第三十七話 影はいつも陸に落ちる

 SNSでのやり取りから一時間後。


 音流は申し訳なさそうな顔をぶら下げて、コンビニの前に現れた。


 陸は遅くなった理由を聞く気はなかった。それよりも無事に会えた安堵から、長い息を吐いた。しかし音流は溜め息だと思ったのだろう。


「ママに計画がバレました。すみません」と頭を下げた。


 開口一番が謝罪だったことに、陸は苛立ちを感じたが顔には出さなかった。


「ノートに計画をまとめていたんですが、机の上で開いたままにして学校に行ってしまいまして……。帰ったら台風より一足早い雷が落ちました」


 わざとらしく舌を出してそう言った。空元気なのは、火を見るよりも明らかだ。


「なので台風の目で日向ぼっこできそうにありません。すみません」とまた頭を下げた。


 陸はただ謝る音流に対して、苛立ちを感じていた。


「そんなのを聞きに来たんじゃないんだけど」


 ぶっきらぼうに言うと、音流は困り眉をさらに下げた。


「えっと、すみません」


 もう三度目のだ、と陸は指折り数えた。そろそろ我慢の限界だった。


「僕が言えた義理は無いけど」

 

 そう前置きしつつ、真剣な顔を向ける。


「台風の目で日向ぼっこするなんて危ないよ。最初はワクワクしたけど、台風が近づくにつれて、怖くなってきちゃった。危ないし、下手したら大けがするかもしれない。それに——」


 陸はここから失敗に対するフォローにつなげるつもりだった。計画は失敗したけど結果的に良かった、と着地させようとしていた。陸としては『台風の目で日向ぼっこ大作戦』の成否よりも、音流の体の方が心配だった。


 しかし音流にとっては、それらの言葉は地雷だった。


 眼前の少女の顔を見て、陸は二の句を継げなくなった。まるで太陽が消失した瞬間を目撃したような、諦めに満ちた顔をしていたからだ。


「ママと同じことを言いますね」


 感情のこもっていない声に、背筋を凍る。


 少女の体から生気が抜けていくのを、陸ははっきりと感じ取った。瞳は皆既日食のように虚ろになり、見ているだけで不安が掻き立てられる。


「風邪をひいたっていいじゃないですか。死ぬわけじゃないですよ」


 自分自身の命を吐き捨てるように、言い切った。


「ケガしたっていいじゃないですか。死ぬわけじゃない」


 徐々に声が大きく、早口になっていく。


「死んだっていいでしょ、どうせつらいことばかりなんだから!!」


 少女の慟哭一つで、少年の全身が震えた。


「いつもウチのことなんて見てない癖に。手料理なんてろくに作らないし、帰ってくるのは遅いし、喧嘩ばかりして。いつもお金だけ置いて家にいない人が。なんでこんな時ばっかり!」


 普段の彼女からは想像できない程の激しい金切り声が響く。


「もうサイアク。嫌いきらいキライ!」


 音流は耳を手で塞いで、イヤイヤと何度も頭を振った。髪は激しく乱れて、冷や汗で濡れた額に貼り付いている。


 陸は目の前の光景が信じられずに、思考が追い付いつかなかった。しかしやるべきことは心の奥で理解していた。


(なんとか落ち着かせないと)


 ふと思い出したのは妹をなだめる母の姿だった。


 恐る恐る腕を持ち上げて、音流の頭に手を乗せる。そっと腕を動かし、撫で始める。ぎこちなくて少し荒っぽいが、目いっぱいの優しさがこもっていた。


 効果があったのか、音流の様子が落ち着きはじめる。


「じいじ」


 音流はポツリと呟いた。すぐに「あ、えっと、同志……」と慌てたように訂正する。


「すみません。じいじを思い出して、その……」としどろもどろになりながら「ありがとうございます」とお礼を言った。


 陸は照れくさくなって手を放して、一歩距離を置いた。


 それからしばらく、距離を測るような沈黙が続いた。


 ゴロロロロロロ、と。


 遠くが一瞬光ったかと思うと、三秒ほど空けて激しい雷の轟音が響き渡った。まだ大分遠いが、台風がにじり寄ってきている。


 先に口を開いたのは音流だった。


「えっと、その、一つお願いがあるんです」


 青白い唇が、不安から小刻みに震えている。


「今日は帰りたくないんです。明日まで匿ってくれませんか?」


 陸は一瞬戸惑った。しかし答えはスルリと出る。


「……さすがに無理だよ」

「……そうですよね。すみません。忘れてください」


 音流は泣きはらした目を伏せて、こぶしを強く握りしめた。その姿はあまりにも儚く見えて、陸の口が自然と動く。


「でも、電話ぐらいならいつでも出るから。何時間だって、何日だって、話を聞くから」


 それが陸のできる精いっぱいだった。


 陸の言葉を受けて、音流は目を丸くした後、ゆっくりと握りこぶしを胸の前に持ってきた。


「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいますね」


 その後二人は別れて、それぞれ帰宅した。


 陸ははやる気持ちを抑えられず、早足で道路を突っ切り、玄関を抜け、階段を登って自室に戻った。


 ベッドに潜って、布団を頭までかぶって、悶々としていた。手に残る頭を撫でた時の感触がまだ鮮明に残っていた。手を閉じては開いてを何度も繰り返して、その感触を握りしめ続ける。


 興奮と不安と期待から到底眠ることもできず、じっとスマホの画面を凝視して、待ち続けた。


 なのだが——


 結局その夜、スマホが鳴ることは無かった。

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