儀式

 拓海はタクシーから降りるなり、マンションのエントランスに飛び込んだ。

 麗子のマンションを訪れるのは今日がはじめてだった。十階建てほどの、モダンな造りのマンションだった。

 オートロックの操作盤にあらかじめ伝えられていた部屋番号を打ち込むと、麗子の弱々しい声が聞こえてきた。部屋の鍵は開いてるから勝手に入ってくれとのことだった。

 開いた自動ドアを抜けてエレベーターに乗り込み6階で降り、彼女の部屋へと急ぐ。

 612号室の前で立ち止まると、彼女の言いつけ通りにインターホンを押さずに玄関扉を開けて中に入った。

「麗子!」

 彼女の名を呼びながら廊下を進む。ところが彼女の姿はすぐには見つからず、呼びかけへの反応もなかった。

 リビングに入ると、ドアが少しだけ開いている部屋があった。間取り的に寝室だと思われた。拓海はその部屋へと向かう。

 足を踏み入れた部屋は、予想通り寝室だった。照明が点いていない室内は薄暗かった。

 ダブルベッドの上に麗子の姿があった。ベッドの上で上半身を起こしていた。いつもと様子が違うのは、顔全体に包帯が巻かれていることだった。露出しているのは、右目と口元だけだ——。

「麗子!」

 拓海は声を上げながらベッドに駆け寄った。

 近づくと、麗子は顔を背けた。

「麗子、何があったんだ!?」

 拓海はベッドの脇でかがみ込むと彼女の手を取って聞く。

 麗子が弱々しい声で答えた。

「お料理してるときに、キッチンで転倒してしまって……。それで熱湯を……、頭から……」

「そ、そんな……」

「あのね、拓海さん……、命には別状ないの……。だけど……、だけどね……、火傷のせいで……」

 麗子が声を上げて泣き出した。

 拓海は彼女の背中に手を回した。彼女の震えが手のひらを通して伝わってくる。落ち着かせるように、背中を何度も優しくさする。

 かける言葉を探していたところで、麗子が顔を上げて言った。

「拓海さん、覚えてる? どんなことがあっても、わたしのこと、愛してくれるって」

「ああ、覚えてるよ……」

 ここで麗子が、顔に巻かれた包帯に手を持っていった。

「拓海さん、これ見て驚かないでね——」

 何重にも巻かれた包帯がほどかれていく。

 拓海は生唾をごくりと飲み込む。これから現れるであろう姿を想像して緊張が高まっていく。

 数秒後、包帯がほどけ、麗子の変わり果てた姿が露わになった。

 変貌した素顔を見た瞬間、拓海は思わず悲鳴を上げそうになった。それは想像していた以上に生々しい姿だった。

 おぞましい顔だった——。顔全体が赤黒くただれており、元の美しかった顔はどこにも残っていなかった。髪は頭頂部にかけてほとんどが失われていて、まるで戦国時代の落ち武者のようだ。映画の中のゾンビとも形容できる。長くは直視できず、視線を下げた。

 黙っていると、麗子が声を震わせながら言った。

「あのね、拓海さん……。先生が言うには、皮膚の移植をしても、元の顔に戻すのはむずかしいだろうって……。あと、失った髪も、もう生えてはこないだろうって……」

「そうか……」

 それ以上何も言えずにいると、麗子が静かに泣き出した。寝室を支配していた重苦しい空気が、さらに重さを増していく。

 麗子の顔が想像を超えていたため、事前に用意していた励ましの言葉が口から出てこなかった。彼女の手を握って、下を向いてることしかできなかった。

「ねえ拓海さん、もうわたしのこと、嫌いになっちゃったわよね……」

「そ、そんなこと——」

 否定しようとしたところで、麗子が懇願するように言ってきた。

「でも拓海さん、前に誓ってくれたわよね。どんなことがあっても、わたしのこと、愛し続けてくれるって」

 麗子の言葉に、拓海は動揺から脱却する。そして彼女の目を見据えて言った。

「ああ、もちろんじゃないか。ぼくはいつまでも、君のことを、愛し続けるよ——」

 麗子はひどく驚いたように目を見開いた。

 拓海はベッドの上に身を乗り上げて麗子を強く抱きしめた。

 耳元で、麗子の嗚咽する声が聞こえてきた。

「麗子、もう泣かなくていい。君のことは、ぼくが死ぬまで守ってあげるから」

 言ったとたん、麗子が身体を離した。

「どうしたの?」

 麗子が正面からじっと見つめてくる。それから念を押すような調子で聞いてきた。

「拓海さん、いい? この顔をよーく見て。ほら、わたし、こんなバケモノみたいな顔になっちゃったのよ。髪の毛もほら。もう残ってるのは耳のまわりだけ。こんな姿じゃ、街もいっしょに歩けないのよ。映画にも行けないし、旅行にだって行けやしない。それでもわたしのこと、本気で愛してくれるっていうの?」

 拓海は、麗子の肩を両手でつかむと力を込めて言った。

「ああ。約束したじゃないか。いや、誓ったじゃないか。ぼくはどんなことがあっても君を愛し続けるって。あのときの誓いは口先だけじゃない。それを今、ここで証明してみせるよ。麗子、これからもぼくは、君を全力で愛し続けるよ」

 数秒後、麗子の目から大粒の涙がこぼれはじめた。

 拓海は触れるか触れないかといったところまで、麗子のただれた顔に自分の手のひらを持っていく。

「痛かったろう、こんなひどい火傷を負って……。でもきっと心は、もっと傷ついただろうね……。その心の傷をぼくが少しでも、引き受けられたらと思うよ……」

「ごめんなさい……」

 麗子が、ささやくような声で言った。

「何も謝ることなんてない」

「いいえ、違うの。そういうことじゃないの……。実はね……」

 麗子は少し逡巡するそぶりを見せたあと、ただれた自分の顔に右手を持っていき、左顎の下あたりをぐっとつかむと、皮膚を引き剥がすように腕を動かしていった。

「麗子、何をするんだ!?」

 ベリベリと音を立てながら、ケロイド状の皮膚が彼女の顔から剥がれていく。そのまま黙って見ていると、剥がされた皮膚の下から、元の美しい顔が姿を現した。

「麗子……。これはどういうことなんだ……」

 拓海は声を震わせながら聞く。

「ごめんなさい……」

 謝罪する麗子に向けて、拓海は少し強めの口調で聞く。

「もしかして、ぼくを試したのかい?」

 問うと、麗子は悲しそうな顔をした。いたずらがバレた子どもが親の叱責に怯えるような顔だった。

 麗子は首を大きく横に振って弁解するように言った。

「違うの、違うの、騙す気なんてなかったの……。でもどうしても、確信が欲しかったの。どんなことがあっても、わたしのことを愛してくれるっていう……」

 こちらが黙っていると、麗子が懇願するような眼差しを向けてきた。

「ごめんなさい、本当にごめんなさい……。拓海さん、お願いだからわたしのこと、嫌いにならないで……」

 潤んだ黒い瞳が、こちらに向けられてくる。

 拓海は彼女の顔を優しく包み込むと言った。

「もう、こんな真似はしなくていい。ぼくを試す必要なんてないんだ。だってぼくは、もう君なしじゃ生きられないほど、君のことを愛してるんだから」

「ああ——!」

 黒い瞳が感激したように大きく見開かれた。

「麗子、結婚しよう」

「え!?」

 突然のプロポーズに驚いたようだ。

「あの写真展で会ったあの日、ぼくは君を一目見て、運命の人だと感じたんだ。ぼくにはもう、君しかいないんだ。君以外の女性といっしょになることなんて考えられない」

「ああ、拓海さん!」

 麗子は声を上げるときつく抱きついてきた。そして独り言のような声で言った。

「パパ……。この人となら、いっしょになってもいいよね……」

 しばらく無言で抱き合いながら互いの体温を感じ合っていたところ、麗子が伏し目がちに言ってきた。

「拓海さん。実はまだ、隠してることがあるの——」



       *  *  *



「ここは?」

 タクシーを降りるなり、拓海は聞いた。

 目の前には、鉄製の柵でできた大きな門がそびえていた。高さは三メートルほどはあるだろうか、簡単には乗り越えられない高さだ。柵の左右に目を向けると、石柱の上部に監視カメラが設置されていた。

 門の向こう側に目を向ける。きれいに剪定せんていされた庭木が生い茂っていて、奥には、見るからに立派な洋館が薄暗がりの中に鎮座していた。

「麗子、ここは?」

 もう一度聞くと、麗子は恐縮したような様子で答えた。

「ここ、わたしんちなの……」

「え!?」

 拓海は目を見開いて麗子を凝視した。

「実はわたし、ただのOLっていうのは嘘なの……」

 麗子はバツが悪そうな顔をして言った。

「ここが君んちってことは、さっきのマンションは?」

「ああ。あれは、知り合いのマンションなの。その人、今は海外に住んでて、わたしが鍵を預かってるから、たまに使わせてもらってるの」

「麗子。今まで何で、嘘をついてたんだい?」

 拓海は努めて優しい口調で聞く。

 麗子は言いにくそうに答えた。

「嘘をつくのが悪いってことは、もちろんわかってるの。でもね、過去に、お金目当てでわたしに近づいてきた人がいたの。それも一人や二人じゃなかったの。それでそれがトラウマになってて、あなたを試すような真似をしてしまったの……。ごめんなさい。今まで嘘をついてて……」

 麗子は肩を落としてうつむいてしまう。

 拓海は、そんな彼女の肩にそっと手を置くと言った。

「いや、いいんだ。その気持ち、わかるような気がするから」

「本当?」

「ああ。君はお金持ちっていう肩書きが邪魔をして、素の自分を見てもらえないんじゃないかって不安になってたんだろ?」

「ええ。その通りよ」

「ならぼくは、逆のパターンだ」

「逆?」

「そう。真逆だね。ぼくが売れない役者だとわかったとたん、多くの女性がぼくから去っていった。売れない役者という肩書きを聞いたとたんに、ぼくへの興味を失っていくんだ。どんな肩書きであろうと、ぼくはぼくでしかないというのにね……。でも今思えば、女性側に非はなかったんだと思う。そりゃそうだよね。だってぼくみたいな売れない役者なんて、将来性ゼロなんだからさ。とくに結婚を意識してる女性にとっては、ぼくなんて、不良物件みたいなものだからね……」

 そう自嘲気味に語ると、麗子が少し怒ったような口調で返してきた。

「拓海さん、そうやって自分のことを卑下ひげするのはやめて。わたしは信じてるから、拓海さんのこと」

「ありがとう……。でもさっきの言葉は撤回させてもらうよ」

「え? さっきの言葉って、もしかして——」

「そう。結婚の話さ」

「なぜ!?」

「君とぼくとでは、立場が違いすぎるからだよ。ぼくは貯金もない売れない役者だ。こんな豪邸に住んでるような君とでは、とてもじゃないが釣り合わない」

 麗子が憤ったように声を荒げた。

「だから今も言ったでしょ。自分のことを悪く言わないでって。わたしはあなたの肩書きなんてどうだっていいの。わたしは、ありのままのあなたが好きなの。だからわたしに応援させて、あなたの夢を」

「麗子……」

「ね、いいでしょ? わたしにあなたの夢を応援させて」

 拓海は、麗子の目を覗き込んで聞く。

「本当にいいのかい? こんなぼくで」

「いいのよ! そんなあなただから、いいんじゃない!」

 麗子が上げた声は、周囲に響くほど大きかった。

 拓海は彼女の視線をしっかり受け止めてから言った。

「わかった。ならもう一度、改めて言わせてもらうよ——。麗子、ぼくと結婚してほしい」

「ええ。喜んで」

 仕切り直しのプロポーズに、麗子は笑顔で承諾してくれた。

 しばらくの間、互いに愛の深さを確かめ合うかのように見つめ合う。通りがかりの通行人がこちらに視線を向けてきたが、拓海は通行人から隠すように彼女を抱き寄せた。

 麗子がこちらの耳元で、ささやくように言ってきた。

「拓海さん、これからは役者一本でがんばってほしいの。だから今やってるアルバイトは全部辞めて。生活費はすべて、わたしが負担するから」

「いやそんな、君の負担になるようなことは……」

「負担なものですか。あなた一人をサポートするくらい、パパが残したお金でどうにかなるんだから。だからわたしのためにも夢を追いかけてちょうだい」

「本当にいいのかい?」

「ええ。もちろんよ」

「麗子、ありがとう——」

 拓海は、麗子を強く抱き締めた。

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