第七十八話 恋心と本当の自分

「ねえ、君、独りなの? 一緒に回らない?」


 ナンパの定形文が耳に入り、楓はかすかに眉をひそめた。


「ねえ、独りなんでしょ、いいじゃん別に」


 断ろうとすると、ナンパ少年は無理にでもと言わんばかりに詰め寄る。


 いくら断ろうともケロッとした顔をされるばかりで、楓は愛想笑いを浮かべるのも精一杯だった。


「あの、困ってるんですか? 助けてほしいんですか?」


 楓がそう言うと、ナンパ少年は一瞬戸惑った顔を浮かべた。しかしすぐに顔を自信に満ちた表情に戻して甘い言葉を掛ける。


「君がかわいいから、一緒に回りたいんだ」


 喉に穴が開いているのか疑ってしまうほど吐息の混じった声に、ゾゾゾッと背筋に寒気が走った。


(いや、困ってるって言ってよ。そっちの方が楽だから)


 一気に精神が疲弊した楓は、愛想笑いを保てなくなっていた。


(さっさと逃げたいなぁ)


 楓は自分の格好を確認した。浴衣に下駄。夏祭りに適した格好だが、お世辞にも走りやすいとはいえない。走って逃げるのは難しいだろう。浴衣は君乃に半強制的に着せられたもので、


「ほら、オレ、案外かっこいいと思うんだけどな」


 歯が浮きそうな言葉を投げかけながら、ナンパ少年はウィンクをした。楓はかったるそうな眼で、その顔をマジマジと見た。


(あと三十年ってところか)


 確かに顔は整っている。しかし好みではない、と楓は見切りをつけた。


(あの人そっくりになりそうだけど、今のままじゃね)


 どうすれば諦めてくれるだろうか、と思案していると、ナンパ少年の背後に人影が現れた。


 ゴツン、と。鈍い音が響いた。


「何をやってるか、このバカ孫が!」


 その渋い声には聞き覚えがあった。楓の顔がみるみる明るくなっていく。


「用務員さん!?」

「お、青木じゃないか」


 楓の視線の先には、中学校の用務員がいた。普段はオレンジ色の派手な作業服を着ているが、今はYシャツに半ズボンというシンプルな格好をしている。


(そういえば、同い年の孫がいるって言ってたなぁ)


 用務員に促されるまま、近くのベンチに座った。楓の隣には用務員が座り、ナンパ少年はベンチの横で立たされていた。


「孫が悪かったね。なんならビンタの一つや二つでもしてやってくれ!」


 ナンパ少年は「それは酷くない!?」と抗議の声を上げた。


「いえ、困ってはいましたけど怒ってはいないので」


 楓は背筋を伸ばしながら、さりげなく自分の臭いをかいた。汗臭くないか。変なにおいしないか。何度確認しても不安はぬぐえない。


 浴衣はおかしくないだろうか。白地にカキツバタ柄があしらわれており、目にも鮮やかな浴衣だ。浴衣の着こなしだって何度も確認した。大丈夫なはずだ、と自分に言い聞かせる。


「お詫びと普段のお礼だ」


 そう言いながら渡されたのは、イチゴ飴だった。団子のように三個が連なっていてかわいらしい。保存できないかと一瞬考えたのだが、今食べないのは失礼かと思い直して、結局は舐めることにした。


 イチゴ飴に『うれしそうだね』と語り掛けられて、小声で「そう?」と返した。


「それにしては青木は凄いな」


 突然褒められた衝撃で、イチゴ飴を落としそうになった。


「そんなことないですよ」


 地面に落ちる直前でキャッチできたイチゴ飴を、下品にならないように舐める。


(死ぬほど甘い)


「毎日のように学校で助っ人をして、家ではカフェの手伝い、今日なんかのど自慢大会で歌うんだろ。こんなに頑張ってる生徒は見たことない」


 楓は目を伏せて膝の上で握りこぶしを作って、耐え続けていた。


(喜んじゃダメだ。ニヤけるな、わたしの顔)


 緩み切った顔に力を入れて、出来るだけ顔を引き締めた。しかし念を入れて顔を見せないように俯き続ける。


「ただ約束を守ってるだけですから」

「……約束か」

「そうなんです。ろうぼ——恩人との大事な約束なんです。遺言なんです」


 遺言、という言葉に用務員の眉が跳ねた。


 用務員はスマホをいじっていた孫に「これでなんか食ってなさい」とお小遣いを与えて、露店に走らせた。「全く、素直なのはいいが少々軽薄で現金すぎるな」と愚痴を漏らしたのを聞き、楓は苦笑した。


 改めて、用務員は真剣な顔をして、楓に向き直った。


 覗くその瞳にドキリとした。薪ストーブのような、深い温かみのある瞳だった。


「青木は約束だから、いつも手伝ってくれるのか?」


 楓は言葉に詰まった。確かにその通りだった。だけど否定したい気持ちもある。それが何故なのか、自分でもわからなかった。


 何も言わないのを不審に思ったのか、用務員が言葉を継ぐ。


「青木は、人助けをしてどうしたいんだ?」


 一瞬、呼吸を忘れた。それほどの衝撃だった。考えないようにしていたことだったから。


「……人助けをして、君は幸せなのかい?」


 そうなると信じてきた。でも実際はどうだろうか。苦しいばかりで、ため息が尽きず、幸せが遠のくばかりだ。


 老木さんに言われて、『人助け』を続けてきた。老木さんのことだから、楓の幸せを望んでの言葉だったのだろう。


(本当に今のままでいいの?)


 そう自問自答しても、答えはいつも一つだ。


(今までを無駄にしたくないから、続ける)


 後ろ向きなのか、前向きなのかもわからない考えに、楓自身も呆れている。


 それでも、何度覚悟しても、いつも思ってしまうことがあった。


「わたしには、資格がないんでしょうか」


 『人助け』をする資格が。幸せだと感じる資格が。


 用務員は、ふっと表情をやわらげた。


「そんなことは無い。少なくても俺は助けられて嬉しかった。

 用務員というのは対等な立場が誰もいないんだ。教師は雲の上の存在で、生徒たちは見守るべき対象だ。挨拶はするが、会話をすることはほとんどない。

 子供が好きで就いた仕事だったが、嫌気が差していたんだ。そんな時、君が声を掛けてくれた。気を使ってくれた。それだけのことが嬉しくてたまらなかった」


 楓はふと考えた。なんで用務員さんに声を掛けたんだっけ。そうだ。辛そうな顔をしていたからだったっけ。

 いや、それだけじゃない。それ以前から声を掛けたいと思っていた。一目見たときから気になっていた。


「改めて言わせてもらうよ。ありがとう」


 楓は耳まで真っ赤にして、顔をそらした。


「君が誰の視線を恐れているかは分からないが、俺は好きに生きてほしいと思っている」


 好きか、と楓は息を吐いた。最近、この言葉がよくわからなくなっていた。


「すまんすまん、老婆心が暴走して説教臭くなってしまった。悪かったね」


 さっきまでの真面目な顔は、一転して人懐っこいものに変わった。


(今しかないよね)


 楓は意を決した。本音と嘘を混ぜて、言葉をつむいでいく。


「もし、もしもの話ですけど」


 楓の唇は、乾ききっている上に、震えていた。


「わたしが、用務員さんを好きだ、って言ったらどうしますか?」


 楓は今の自分の顔が怖かった。ただただ真剣な表情ではないことを祈った。


 その姿を見て、用務員は愛おし気に息を漏らす。


「うれしいよ。かわいい孫ができたみたいだ」


 用務員の表情を読み取れなかった。顔に刻まれた皺のせいで、感情が覆い隠されていた。


「かわいい孫、ですか」


 口をわずかに開けると、乾いた唇が切れて血がにじみ出た。血を止めるために、唇を強く噛んだ。


「孫と言っても、本当に男孫と結婚してほしいわけじゃないからな。あいつに君はもったいなさ過ぎる」

「そうですか」


 楓はひたすら顔を伏せて、逃げ出したい気持ちを耐えていた。


 ふと、ある気持ちが湧き上がる。


(あんなによくしたのに)


 自分の心に、驚愕した。


 やっと本当の自分に気付いてしまった。


(あ、そうか。わたし、本当は見返りを求めてたんだ)


 助けてあげるから独りにしないで。ひどいことをしないで、と。安心できる居場所を作り上げるために、『人助け』をしていた。


 純粋に他人のためじゃなくて、自分のためだったんだ。


 そう自覚した瞬間、自分が凄く汚い人間のように思えた。


 つらくてみじめで、嫌いな自分がさらに嫌になる。それなのに、どこか晴れやかさもあって、もうわけがわからなかった。全部が混ざって、心の中はごった煮シチューのように煮込まれていた。


「なになに、俺の結婚の話?」


 孫が戻ってきたところで密談は終わりになった。


「それじゃあ、また学校でな」

「はい」


 用務員と、大型犬のように連れていかれるナンパ少年を見送りながら、楓はいちご飴をかみ砕いた。


「ごめんなさい、老木さん」


 誰にも聞こえないように呟き、理由もなく振り向く。


 すると、一瞬だけ見えた。


 こんな日には絶対に見たくない顔。


 祖母の顔。


 しかし一瞬の出来事で、相手は楓に気付かずに過ぎ去っていった。


「サイサク」


 楓は逃げるように歩き出したのだった。

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