第6話 リタイア・シタイナ
お昼休みに、僕は旧校舎の一階に呼び出された。空き教室となっている多目的室に鍵はかかっておらず、簡単に開いた。そこで待っていた少年がこちらを振り向く。
「ごめん、お待たせ。誰にも見られずに来るのに手間取っちゃって」
僕がそう言うと、そこにいた少年――本当は少女――烏山さんは「うん」と小さく頷いた。てっきり遅刻を咎められるかと思っていただけに、拍子抜けしてしまう。
<大事な話があるから、明日のお昼休みに多目的室に来て>
と烏山さんから昨晩に連絡が入り、僕がそれに応じたわけだけれど、彼女は窓の外に視線をやったきり、しばらく沈黙していた。
やがて、彼女なりにタイミングを得たのだろう、「昨日の放課後」と話を切り出した。
「帰り道でさ、柳生くんと・・・・・・ちょっと、お話をして」
その横顔を見ただけで僕は、彼女が邦彦の秘密を知ったのだと悟った・・・・・・とうとうこの時が来たか。
彼女は落胆した表情で、けれど理路整然と昨日の邦彦とのやりとりについて語ってくれた。
<烏山、最近は悠にだけじゃなくて、俺にもぐいぐいと来るようになったな>
と、邦彦は言ったらしい。
<話してみるまでは分からなかったが、烏山は女子っぽさがなくて接しやすい奴だ>
その言葉に、烏山さんは<うんうん、そうだよね>と乗じた。身体が入れ替わってから三週間ほどが経つけれど、烏山なすのを操る僕の活躍を、実際に邦彦の口から聞くのは初めての事だったらしい。烏山さんは内心で僕のことを褒めた。<――でも>と邦彦は続けた。
<友達としてなら良いんだが、あれ以上を求められるようだと、厳しいな>
常に凛とした表情を崩さない邦彦が、苦い顔を浮かべるのを、烏山さんはそのとき初めて見た。それもそうだろう。邦彦のそんな表情やそんな言葉は、烏山さん相手ではなく、気の置けない親友である僕が相手だったからこそ、あの平等な男も漏らしたのだ――まさか、聞いている相手が当の烏山なすの本人だとは思うまい。
柳生邦彦は平等主義者だ。
差別はもちろん簡単な偏見すら許さない篤実な男だ。けれどそんな彼にも一つだけ、例外があった。
邦彦は女性差別主義者だった。
その思想は女性蔑視、と一言で片づけられるようなレベルではなく、真面目で平等な彼の中で、そこだけがぽかんと穴が開いたかのように、意識が欠落していた。彼は女性に対する人権を認めていなかった――邦彦は女性を見下しているだけでなく、同時に同じくらい大きな感情をもってして恐怖していた。
邦彦が中学二年生の頃に、女性教諭が担任を務めるクラスに配属されたことがあった。その際彼はその一年間を、一日も教室に出席することなく過ごして、そして何事もなかったかのように三年生へと進級したという。
女なんかが自分の担当を務めていいわけがないと、そう考えていたらしい。無論彼は、中学在学中どころか、義務教育の全九年間に渡って、女子児童ないし女子生徒とは一度も口を利かなかった。
そんな彼が、男子校ではなく男女共学校であるこの高校にどうしてわざわざ進学をしたのかというと、それは彼の母親がかつてこの高校で教鞭を取っていたからだという。
それも数学を教えていたらしい。
「柳生くんは・・・・・・お母さんから虐待を受けていたんだね」
烏山さんが俯きながら、ぽつりと呟いた。彼女は賢い子だ。まさか邦彦がそのことを直接話題に出したわけではないだろうけど、会話の端々から得られた断片的情報で、その結論に辿り着いたのだろう。
幼き頃の自分を苛烈に虐げていた母親が務めていた高校に、どうして邦彦が進学をしたのか、その心の内に渦巻く暗澹たる感情が、僕には想像もつかない。もしかしたら本人にすら、整理はついていないことなのかもしれない。
邦彦のその差別主義を巡って、僕と彼は一度抗争をしている。
<お前なんかに何が分かるんだよ、楡木>
かつて邦彦に言われた言葉だ。彼が僕に縋るような目をしてそう叫んだあの日の記憶を、僕は生涯忘れることはないだろう。あの日の衝突のおかげで、僕と邦彦との仲はより親密なものになれたし、邦彦も女性への苦手意識をわずかに減らすことができていた。
けれど、これから先、柳生邦彦がいま以上に異性との接触を克服するためには、もっと多くの時間が必要なのは間違いない。あの日だって、僕は邦彦の言い分や思想の瑕疵を指摘するために、秋の寒空の下、柳生邸宅にある庭の池に飛び込む羽目になったほどだ。水中は寒いどころか冷たいどころか痛かった。あの時は心臓が止まるかと思った。
もしも邦彦に、それこそガールフレンドを作らせようとするならば、今度は清水の舞台からでも飛び降りなければならないと思う。
「楡木くんはこのこと、勿論知っていたのよね?」
「うん」
ごめん――と僕が言うより先に、それを烏山さんは制した。
「いや、いいの。別に責めているわけじゃないの。あなたが他人の大切な秘密を、誰かに喋るような人じゃないってことは、あたしだって承知してるもの」
本当にショックを受けているのは、僕よりも烏山さんの方のはずなのに、逆に彼女が僕を励ますように目を細めた。僕はその柔らかすぎる表情で、もう彼女が邦彦のことを諦めたのだということを悟った。
「ちょっと、さすがにあれは厳しいわ。このあたしでも攻略はできない、かな」
烏山さんが、窓から空を見上げた。僕にはただの青空にしか見えないけれど、魔術師である彼女には何か別のものが見えているのかもしれない。「今度の日曜日は、新月なんだよね」と言ってから、烏山さんが薄くほほ笑んだ。
「身体、元に戻そっか」
魂の入れ替えは――月に見られているとできないのだという。
■
金曜日の午後。二年生最後の水泳の授業が行われた。それは同時に、僕が女子更衣室を利用する最後の日ともいえる――僕が社会性を持った男性として生き続けるのならば、という話にもなるけど・・・・・・。
僕には今のところ、盗撮や窃盗のシュミは無い。いたってノーマルでストレートだ。なんて言い方をすれば、邦彦には<何をしてノーマルと言えるのか>などとなじられてしまうかもしれない。まあ、どちらにせよ僕が複数人の女性から責め立てられて、興奮する質ではないのは確かだった――相手がたとえ、水着を着ていたとしても、だ。
「最近さ、烏山調子乗ってるよね?」
僕のことを真正面から、見下ろすようにして山根さんが言った。それが彼女の相手を威嚇するときのやり方なのだろうか、片目だけ歪めながらこちらにずいと顔を乗り出す。実際男子である僕としても、彼女にそうされると恐怖を禁じえない。ほっそりとした体躯の山根さんが、水着を着ると案外胸が大きいのだという意外性に意識を向けていなければ、震えてしまいそうだった、
「なによそ見してんの? こっちはお前に聞いてんだよ」
僕の顎を片手で持ち上げて、山根さんは凄んだ。僕の人生初の顎クイは、こんなにもロマンのない形で捧げることになってしまった。
山根さんたちのグループの子以外は、すでに更衣室を後にしていた。僕も慣れた手つきで水着に着替えてから、プールサイドに上がろうとしたのだけれど、山根さんに「烏山ぁ。ちょっと話あるから」と呼び止められてしまった。他の生徒らがいつもよりも早く着替えを終えてここを出ていったのは、きっと山根さんのその発言の意図を、肌で理解していたからだろう。烏山さんの身体を借りてからのひと月で、僕は女子たちのそういった肌感覚の鋭さのようなものを、よく理解していた。
山根さんの取り巻きの一人である青木さんが、彼女の後方から支援をする形で、僕をきつく睨んで言った。
「烏山さ、どうせ柳生くんとか、にれぎゅう目当てっしょ」
柳生くん目当てというのは一部当たっていたが、後者の方は完全なる勘違いだ――僕がそのにれぎゅうだよ。
更衣室を占める空気の悪さに、息苦しさを覚える。僕は気が強いタイプでもなければ、人と揉めた経験にも貧しい小心者だ。むしろどうやって他人とのトラブルを回避できるかにのみ努めてきた人間だ。山根さんたちのこちらを睨む眼孔だとか、とげとげとした物言い一つ一つにそこまでの衝撃はないのに、それらが束になって僕に向いていることや、周囲のぎすぎすとした雰囲気に、僕の胃はキリキリと痛んだ――怖い。
こんなときどうすればいいんだろう。本当の烏山なすのだったら、口八丁で上手く切り抜けられるのかもしれないけど、今この場にいるのは楡木悠だ。
「別に、そういうわけじゃ」
とっさに口をついたのは、そんな情けない言葉だった。おまけに声量も限りなく小さい。そんな発言を、目の前の彼女たちが受け取ってくれるはずもなく、山根さんは口角を歪ませた。
「ぼっちの自分だけじゃ相手にされないからって、ゆきの威を借りてんじゃねえよ」
ゆき、という名前を聞いて、そういえば小田原さんの姿が見えないことに気が付く。先に彼女だけ更衣室を出てしまったのかな、と思ったけど同じグループである山根さんたちがここに残っているということは、その線は考えにくい。
そういえば、僕の身体が入れ替わってから、今度の日曜日で月の満ち欠けが一周することになる・・・・・・ひと月前も小田原さんは体調を崩していたし、なんというか、まあ、そういうことだろう。
今はそんなことよりも、今目の前の状況をどう切り抜けるかの方が重要だ。
「ねえ、なんとか言ったらどうなの」
取り巻きの一人がそう言った。僕が何も発さないことに苛立ったのだろう。しかし僕はなおも、目線をおよおよと彷徨わせるのみで、口を利かない。
「・・・・・・ちっ!」
しびれを切らした山根さんが舌打ちをしたところで、僕の待っていたその音が聴こえた。
ピーーー。
体育の授業開始を知らせる、先生のホイッスルだ。さすがにこれだけの人数が更衣室から出てこないのでは怪しまれる。山根さんは僕を突き飛ばすようにして開放すると、「行くよ」とだけ言って、周囲の子たちを連れ立ってプールサイドに向かった。
「・・・・・・」
山根さんにどつかれた平らな胸を撫でる――胸以外も、じんと痛んだ。
僕を助けたそのホイッスルは、試合終了の笛というよりは、第1ラウンド終了のゴングのように感じられた。
水泳の授業はこれで最後ということで、準備体操を終えた後は、それぞれが自由に泳いでいてよいということになった。初日の授業で、不慣れな身体を用いたことにより溺れてしまうという失態を演じた僕だけれど、あれ以降は問題も事件も起こすことなく、平和に授業に参加できている。しかし今日は、なんとなく嫌な予感を感じたので、僕は早々にプールから上がった。
「体調、よくないの?」
十分ほど経ってから、僕がプールに入らないことが気になったのか、授業を見学していた小田原さんが僕に声をかけた。長いまつ毛がぱちくりと揺れる。
「ううん。そんなことないよ。というか、そっちこそ・・・・・・」
と言って、僕は言葉を濁す。女子同士で、そういったデリケートな話題を口にするときの温度感を、男子である僕は全く知らない。けれど向こうは授業を見学しているのだ。体調不良を案じる素振りくらい見せるのが自然だと判断した。
「気にしないでよ。大丈夫だから」
と小田原さんは薄くほほ笑む。大丈夫、と口にはしているが、その顔や口振りはどこか暗い。無理をしているというほどではないが、空元気なのだとは思う。それにも関わらず、水着で授業に出席しているこちらのことを、それも友達でもない烏山なすののことを気にかけられるだなんて、小田原さんは本当に良くできた人だ。
しかし、小田原さんが相手だとはいえ、体調のよろしくない人に、逆に気を遣わせているわけにはいかない。僕は小田原さんに小さく手を振ってから、プールに入水した。
なるべく山根さんたちのグループから距離を取れるポジションで、ブクブクと息を吐いて沈んだ。直ぐに苦しくなり水から顔を出す・・・・・・こんな体力の無い身体を扱うのも、今日を含めてあと三日で終わりなのだと思うと、少しだけ寂しい。男子の使用している側のプールから、この一か月間で何度浴びたか分からない<嫌な感じ>の気を感じたけれど、僕はそれを無視して、また水中にざぷんと潜り込んだ。
「なんでシカトしたのよ」
放課後。僕と烏山さんは学校から少し離れた場所にある公園で待ち合わせをした。彼女は遅れて公園にやってきた僕のことを見つけるなり頬を膨らませてそう言った。彼女がプールで発していた<嫌な感じ>の件だろう。
僕は誤魔化すことにした。
「いや、泳ぐのに必死で気づかなかったんだよ。もう溺れるわけにはいかないから、集中してないとね」
「誰も、水泳の授業のこととは言ってないのに」
「・・・・・・」
やっぱり烏山さんには敵わないなと思った。この一か月で、僕が彼女に隠し通せたことなんて、一つくらいしかないかもしれない。僕が嘘をつくのが下手というのもあるけれど、それ以上に彼女の勘が鋭すぎるのだ。そしてその勘は、今回も核心を突いてきた。
「お昼休み、いや授業前ね。山根たちに何か言われたんでしょ」
「よ、よく分かったね」
「あなた、授業中もあの子たちから距離置いてたし、授業始まったときから、心ここに非ずって顔に書いてあったもの。それに女子更衣室に長く留まれないピュアな楡木くんが、今日に限って少し遅れて授業に参加していた。これだけ条件が揃ってて、まともに推理できないって方が無理があるわよ」
「・・・・・・」
推理力というよりは、それだけの条件を並べられるその洞察力をこそ、僕は称えたいと思った。ほんとに、よく見てる子だよなぁ。
僕は正直に、更衣室での山根さんたちとのやりとりを烏山さんに話した。僕の語りが進んでいくにつれて、烏山さんの顔がどんどん沈んでいった。やがてひとり言のように彼女は言った。
「・・・・・・小田原ゆきは、普段は山根たちとテスト勉強をしていた」
「そういえば、そんなこと言ってたね・・・・・・ああ、そういうことか。勉強のできる小田原さんから、今回は勉強を教わることができなかったから、山根さんたちは不機嫌だったんだね。良い点取れなかったのかな」
「呑気な推理ね・・・・・・」
僕の答はどうやら間違っているらしい、烏山さんは頭を抱えてそう言った。
「勉強だとかテストの成績だとかは、今回そこまで関係ないわ。あの子たちにとっては、小田原ゆきとの勉強会というルーチンワークを崩されたことそのものが業腹なのよ。それに――テスト後の打ち上げもね」
打ち上げ、と言われ思い出す。そういえば邦彦の家で勉強会をしたメンツで、どこかに遊びに行く話が出ていたのだった。烏山さんが邦彦の気持ちを知り、彼との関係を諦めたことで、その話も霧消したのだとばかり思っていた。
「あたしたちが遊ぶって話を、どこかで聞きつけたんでしょうね。いつもはあのグループのみんなで行っていた恒例行事を、どこの馬の骨だか分からない根暗女子がぶん取ったって聞けば、山根たちだって良い顔はしないわ」
「馬の骨・・・・・・」
馬の骨というのは、烏山なすのさんのことだろうか。ちらと自分の身体を見る。もう一か月の付き合いになる身体だ。僕はもう烏山さんのことを他人事のようには思えなくなってしまっているので、そんな言い方をされるのはちょっぴりショックだった。
「ああ、別にそういう意味で言ったんじゃないの。ただ山根たちからしたらそう思うだろうなってだけ・・・・・・ってか、ふふ。あなたがそんな顔をしなくてもいいじゃない」
僕の感情が、またも顔に出ていたのだろうか。察しの良い彼女は笑いながら僕のおでこをぴんと指で弾いた。痛い。
「そこまで言われれば、僕でもようやくわかったよ。つまりは山根さんたちは、自分たちの小田原さんが取られちゃったと思って、嫉妬してたんだね」
「嫉妬と・・・・・・それから、生意気な低カースト女子への純粋な怒り、かな」
一瞬だけ明るくなったかと思われた烏山さんの顔に、また影が差す。日頃高飛車な態度を取る彼女なだけに、余計重々しく感じてしまう。
「だから、楡木くんがそんな顔をしないでよ。これは完全にあたしの落ち度だわ」
「いや、だってさ、邦彦に話しかけたりしたのは、僕なんだよ」
「そんなのはあたしが指示したからでしょう。というか、あたしが何度お願いしても中々実行しなかったくせに、こういうときだけ・・・・・・まあ、それも結局おしゃかなんだけどね。うん、山根たちとの件は身体が戻った後に、あたしがどうにかするわ・・・・・・本当にごめん」
「僕に謝らないでよ。僕はもう来週からは烏山さんをやらないんだから」
「だって、きっと更衣室で色々嫌味なこと言われたでしょう? それにさっきだって。あなたの方が遅れてここに来たってことは、また帰り際にでもチクチクと酷いこと言われたに決まってる。楡木くんはそういうことされるの、苦手なひとでしょ」
「得意な人なんて――」
――いるもんか、そう言おうとしたのに、烏山さんの顔を見て閉口してしまう――蒼白だった。それに、余裕がないことを悟られまいといつものように腕を組んではいたけれど、心なしか組まれた腕にも力がない。
「あたしは、そういうの得意だから。あなたと違って・・・・・・口も上手いし」
嘘だ。彼女が言っている通りになんてならないことは、勘の鈍い僕にだって分かった。
更衣室や、それから今日の放課後に僕を詰めた山根さんたちのことを思い出す。あんな風に空気そのものを攻撃的に変えてしまえるような人種が、束になって責めてくるのだ、どれだけ口が上手くても、むしろ下手に口が回るほうが、火に油を注ぐ結果になりかねない――クラスの人気者である、あの小田原ゆきを味方に着けたところで、丸く収まるとは思えない。
それになにより、僕を安心させようとしている烏山さん自身から、いつものような自信が見受けられなかった。
まずいことになった、という気配がこちらにまで流れ込んでくるようだった。それくらい今の烏山さんの姿は弱弱しく写っている。見れば額から脂汗をかいていた。
あれほど気丈に振舞っていた彼女が、どうしてこれほどまでに弱ってしまっているのか、それは恐らく――邦彦との関係の構築に失敗したことが大きいのだと思う。
師匠である祖母から禁じられているような魔術にまで手をだして。
何の関係もない同級生まで巻き込んで。
そしてその身体を用いて、憎からず思っている女子生徒にまで取り入って。
さらには女子同士の面倒ごとまで発生させてしまって。
そんなひと月を過ごしてなお、彼女は何も得ることができなかった――否、邦彦と自分との隔たりのみを色濃く知る結果となってしまった。
こんな散々なリザルトを見て、これまで通り意気揚々としていろというのが、土台無理な話なのだ。
「ねえ、烏山さん。本当に大丈夫なの? 来週からは僕じゃなくて、普通に烏山なすのという女子生徒が、山根さんたちのターゲットになっちゃうんだよ?」
これまで世間の目を欺くために取っていた、烏山さんの姿を僕は今でも覚えている。あれは演技だとはいえ、あんな様子では山根さんたちの加虐意識を刺激するだけだろう。彼女自身、近頃は他人の身体の中にいるからこそ、強気な態度を取れていただけの可能性もある。
烏山さんは僕の言葉を受けて、ぶつぶつと何かを呟いた。
「確かにそう・・・・・・烏山なすのとして、この事態にどういう動きができるのか・・・・・・いや、でも」
「魔術とかでどうにかならないの? 人の記憶とかを、バンって消しちゃったり」
「・・・・・・絶体に無理。来週からおばあちゃんが日本に帰ってきちゃうから、そんなことをしたら直ぐにばれちゃうわ。それに、そんな複雑な魔術をあたしはまだ使えないの」
と言いながら、思案顔でまたぶつぶつと反省モードに入ってしまう烏山さん。彼女がこの問題を解決するのは、どうやらとても難しいのだということは分かった・・・・・・まあ、そうだよね。
ごくり、と生唾を飲み込んでから僕は口を開いた。
「――一応、僕に策がある」
「ほんとっ!?」
藁にも縋る気持ちなのだろう。日頃は僕の考えなど一笑に付すだけの烏山さんが、この時ばかりは声を弾ませて、僕の顔を見るのだった。瞬間とは言え安心をしたのだろう、その眦には雫が溜まっていた。
「泣いちゃって」
「なっ。別に泣いてないもん!」
もんて・・・・・・。
涙目になってしまうとは。内弁慶の彼女も、今までの自分の身体に戻ってから、同性のそれも高いヒエラルキーの人間から攻撃を受けるのは、かなり気が滅入るのだろう。そんな彼女の安堵を空ぶりに終わらせないためにも、僕は今一度覚悟を決める――こうなることは予測できていた。だから予定通り、決行しよう。
「イチかバチかにはなるけど・・・・・・多分、なんとかなる」
「・・・・・・その顔。なにか無理をするんでしょう」
つくづく、僕は表情に出やすい性分だった。
「そんなんじゃないよ。まあでも、これまで烏山さんにはお世話になりっぱなしだったからさ、たまの恩返しが慣れないってだけ」
だから心配しないで、と僕は微笑む。
「ほんとに?」
「ほんとだよ」
烏山さんが僕の顔を覗き込む。僕も彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。虚勢ではない。僕は本当に無理なんてするわけではなかった。僕はただ、自分にできることをやろうとしているだけなのだ。
そんな僕の言葉を信じてくれたらしく、烏山さんは胸をなで下ろした。
「・・・・・・楡木くんって、優しいよね」
烏山さんの助けになることもそうだけど、それなら彼女から褒められることの方が慣れなかった。気恥ずかしさと嬉しさでムズムズとするのを堪えながら、僕は誤魔化すように顔を振った。
「たぶん――こんなとき小田原さんなら、こうすると思うから」
その名前を聞いて、烏山さんの肩が小さく震えた。
「出たよ」
「で、出たよってなんだよ・・・・・・!」
「ほんっと。楡木くんってあいつのこと買いかぶりすぎなんじゃない? みんなあいつの事なんて、ビッチだとか淫乱だとか、そんな風に」
「前に烏山さんにさ、僕が小田原さんを好きになった日の事、少しだけ話したよね。憶えてる?」
「・・・・・・去年の、マラソン大会でしょ」
言って、自らの身体を抱くようにして、ジト目を向けてくる烏山さん。彼女は男子はみんなケダモノか何かだと思っている節がある。その誤解というか偏見は、この一か月間でもとうとう直ることはなかった。僕の身体の上半身に守るようなものはついていないというのに、そんな素振りをされては敵わない。
十六時を過ぎても、七月の公園はまだ明るい。日はわずかに傾いてはいるけれど、空は真っ青だ。そこにぷかりぷかりと浮かぶ雲を見上げながら、ぼくは語り始めた。
「あの日の真相を教えてあげるよ。本当は誰にも言わないようにしてなきゃなんだけど、今の君は楡木悠だから、特別にね」
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