彫られている。


(紋章?)


 気遣ってもらった手前で申し訳無くなりつつもも、盗品を疑った。紋章を所持するような見なりにはとても思えなかったからだ。

 ボタン自体はとくに高価なものというふうにも見えないから、きっと換金することもできない。あの青年の意図はわからなかったが、彼の身体は確かに発光していた……。


 自分を先導する頭垢の男を盗み見る。

 紋章入りのボタンは、誰にも見せないほうが賢明だろう。

 そう判断して、ジャンヌは下着の中に手を入れ、薄い胸の間にボタンをしまいこんだ。


「……!」


 襟元えりもとから腕を抜いて、異変に気が付く。

 手首にくっきりとついていたはずの縄のあとが、きれいに消えていた。縄を切られてから時間は経ったが、いささか治りが早すぎる。


 胸元にしまった紋章入りのボタンと、手首の痕。

 そして青年の姿が頭の中で、幻燈のように浮かんでは消える。




 街の喧騒や家畜市の悪臭が遠のいた頃になって、落札者の男は足を止めた。考え込んでいたジャンヌは、もう少しのところで彼の背中に衝突しそうになった。


 二人で立ち止まったのは、馬車どころか人間同士がすれ違うのもやっとの幅の路地の中だ。

 向こうに広く空いた通りが見えた。今立っている路地が薄暗いせいで、大通りに降る日差しがやたらと眩しく感じる。明るみを多くの人々が行き交っていた。きっとあの通りに迎えの御者が待っているのだろう。


「おまえ、ハツモノか?」


 突然振り返った男の酒臭い呼気がジャンヌの顔に吐き出された。

 「ハツモノ」の意味が分からず、ただ彼の顔を見返す。


「へへっ、そうか……。ハツモノか」


 男はへらへらと笑う。

 言葉の意味は分からなかったが、男が機嫌を損ねなくてよかった。そう思ったときだった。


「……っ!?」


 石畳の上に、勢いよく押し倒された。後頭部をがつんと打つ。衝撃で視界が白く光った。

 痛みに耐える彼女の上に、容赦なく男がのしかかった。

 彼はジャンヌの服の襟元をつかみ、ぐっと引っ張る。粗末な布はいとも簡単に裂かれてしまった。


「悪く思わないでくれよ。うちの旦那様はハツモノにやかましくされるのがお嫌いでね……」


 男の目は異様なまでに見開かれている。

 怯え切った自分の顔が彼の眼球に映されてされているのを見つけたとき、「ハツモノ」という言葉の意味をようやく理解した。


 この薄汚い男になぶられる。

 それは、死よりも耐え難い恐怖だと思えた。


 暴漢の脂ぎった手が服の中に滑り込んできて、喉から声が漏れた。


「……て」


 それは、己の感情とともに、胸の奥に封じ込めていたはずの声だった。


「……けて、助けて!」


 幼いころからそばにいてくれたベランジェ―ルと別れたときも、翼をもがれたドラゴンに自分の境遇を重ねたときも押し殺せたはずの声が、今さらになってのどからとび出ようとする。


 昔、川で自分のボロを洗っていたとき、機嫌の悪い従者に足で蹴られて水面に突き落とされたことがある。奥様に呼ばれたのに無視をしたと、覚えの無いことでとがめられ、三日間食事を抜かれたことだってある。

 そのときにはしっかりと飲み込めたはずの感情まで、つられて口から吐き出される。


「助けてっ! 助けて! 助けて……」


 ジャンヌは必死になって叫んだ。赤子が産声を上げるみたいに。

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