第七十四話 モナリザは微笑んでいるのか

 話を聞き終わると、陸はコーヒーに口をつけた。


(相変わらず苦い)


 ブラックコーヒーの水面に映った自分の顔は、ひどく苦々しいものだった。


 コーヒーの色がカラス兄の濡れ羽に重なった。コーヒーフレッシュを入れる気分にもなれず、角砂糖をポトリと落としてマッシャーで念入りにかき混ぜてから飲み干した。


「聞いたって、どうしろと言うんだよ」


 陸は天井のシーリングファンを見つめながら嘆いた。


「同志はどうしたいんですか?」


 隣に座っている音流から訊ねられて、陸は少しだけ考えた。


「僕が望むのは一つだけかなぁ」


 皿の上に乗ったショートケーキにフォークを突き刺し、口に運んだ。味わって咀嚼しても、陸の表情はピクリとも動かなかった。それは望んでいる味じゃないからだ。


「レアチーズケーキがもっとおいしくなればいい」

「同志は相変わらずですねぇ」


 音流は呆れた視線を向けた。


「日向に言われたくはない。今日も何も言わずに、勝手に日向ぼっこしていたくせに」


 音流は待ち合わせの時間になっても姿を現さなかったのだが、案の定河川敷で日向ぼっこをしていたのだ。


「同志なら探してくれると思ったんですよ。信頼です」と音流は悪びれもなく言った。

「せめてメールくらいしてよ。信用が落ちるよ」

「ほんの数分で起きられる自信があったんですよ」

「それは確信犯でしょ」


 陸がげんなりとした顔を浮かべた途端、音流のスマホから着信音が鳴った。


「すみません、パパからです」と言いながら、音流はパタパタと駆け足で外に出ていく。


 手持無沙汰になった陸は、なんともなしに周囲を見渡した。陸と音流以外の客はいない。暇だからか、店員は君乃だけだ。


(最近、あきらかに少ないよな)


 陸はお母さんから聞いた噂の数々を思い出した。『Bruggeブルージュ喫茶』にまつわる、よくない噂だ。


 ゴキブリやネズミが出ている。かなりのぼったくり価格だ。挙句の果てには、レアチーズケーキに男子中学生を発狂させる危ないオクスリが入っている、というものだった。常連客にとって、それらはちゃんちゃらおかしいのだが、結果は悪い方向に出てしまっている。


(心配しても、できることはこれぐらいだよな)


「すみません、お代わりください」

「サービスするよ」

「いえ、ちゃんと払います」


 お代わりの代金を払う払わないで押し問答をしていると、ドアのベルの音が響いた。


 音流が戻ったのかと振り向くと、そこには老人が経っていた。ヨレヨレのスーツを着ており、黒髪の天然パーマの上に、年季の入った中折れ帽をかぶっている。顔の端々には深いしわが刻まれて、垂れ目と合わさって温和な雰囲気がある。


 その老人の後ろから、音流がひょこっと顔を出した。


「パパさんだそうです」


 一瞬、頭の中にはてなマークが浮かんだ。陸は音流のパパを一度写真で見たことがあったのだが、似ても似つかない。


「お父さん!?」


 突然、君乃が声を上げて、老人に走り寄った。


 よくよく見ると青木姉と雰囲気が似ていた。しかしまだ二十代の娘の親にしては、年老いて見える。還暦かんれきどころか70歳の貫禄さえ感じさせる。


「君乃。久しぶり。夏祭りに備えて早めに帰ってきたよ」

「いつも言ってるでしょ。帰ってくるなら連絡してよ」

「驚かせようと思ってね。今日はいいものを持ってきたんだ」


 そう言った青木父は、古びた紙袋を掲げてはにかんだ。


 しかしいきなり視線を鋭くして、店内を見渡し始めた。


「おや、今日は清水君はいないのかい?」

「今日シフトじゃないから」

「そうか。久しぶりにお灸を据えたかったのだが」


 青木父のドスのきいた声を聞き、君乃は渇いた笑いを漏らした。


「君が楓の友達かい?」


 今度は陸の番だった。


 男友達の”男”が妙に強調して発音されていた。青木父から無遠慮に注がれる値踏みの視線に慄いて、陸は一歩退いた。


「はじめまして。君乃と楓の父です」


 青木父は年老いた猫のように優し気な笑みを浮かべた。しかし目だけは違う。視線は鋭いままだ。しかし鈍感な陸は気づいておらず


「あ、はい、はじめまして。鈴木陸です」と気の抜けた返しをした。

「単刀直入に聞くけど、楓のことはどう思ってるんだい?」


 陸はなぜそんなことを訊かれたのかわからず、はてなマークを浮かべた。だが、答えはすんなりと出た。


「彼女が作るレアチーズケーキの方が好きです!」


 それから誰も訊いていないというのに、レアチーズケーキについて語り始めた。


 青木父が君乃に困惑の視線を向けると、「お店で出してるメニューなの」と補足した。


「えっと、そうじゃなくて、楓自身を恋愛的にみているとか」


 青木父は再び問いかけたが、オロオロしており、すでに威厳が消え去っていた。


「青木さんとレアチーズケーキどっちを食べたいかと言われたら、迷いなくレアチーズケーキを選びます。女の柔肌よりも、レアチーズケーキのすべやかで艶やかな表面に興奮します」


 陸は今までにないほどはっきりと言い放った。


 それを聞いた音流は「なんでウチはこの人が好きになったの?」と自問自答をはじめた。奇行に慣れている君乃でも、今回ばかりは苦笑いを浮かべている。


「類は友を呼ぶと言うけど、また頓珍漢な友達ができたものだね」


 本人を前に頓珍漢というのはどういう了見だ、と陸は不服そうに頬を膨らませた。


「でも安心——」


 言い切る前だった。突然、青木父は苦し気に顔を歪ませた。体を支える暇もなく、崩れるように倒れ込んだ。


「ちょっとお父さん!?」


 右手は苦しそうに胸を押さえているが、左手はズボンのポケットに伸びていた。それに気づいた君乃がポケットを漁って錠剤を取り出した。それを震える唇に入れて、水と一緒に飲ませると、徐々に落ち着いていった。


「ありがとう。もう大丈夫そうだ」

「お父さん、薬飲んでなかったの?」

「娘に会うのが楽しみすぎて、飲むのを忘れていた」


「バカ」と君乃じゃ叱った。


 それから陸達に「ごめん、奥の部屋に運ぶから手伝って」と手を合わせてお願いすると


「もちろん」と二人の声が重なった。


 君乃の指示に従い、青木父を奥の部屋へと運んで、寝かせた。その部屋は日当たりが悪く、かすかに線香の香りが漂っていた。


「全く、無茶ばっかりして。本当に死んじゃうよ」

玄孫やしゃごの顔を見るまで死ねないからね」

「妖怪にでもなるつもり?」

「冗談さ。ありがとう。少し楽になってきたよ」


 上体を起こそうとする青木父だったが、青木姉が押さえつけられる。


「今日は寝てて。どうせ何も食べてないでしょ」

「何か作ってくれるのかい?」

「消化にいいものだけね」

「じゃあ久しぶりにシチューがいいな」

「おじやでいい?」


 君乃の笑みからは有無を言わせない迫力がにじみ出ており


「あ、ああ。ネギと卵たっぷりで」と青木父は控えめに言い直した。

「ん。大人しくまっててね。ごめん、二人とも、しっかり見張ってて」

「了解しました!」


 それだけ言うと、君乃はキッチンへと向かった。


 陸は猫のように、部屋を見渡した。部屋は狭く、唯一の窓から日光はほとんど入ってこない。そして、なにより、こじんまりとした仏壇が置かれていた。


 ふと飾られた遺影を見てしまい、陸は思わず息を呑んだ。


「楓さんにそっくりです」


 音流も見てしまったのか、呟いた。


 遺影に映っている女性は、楓にそっくりだった。未来の楓の写真だ、と言われても信じてしまう程に。


 音流の言葉に、青木父は人懐っこく頷いた。


「僕の妻だよ。つまりは君乃と楓の母親。そうだ、せっかくだから一つナゾナゾ。遺影を見て何か気づかないかい?」


 陸と音流は遺影をマジマジと見つめた。何か既視感があるのだが、陸はその正体はまでにはたどり着けなかった。 


「モナリザみたい」


 音流の呟きを聞き、陸は「あ!」と声を上げた。


 構図がモナリザそのものだったのだ。写真のため、かの名画のように精緻せいちなぼかし技法はないのだが、一目見るだけでモナリザを彷彿ほうふつとさせる完成度だった。


「そうだろうそうだろう。楓を身ごもってすぐの頃、彼女は、娘に誇れるようなすごい母親になるんだ、と意気込んでいたんだ。ある日、テレビでモナリザを見ると、撮ってと頼まれた。知ってるかい? モナリザは左と右で表情が違うんだ」


 青木父は人差し指で右の口角を下げて、左の口角を上げた。


「左半分が笑っていて、右半分は真剣な顔をしているらしい。妻はそこに拘ってな、メイクを駆使しながらモナリザの表情を再現して撮影した。失敗した写真も全部残してあるよ」


 青木父の話を聞いてから改めて遺影を見ると、印象がまるで違う。見方によって表情がいろんな風に見えて、面白い、と陸はひそかに興奮していた。


「その後、彼女の顔のマッサージをしたり大変だったなぁ。あんなに彼女の顔を触った日は無かったよ」


 そうのろける青木父は、頬を緩ませ切っていた。その表情だけで、彼がどれだけ妻を愛しているのかを推し量るには十分だった。


「いやぁ、飛行機のジェットエンジンみたいな人だったよ」

「ジェットエンジン……?」


 ジェットエンジン、という言い回しが引っ掛かった。しかし幼少期の楓を思い出し、何となく納得してしまった。


「とことん振り回されたよ。懐かしいなぁ」


 青木父からは憂いは感じられなかった。それどころか、ビー玉を眺める子供のような、純粋な瞳をしていた。


「おっと、ごめんね。こんな話しちゃって」

「いえ、素敵な話でした。ありがとうございます」と音流はため息交じりにお礼を言った。


 陸と音流は遺影をじっと見つめた。微笑んでいるようにも、真剣に怒っているようにも見える遺影。この一枚にどれだけの想いを込めているのだろうか。まだ子供の二人には想像すらできなかった。


「いやー、夏祭りが楽しみだなー」


 その場で唯一の大人である青木父は、呑気に笑っていた。

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