クライマックス
ある日の午前中、机で仕事をしていた俺に部長が声をかけてきた。
「君、午後からの会議の準備はできているのかね?」
部長の問いに俺は答える。
「はい、大丈夫です。準備できています」
部長は満足気に頷く。
「そうか、それならいいんだ。何しろ大事な会議だからね。じゃあ後はしっかり頼むよ」
そして部長が去っていった。
その後、俺は席を離れ、階段を上がって自社ビルの屋上までやって来た。屋上には誰もいない。空は雲一つない青空だが、少し強い風が吹いている。
俺はポケットからタバコを取り出して、吸った。そして吸い殻を屋上から地面に向かって落とした。屋上から落ちていく吸い殻を眺めてから、俺は天を仰ぎ意を決して呟く。
「よし、死のう」
そう、俺はこれからさっきのタバコの吸い殻のように、屋上から地面に落ちて死のうと思っている。たった今決めたことだった。
自殺の理由は、先ほど部長に言われた会議のことである。俺は部長の問いに「はい、大丈夫です。準備できています」などと調子のいいことを言ったが、実は何も準備できていなかったのだ。いや、準備できていないどころか、さっきまで会議があることを忘れていたのだ。うっかりしていた。
大事な会議なのだ。社内だけでなく、取引先の会社の人間も参加する大きな会議だ。その上、俺は会議で重要な企画のプレゼンをすることになっており、つまり今日の会議は俺が主役と言ってもいい。なのになんの用意もできていない。もはやここから飛び降りて死ぬしかない。
俺は2本目のタバコを吸う。なんとなく、さっきよりも気分が落ち着いて来た。
「何が方法はないのか?」
少し考えてみるが、やはりダメだ。会議まで後2時間程、それまでに必要な資料を用意するなど不可能だ。そもそも、この会議は2週間前から予定されていたものだ。本来2週間でやる仕事を2時間で完成させるなど無理な話なのだ。
「やはり死ぬしかないか」
吸い殻をまた屋上から投げ捨てて、3本目のタバコに火をつけた。そもそもこんなところでタバコを吸っている場合ではないのだが、なぜかやめられない。現実に向き合うことを身体が拒否している。
「いっそ逃げようか」
死ぬくらいなら逃げたほうがいいかもしれない。なら一刻も早く逃げたほうがいいのだが、逃げた後のことを考えると躊躇してしまう。金もなく行く当てもないので、どうせどこかで行き倒れになるだろう。
「やはり死ぬべきか」
また吸い殻を投げ捨て、4本目のタバコを咥えた時、消防車のサイレンの音がした。
「うるさいな、人が考えてる時に」
実際は言うほど考えているわけでもなかったのだが、俺はそんな独り言を言った。
しかし、おかしなことにそのサイレンの音はだんだんと大きくなっていった。つまりここに近づいているのだ。
「近くで火事でもあったのか?」
俺はそんなこと言いながら吸い殻を捨てようと屋上から地上を覗き込むと、恐ろしい事実に気がついた。
このビルの下の階から火と煙がででいるではないか。つまりあの消防車はこのビルの火を消すためにやって来たのだ。よく周りを見ると煙だらけになっている。ぜんぜんきがつかなかった。
俺は急いで階段を降りると、ビルの中は避難する社員たちで大騒ぎになっていた。その中には部長もいて、俺に声をかけて来た。
「おい! 一体どこに行ってたんだ! 早く逃げろ!」
一応俺は部長に聞いてみる。
「あの、今日の会議ってどうなるんですか?」
部長は怒ったような呆れたような顔で怒鳴る。
「そんなもん中止に決まってるだろ! 早く避難するぞ!」
煙の立ち込めるビル内から、悲鳴を上げながら脱出する社員たち。その中には1人、ほくそ笑んだ奴がいたことに誰も気づいていないようだった。
その後、部長が言った通り会議は中止になった。それどころではないからである。この火事でパソコンやら資料やらが多く焼けたので、俺の会議資料も焼けたということにしておいた。延期された会議が開催されるまでに何とかなりそうだ。
ちなみにこの火事の火元だが、どうやらタバコの不始末が原因らしい。その日は風が強かったので、どこかに捨てた吸い殻が風で飛び、ビルの中に入ったのかもしれないと消防士が言っていた。
まあ、俺には火事の原因など、どうでもいいことなのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます