第3話 放課後デートRTA

 お昼休み。購買と体育館の間にある、誰が通ることも何に使われることもない、そんな何処でもない場所で烏山さんと落ち合う。呼び出したのは僕だ。

「昨日一日考えてみたんだけどさ。やっぱり、いくら君が女の子だからといって、あの小田原さんを容易く手玉に取るようなマネができるとは思えないよ」

「なんだ、そんなこと」

 と言って、まるで<それくらいの要件でわざわざ呼び出さないでよ>とでも言いたげな退屈そうな瞳で、烏山さんが僕を見た。

「それを言うならあたしも昨日一日、改めてこの身体を検分してみたけど、楡木くんってそんなに悪いルックスしてないと思うわよ。身長は少し小さいけど、それでも顔も小顔で手足は細長いし、バランス的には問題ないわ」

「えっ、そうかな。そんなふうに改めて自分の見た目について考えたことなかったけど、確かにいざこうして客観的に見てみると・・・・・・って違ーう!」

 烏山さんに褒めてもらえて、例え喋っているのが僕の身体だとしても悪い気はしなかった。どころかかなり嬉しい言葉をもらえて、危うく舞い上がりそうになってしまったところを、僕はすんでのところで踏みとどまる。いけない、論点がすり替えられている。

「ちっ」

 面倒臭そうに舌打ちをした烏山さんに、僕は畳みかけた。

「僕の見た目が女の子から見てそこそこ良いものだっていうお言葉はありがたいけど、でも問題は、相手はあの小田原さんだってことだよ。あんなに可愛くて気さくな女の子なら引く手数多だ。僕の見た目がハンデにはならないとして、逆を言えばそれはなんの武器にもなり得ないってことだろ。それに、僕は小田原さんとはまともに話したことすらないんだよ?」

 すると、随所でうんうんと頷いていた烏山さんは、最後に一度だけ深く頷いてから、

「確かに、地味でパッとしない楡木くんのことなんて向こうは認知もしていないでしょうね」

 と当たり前のように言った。地味でパッとしない、などと他の誰でもないあの烏山さんに言われるとなると、認めざるを得ない。

 その道で言うなら、烏山なすのさんは僕の先を行く女子だ。

「むしろ」と彼女は言ってから、

「それだからこそ、やりようはいくらでもあるわ。第一印象が定まっていない分、楡木悠というキャラクターはどんな方向にでも舵を切れるってことだもの。途中からコントローラーを握ることになったあたしからすれば、むしろありがたいくらいよ」

 と自信満々に微笑む。

 言われてみれば、そんなふうに考えることもできるかと僕は納得してしまう。これは昨日から思ってたことなんだけど、烏山さんの言葉には妙な説得力があるんだよな・・・・・・。

 黙りこくる僕を見て気分を良くしたのか、烏山さんは腕組みをしてから、どこか嬉しそうにため息をついた。

「ほんと、あたしたち女子からしたら、男子ってどうしてそんなことしちゃうの、とか、どうしてそんなこともできないの? の連続よ」

 例えばそうね・・・・・・と、こちらが聞いてもいないのに烏山さんは例を一つ挙げた。

「あなたが好きな女の子とデートをするとします」

「え、小田原さんと?」

「想像しただけでにやけない!」 

 おっと。

 いけない。あくまでも例え話における状況のシミュレートだというのに、つい顔の筋肉が緩んでしまった。僕は気を引き締めて彼女の話に耳を傾けた。

「相手の女の子が、やたらと大きなカバンを持っていたとします――さて楡木くん、どうする?」

「そんなのは簡単だよ。<重たそうなカバンだね、持とうか?>でしょ」

「はいブー」

「なんと」

 ブーらしい。

「ゼロ点ね」

「なんだって」

 しかもゼロ点らしい

「最悪の回答ね。何も言わないほうがマシだわ。このブー助め」

 ブーと言っていたのは君だ。

「だって、やたらと大きいんでしょう? デート中そんなカバンを持ちっぱなしなんて、疲れるじゃないか。代わりに持ってあげたくもなるよ」

「そこが男の浅ましいところよ」

「・・・・・・」

 あまりに酷いその言い方に、僕は絶句してしまう。そんな僕に対して、烏山さんは手を緩めようとすらしない。

「やたらと大きくて、持っているのも疲れそうに見えるカバンなのよ? そんな重いコストが発生するにもかかわらず、デートに持ってきたってことは――それだけあなたに見せたかったてことでしょう。想像力に貧しいなあ」

「た、たしかにそういうことかもしれないけど、でもそれにしたって、こっちが持ったってそのカバンが無くなるわけじゃあるまいし」

「いいえ無くなるのよ――その日のファッションがね」

 ファッション・・・・・・。

 ・・・・・・あ、そうか。

「その顔、ちょっとは理解できたみたいね。意外と勘が良いじゃない」

「うん。そのカバンも含めて、その子のトータルコーディネートっていう話なんでしょ」

「そうよ。それにも関わらず、自分がいいかっこしたいってだけで、スケベ心全開で<げへへ、おでが代わりに持とうかい? げへへ>だなんて、気持ち悪い」

「そこまで言わなくても・・・・・・」

 というか誰もそんな言い方はしていない。(あと、げへへなんて笑う男子はいない)

 余談だけれど、ここで<というか、君はそんなこと言われたことがあるの?>とは聞き返さないところが、僕の優しいところだと思う。

「だから、そのとき楡木くんが言うべき言葉は<素敵なカバンだね。すごい似合ってるよ>の一言よ。向こうは大きなカバンを持っていることに、多少の自意識は抱えているのだから、早くそこに触れてあげなきゃ」

「・・・・・・勉強になります」

 と、素直にかしずく僕を見て、烏山さんは自慢げに胸を反らした。

「相手のファッションに関する意識の低さが露呈したわね、楡木」

 呼び捨て・・・・・・!

「おっと、噂をすれば影ね。あそこを見て」

 と、現役の女子高生とは思えない古風な言い回しを放った烏山さんが、体育館の陰に隠れるように僕を誘導してから、購買の方向を指さした。僕は烏山さんに身を預けながら彼女の指先を見る。購買の出口から数名の女子生徒が出てくるところだった。皆手にはアイスクリームを持っている。その中の一人に――、

「小田原さんだ」

「相変わらず、品の無い胸で歩いているわ」

 吐き捨てるようにそう言った烏山さんをちらりと見る。品のないどころか、胸のない胸をしている彼女は、そのコンプレックスからか、たわわな身体つきの小田原さんを敵視している。クラスの、どころか学年のアイドルと言っても過言ではない小田原ゆきさんを、学年の、どころかクラスの中ですら存在感を持っていない烏山さんがそのように恨めしく思ってしまうのは、例え身体的コンプレックスなんかなくても、仕方のないことなのかもしれないけれど。

 女の子同士の込み入った感情は、さっきのクイズじゃあないけれど、僕なんかには想像もつかないことだ。けれど、それでも僕は言わなければいけないことは言うタイプだった。

「こら、そんな言い方は良くないよ。胸の大きさに品も何もないだろう」

「そ、そうかな」

「うん。清く貧しく、それでいいじゃないか」

「そういう考え方もあるか・・・・・・あ! ちゃっかり貧しいって言ったわね!」

「おっと」

 やば。

 逆鱗に触れられた烏山さんが、僕にがなり立てる・・・・・・と思いきや、彼女はすぐに声を静めた。

「まあ、今は楡木くんのおっぱい談義に付き合ってる場合じゃないか」

「・・・・・・」

 そんな不埒な談義を開いた覚えはなかったけれど、しかし寝た子を起こすわけにもいかず、僕はその不名誉を甘んじて受けることにした。

「あそこにいる小田原ゆきを見て。何か気づかない?」

「えー? そんな急に聞かれても・・・・・・そうだなあ」

「こら、胸ばっかり見ないの」

「いやいや、見てないって!」

 ぺしり、と僕の頭を叩いた烏山さんに僕は叫んだ。烏山さんが小田原さんに対して不毛なコンプレックスを持つことは構わないけれど、まるで僕まで小田原さんの胸に固執をしていると思われるのは業腹だった。

 とはいえ、烏山さんが何を言わんとして小田原さんを指さしているのかが分からなければ、そのような誤解を生んでしまっても仕方がない。僕は改めて小田原さんを凝視する。

 周りのお友達と楽しそうにアイスを食べている小田原さんは、今日もきらきらと輝いて見えた。明るく脱色された髪は初夏の日差しを受けると、ますますその輝きを増すようだった。ゆるくウェーブがかった髪先に目を向けると、視線は自然と、大きく開かれた襟元に向かう。今日は気温も高く開襟しなければ蒸れるのだろう。その割には、小田原さんを含め周りの女生徒たちは半袖ではなく長袖のブラウスを着用していた。彼女らはあえてワンサイズ大きいものを着用しているのか、高めの位置で履かれているスカートに、だぼっとインされたブラウスは程よい抜け感が演出されていてオシャレだ。

 着丈と同じように袖の方もオーバーサイズなのだろう。くるくると巻かれた袖はそれでも肘より先の位置で留められている。間口の大きな袖から伸びた手首は、恐ろしいくらいに細く見えて――そしてその手首にはキラリと光るものがあった。

「ん? 小田原さんってあんな腕時計してたっけ」

「・・・・・・驚いた。楡木くんってば、結構鋭いのね」

 自分から出題しておきながら、まさか僕が小田原さんの軽微な変化に気が付くとは思わなかったのだろう、烏山さんは目を丸くしていた。そんな彼女の表情が新鮮だったのと、もう少し褒められたいという下心から、僕は補足を入れた。

「まあね。あと多分だけど、今日・・・・・・というより昨日からかな、小田原さんは体調があまりよくないみたいだね」

「? どうしてそんなことを、楡木くんが知ってるのよ」

「いやなに、そんな大した理由ではないんだけどさ」

 んんっ、と喉を鳴らしてから、僕は言った。

「歩くときの膝を曲げる角度がいつもより浅いし、椅子に座っているときも、首がいつもより前方に出てるからさ。あとほら、今みたいに友達と話してるときも、若干反応がにぶ」

 ――いでしょ、と言い切る前に、僕は口を閉ざした。

「・・・・・・」

 深々と眉間に皺をよせた烏山さんの視線に気づいたからだ。

「に、楡木くんが、淫らな女の子が好きなことは分かったからさ・・・・・・あんまり今のあたしの身体で、その・・・・・・あれのことをジロジロ見るのは」

 僕が好きなのは、淫らな女の子ではなく、小田原その人ではあるのだけれど、しかし彼女の言い分はごもっともだった。

 つい憧れの人を目で追ってしまう僕の癖は、あまり褒められたものではないのもそうだし、なにより今は烏山さんの身体を借りているのだった。今まで学校では誰とも目を合わせずに、日陰から日陰へと渡り歩いていた烏山なすのが、ある日から急に一部のクラスメートへと視線を注ぐようになっては、怪しむ人も出てくるかもしれない。

 素直に陳謝した。

「ごめんなさい」

 すると、烏山さんは何事もなかったかのように、けろっとした表情で頷いた。

「うん。まあ分かればいいのよ、分かれば。これからはあのビッチのことあんまり見ないようにしてね・・・・・・それで、話を戻すけど」

 そこで烏山さんはもう一度確かめるようにして、小田原さんの方へと視線を向けた。

「あの腕時計、先週までつけていなかったものね。おそらく週末にでも買ったのでしょう。それでまたクイズだけど、楡木くんはあの腕時計のブランドが分かる?」

「ブランド?」

 聞き返しながら、僕も再度小田原さんたちの方を覗き見る。はしゃぎながらアイスを食べている小田原さんたちだったけれど、そろそろ教室に戻るようだった。アイスを食べ終えて、両手をバンザイの形にして伸びをする小田原さんの大きく張り出した胸――じゃなかった――その頭上に掲げられた左手首を、もう一度凝視する。

「うーん。普通の女物の腕時計にしか見えないな。多分ここからじゃなくて、近くで見たとしても、僕にはどこのブランドなのかなんて分からないと思うけど」

「分からないの? 情けないわね。それでも本当にあの子のことが好きなの?」

「む」

 棘のある言い方だった。

「そういう烏山さんは、あれがどこのものなのか知ってるの?」

「知らないわ」

 僕の無知さには<情けない>と言っておきながら、堂々とした態度でそう言う烏山さん。僕のジトっとした視線に気が付いたのか、彼女はコホンと咳払いをした。

「でも、どこのブランドか分かるわ」

「え? でもさっき、君自身が――」

「まあまあ」

 烏山さんの矛盾を非難する僕の言葉を、遮るようにして烏山さんが取り出したのは、一台のスマホだった。

「最近のスマホって、望遠レンズがとっても発達してるわよね」

 そう言って、烏山さんはスマホだけを壁の陰から出すようにしてから、カメラ機能で写真を撮影した――ぱしゃり。被写体は無論、小田原さんだった。

 って、ちょっと。

「何してるのさ。それって盗撮じゃないか・・・・・・!」

「へ?」

 僕が烏山さんの両肩をガクガクと揺らすと、彼女は意外そうな顔をしてこちらを振り返った。まるで自分が濡れ衣を着させられてるかのような平然とした態度だったが、こちらの必死さが伝わったのか、視線を足元へと逸らした。

「まあ、盗撮と言えば盗撮ね」

「盗撮と言わなくたって盗撮だよ! いまの君は楡木悠の身体なんだからね。側から見たら、クラスメートの女の子を隠れて盗撮するヤバい男子生徒だと思われちゃうじゃないか!」

 僕の──楡木悠の名誉のためにも、僕は烏山さんをしっかりと弾糾する。しかしとうの彼女はというと、いじけた子供のように唇を尖らせていた。

「・・・・・・いちいちうるさいわね、もう。スマホはあたし自身のなんだからいいじゃん」

「そういう問題じゃないよ! 例え相手が女の子だったとしても、自分の知らない間に勝手に写真を撮られただなんて、もしも小田原さんが知ったらきっと傷つくよ」

「どうだか。あのビッチなら、誰かから写真を撮られることなんて慣れっ子なんだろうから、今さら一枚や二枚撮ったところで物の数じゃないでしょ」

「いいや違うね。相手が慣れてることなら何をしてもいいって法を僕は知らない。それに、前も聞いたかもしれないけど、小田原さんがそんな人だなんて一体だれが決めたの? 小田原さんは君が思ってる以上にちゃんとした女の子だよ」

「・・・・・・やれやれ。私が悪かったわ」

 そこでようやく納得してくれたらしく、小田原さんはため息をついてから、すぐに盗撮した写真を消す約束をしてくれた。

 よかった。彼女はきちんと話せば分かってくれる子らしい。本当に思ってることとはいえ、こちらも少しキツく言いすぎてしまったかと思い、僕はなるべく烏山さんを慮るようにして言った。

「それで、一体どうして盗撮なんてしたのさ。烏山さんだって、まさか意味もなくそんなことをする人じゃないはずだろう」

「当たり前よ。というかこっちは一応、君のために動いているんだからね・・・・・・まあいいけど。さっき、あのデカ胸女の腕時計の話をしたじゃない?」

 もういい加減、小田原さんのことを変なふうに呼ぶ烏山さんを指摘するのに疲れた僕は「うん」と頷く。

「僕が、あの時計のブランドなんて分からないよって言ったら、烏山さんが、あたしは知ってるけどねって、得意げに――」

「――違う。あたしは君に<どこのブランドか分かる>と言ったのよ。<どこのブランドか知ってる>とまでは言ってないわ」

 僕の言葉に被せるように、烏山さんは言った。

 分かる。

 知ってる。

 その二つのどこが違うというのだろうか・・・・・・首を傾げた僕を見て、烏山さんが続けた。

「あたしは楡木くんが知らないことを責めたんじゃないの。分からないと言ったことを責めたのよ――あなたの相手のファッションに対する意識の低さを、ね」

 それは、さっきも聞かされたような言葉だった。

「知らないと分からないの、それのどこが違うっていうの」

「ダニエルウェリントン──それがあの腕時計のブランドの名前よ」

 するりと、まるでなんてことのないように烏山さんは言った──片手に持ったスマホの画面を、僕へと向けながら。

「グーグルの画像検索機能を使えば、これくらいすぐ分かるわ。あの巨乳女のつけてる腕時計が、ダニエルウェリントンの、それもプチコレクションの一つだってことすらね」

 画像検索機能・・・・・・。

 僕は膝を打った。

「なるほど! そのためにさっき小田原さんのことを、いや小田原さんの手首の写真を、君は撮影したんだね」

「そ」と言って、烏山さんは僕の見ている前でスマホを操作し、写真フォルダからさっき撮影したばかりの写真を削除した。続けて<最近削除した項目>からも該当の写真を削除するという徹底ぶりを見せた。一応、自分のしたことがいけないことだったという認識は、きちんと持ってくれたらしい。

 僕に対する傲岸不遜な態度や、人の人格を入れ替えるような黒魔術を操るということから、烏山さんのことをついつい非常識人のように捉えてしまいがちだけど、彼女はしっかりと約束は守るタイプのようだった。別に烏山さんは当たり前のことをしただけなのだけれど、僕は自分の気持ちが少しは彼女に伝わったように感じられて、そのことがちょっとだけ嬉しく思えた。

「画像検索かぁ。確かにたまに使うけど、あれって凄い便利だよね。ネットで拾った漫画の一コマだけで、それがなんの漫画なのか調べられるし」

「そうそう! あとは無断転載されてるイラストから、きちんと本家の絵師様のアカウントに辿り着くためにも必須よね」

 声を弾ませて頷く烏山さん。

 ・・・・・・絵師様って。

「当たり前だけど、拾い物の画像だけじゃなくて、実際に自分が撮影した写真でも使えるんだね。凄い時代なぁ」

 と相槌を打ちつつ、続けて僕は尋ねた。

「それで、その画像検索機能で、腕時計のブランドが分かるからって、それがどうしたの? 烏山さんもあの時計が欲しくなっちゃったの?」

「・・・・・・はあ。相変わらず楡木くんは鈍いのね。まあいいわ。そろそろ教室に戻りましょうか」

「え、ちょっと」

 僕に背を向けて歩き出したその背中を、僕は引き留めようとする。けれど烏山さんはこちらに対して、首だけで振り返りながら言うのだった。

「まあ、見ててよ」


 ■


「あれ、ちょっと待って。そのダニエルって、最近出た奴じゃない?」

「え、そうだよ。よくわかったね」

「ちょうどこの前、東口の高島屋で見かけたからね」

「マジで? 私もこれそこで買ったんだよ。奇遇~」

「こないだの土曜、私たちと行ったんだよね」

「ゆき超悩んでてさあ」

「悩むのもわかるなあ。これ他にもカラーいくつかあったもんね」

「そうそう。これの他にはシルバーとかゴールドもあってさあ。どれも可愛くって」

「そんなあったっけ」

「あったよ~」

「でも小田原さんにはそのローズゴールドが一番似合いそうだね」

「マジ? うれしー! これにしてよかったあ!」

「ちょ、ゆきチョロすぎでしょ」

「それの隣にさ、もう一個四角いやつもなかった?」

「あったー!」

「あれもさ」

「うん!」

「すごいオシャレじゃなかった?」

「そうそうそう!!」


 お昼休みも終わりかけ。教室前方の席で、華々しい女の子たちによるきゃぴきゃぴとしたガールズトークが繰り広げられていた――否、ガールズトークとは、とてもじゃないが呼べない。なにも、性別を断定するような品詞を用いるのが、ジェンダーフリーの現代において相応しくないとか、そういうお堅いことを言っているわけじゃない。

 僕は改めて、教室前方に目を向ける。なんと恐ろしいことに、そこでトークをしているのはガールズオンリーではないのだった。華々しいどころか馬鹿馬鹿しい話だが、きゃぴきゃぴとしたそこには、かぴかぴとした男子生徒が若干一名混じっているのだった。

 僕だった。

 正確には、僕の身体を操る烏山なすのさんだった。

 彼女は教室に戻るなり、自然な歩みで小田原さんたちの席に近づき、なんてことのないように小田原さんに声をかけた。あまりに平然としたその態度には、小田原さんはおろか、彼女の隣にいた山根さんをはじめとするクラスのハイカーストに属する女の子たちも、自然と会話に交じっていた。彼女たちの輪には、同性であっても並みの生徒じゃ近寄りがたいだろうに、いわんや男子生徒をや、だ。烏山さんの周囲の意識すら欺くほどの堂々とした振舞いは、まるでいつも自分はここにいましたよとでも言わんばかりのものだった。

 烏山さんは魔術師というか、将来は詐欺師にでもなってしまうんじゃないかと、見ている僕が不安になるほどだった。

 す、凄すぎる・・・・・・。

 いまあそこの輪の真ん中で、紅一点ならぬ黒一点で話に花を咲かせている人間は、本当に僕なのだろうか?

「楡木のヤツが小田原さんたちと話してんの珍しいよな」

 しかし、そんな烏山さんのテクニックも、さすがにその輪の外にまで効果があるわけではないらしい。僕の級友である岩槻がそう言うと、隣にいた邦彦も頷いた。

「全くだ。あれは本当に悠なのか?」

 それに僕も首肯する。

「ほんと、信じられないよ」

「楡木のやつも、ようやく小田原さんの美貌に酔い始めてきたってことじゃないの?」

「何言ってるの!? 別に、そういうのじゃないって」

「だろうな。俺も烏山に同感だ。悠はそんな下品な動機で動く男じゃないからな。岩槻じゃあるまいし」

「だよなあ・・・・・・ってちょおい! 柳生ってば、ちゃっかり俺のことディスってない?」

「なんのことだ?」

 と言って、邦彦は銀縁の眼鏡を持ち上げる。

 一本だけ立てた中指だけで。

「いや完全に俺に中指立ててるじゃん!」

「だから、なんのことだ? 岩槻よ、あらぬ疑いをかけるのはよせ」

「あぁーっ! そんなこと言いながら、もはや眼鏡とは関係ない方の中指まで!」

「あははは・・・・・・」

 ふんがー、と吠える岩槻を見て僕は苦笑する。岩槻はちょっとおバカで、そしてとっても元気な男子だ。意外にも、彼は僕や邦彦と仲が良い。

 やがて、邦彦が立てた両手の中指をまるでこの指とーまれのごとく掴んでいた岩槻が、「てか」と言って、きょとんとした顔を浮かべた。


「烏山さん、なんかめっちゃ自然に会話入ってね?」

 !


 ・・・・・・ま、ま、ま、まずい!

 烏山さんが僕の身体を使って、小田原さんたちの会話にしれっと混じっていることの現実感がなさすぎて、つい近くの席で話していた友人たちの会話に、まるで楡木悠かのように入ってしまったが――今の僕は、烏山なすのなのだ。

 それこそ、地味でパッとしなくて、クラスに友人が一人もいないような烏山さんが、さらには異性である岩槻たちの会話に参加するのなんて、違和感バリバリだろう。

 どうにかして、誤魔化さなくっちゃ・・・・・。

 えーと、岩槻はアホだから・・・・・・。

「そ、そうかなぁ? 岩槻くんたちが話しやすいだけだよ。男の子と自然に会話だなんて、岩槻くんが相手じゃなきゃ、あたしなんかにはとてもじゃないけどできないよ」

「え? 俺が?」

 と言って、岩槻はその頬をだらしなく緩めた――よし、もう一押しだ。

「うん。女子はみんな言ってるよ。岩槻くんはとっても話が上手いんだって!」

「そ、そうかなぁ? げへ、げへへ」

 露骨に照れる岩槻。

 こいつって、女子から見るとこんなにも分かりやすいリアクションをするんだ・・・・・・というか、げへへって言う男子は本当にいたんだなぁ。

「げへへ」

 まだ言ってるし・・・・・・。

 しかし岩槻はもう、烏山なすのが急に友達面をして話に入ってきたことなんて、頭の片隅にもないようだった。僕は、依然としてこちらに胡乱な瞳を向ける邦彦から逃げるようにして席を立つ。

 べつに、ただ岩槻たちの疑惑から逃れるために教室を出るわけではなかった。五時間目が始まる前にお手洗いに行っておきたかったのだ。この身体になってから、僕は妙にトイレが近くなってしまっていた。

 もしもこれが烏山さんの身体というよりは、女の子の身体の特徴なのだとしたら、将来自分が女の子とデートをする際には、トイレの位置やタイミングに気を遣ってあげられる男になりたいなと、そんなことをぼんやりと考えていたせいだろう。廊下を出てすぐのところで、一人の男子生徒と身体が当たってしまった。

「おっと、わり」

「──えっ?」

 一瞬、僕は壁とぶつかったのかと思った。

 しかし、目の前に立っている彼は、身長も体重も平均からさほど離れてはおらず、そして僕と彼は軽く肩がぶつかっただけだ。だというのに、それだけで僕の身体は強い衝撃を受けて、尻もちをついてしまうのだった。

「いったぁ・・・・・・!」

 呻きながらお尻をさすり――その柔らかな感触で気づく。

 そうか、今の僕は女の子の、それもとても華奢な肉体を動かしているのだ。それゆえ、たとえ相手が平均的体格の男子であっても、簡単に弾き飛ばされてしまったんだ。

 自分の身体が現在どれほどのものなのか、早くそのことを頭に叩き込んでおかないと、烏山さんから借りている大切な身体を傷付けてしまう・・・・・・気を付けなくちゃ。

「いやあ、よそ見しててごめ・・・・・・」

 しかし、逆を言えばこの身体は体重が軽く、尻もちをついたところでそれほどのダメージはなかった。僕は謝りつつ、こちらを見下ろす形の男子生徒の方へ顔を向けたところで、彼の視線がとある一点に注がれていることに気が付いた。

「あ、いや」

 彼は僕から見られていることに気が付いたらしく、その視線をさっと別のところへ逸らした。その動きによって、僕は現在の自分がどんな態勢を取ってしまっているのか、ようやく意識が至った。

 !

 僕は慌ててスカートの裾を両手で押さえてから、広げていた股を急いで閉じた。

「・・・・・・見た?」

「いや、その」

 彼はしどろもどろに、瞳をキョロキョロさせている。別に僕は男なのだし、いくら今の自分が女性の身体をしているからといって、下着を見られたところでどうってことはないのだけれど、しかしこうも相手が露骨に照れていると、見られているこちらとしてもその態度のせいで妙に気恥ずかしくなってしまう。

 ・・・・・・顔とか、赤くなっちゃってないだろうか。

 僕はすっくと立ちあがり、お尻についた汚れを手で払いながら、目の前の男子生徒の横をすり抜ける。そのさなか、彼に耳打ちをした。

 中身が男子の僕であるということを知らない彼が、可哀そうに思えたのだ。

「こんなので、ごめんね」

 廊下を歩きながら、女子トイレに入る前にふと後ろを振り返ると、僕と身体をぶつけてしまった彼は、未だ同じ場所で棒立ちをしているのだった。


 ■


 六時間目の体育の授業を終え、校庭から教室に戻る途中でどこかから気配を感じた。このざわざわとする気配は――烏山さんだ。

 烏山さんは黒魔術師とはいっても未だ見習いで、術を習っているお祖母ちゃんからも、勝手に魔術を行うことは固く禁じられているらしい。今回の入れ替わりの魔術に関しても、師匠である祖母が長期の海外旅行に旅立ったタイミングを狙って行ったらしい。その話題の中で、魔術師の家系ってことは烏山さんのお父さんやお母さんも魔術師なのか、と尋ねたところ、

<違うわ。母方の血筋だからお父さんは無関係だし、魔術適正は基本的に隔世遺伝しかしない。それに基本はマンツーマンの口頭伝承。だから両親は祖母が魔術師だということも、私が魔術師見習いだということも知らないわ>

 と教えてくれた。僕が毎朝毎晩と顔を合わせる烏山さんのご両親が、一度も娘の身体を操る僕に対して魔術の話題を持ち出さないものだから、変だなと思ってはいたのだが・・・・・・しかしそんな事情があっただなんて。

 対象の人物に、ぞわりとした<嫌な感じ>を覚えさせるのは、黒魔術師にとっては魔術というよりも、言ってしまえば呼吸や歩行に並ぶような初歩的な技術らしく、烏山さんはそれを僕に対してしばしば用いた。今もそうだが、僕に何か伝えたいことがあるというサインらしい。丁度いい。僕も彼女に言いたいことがあったのだ。

 果たして、<嫌な感じ>の出どころは体育倉庫裏だった。腕を組み、壁に背を預けていた烏山さんは僕を見るなり、キッとその目を吊り上げた。

「ちょっと、あなたねぇ」

「――凄いよ!」

 烏山さんの言葉を遮るようにして僕は言った。今日のお昼休みの件について、一刻も早く彼女にお礼を言いたかった。

「信じてなかったわけじゃないけど、まさかあんなに自然に小田原さんとお喋りできちゃうだなんて、烏山さんは凄いね。見直しちゃったよ」

 僕の言葉を受けて、烏山さんは、ふんと鼻を鳴らした。

「どういたしまして。あなたの方も見てたけど中々良かったわよ。自然と柳生くんと話してたじゃない」

 烏山さんは僕の身体を使って小田原さんたちと話しながらも、同時に僕の方へも意識を割いていたらしい。未だに烏山さんの身体を扱うことに慣れていない僕からしてみれば、瞠目すべきマルチタスクだ。そして、僕としてはミステイクだと恥じていた友人らとの折衝も、邦彦からの好感度を高めたい彼女からすれば、褒められる行いだったらしい。

「岩槻くんとは、別に話さなくてよかったけど」

 岩槻との折衝は余計だったらしい。

 今日のお昼休みの、烏山さんの勇姿を思い出す。

「まさか腕時計一つの知識で、あそこまで自然とお喋りできちゃうだなんて」

「きっかけというのは何にしたって重要だからね」

「それにしたって、まさか烏山さんがあんなにも小田原さんや、それに山根さんたちとだって、上手にお話ができるとは思ってもみなかったよ」

 僕の場合、邦彦や岩槻とはもともと友達だったから自然と会話ができていたに過ぎない。烏山さんのように、詳しく知らない者を相手にああも違和感なくお喋りをするのとは、実態が大きく異なる。

「もしかして、なにか魔術を使ったの?」

「馬鹿言わないで。魔術なんてそう簡単に使えるものじゃないわ。それに、今は一つの魔術を継続的に実行してるから、他の魔術に割ける余分なリソースなんてないの」

「継続的に実行?」

 入れ替わりの魔術のことだろうか? 首を傾げた僕に、烏山さんは「ああ」となんてことのない風に言う。


「あなたがその身体で入れ替わりの魔術を周りに言いふらしたら、一瞬にしてあなたの心臓を止める黒魔術よ。言ってなかったっけ?」

「聞いてませぇーん!」


 なにそれ!?

「なによ。そんなに慌てることないじゃない。あなたが秘密を洩らさなければ、それでいいだけの話なんだから」

「それはまあ、そうだけど」

 烏山さんの言うことは尤もだけど、さすがに納得はできない。彼女の秘密を誰かに言いふらそうなど露ほども思わないが、それでも僕の一時の過ちが失命に繋がるのだと考えると、背筋が凍る思いだった。

 僕のそんな心情を察したのか、烏山さんは「まあまあ」とこちらをなだめてくる。

「すぐにやるべき事を終わらせちゃえば、それでいいのよ」

 と言ってから、烏山さんは不敵な笑みを浮かべた。

「今週中に、あの巨乳と放課後デートまで持っていくから」

「・・・・・・え、今なんて?」

「あの巨乳」

「違う! そのあと」

「持っていくから」

「違う! 変な繋げ方しないでよ。その前だよ!」

「放課後デート」

「そう、それ!」

 放課後デート。

 烏山さんの発したその言葉があまりに信じられず、海外の映画みたいなやりとりをしてしまった。

 というか烏山さん、わざとやってない?

「知らないの、放課後デート。自動的に制服デートにもなるわね」

「意味は分かるけど・・・・・・なにも、そんな無理したペースで進めなくたって」

 僕がそう言うと、烏山さんは「何言ってるの」と眉根を寄せた。

「いつまでもこんな生活は続けていられないし、これくらいのペースで進めなきゃ、あたしはいつになっても柳生くんの攻略に本腰を入れられないわ」

 そうか。僕はいつの間にか、烏山さんが小田原さんを攻略することが主題かのように勘違いしてしまっていたけれど、彼女にとってそれは、本来の目的のほんの前段階にすぎないのだ。

 今やっていることは、僕の身体を借りることへの罪滅ぼしにすぎない。

「身体を借りるのって、さすがのあたしでも引け目を感じているんだから。これくらいしなきゃ割に合わない、どころか、それでも許しくれる楡木くんがお人よし過ぎるくらいよ」

「そうかなあ」

「そうよ」

 と言って、烏山さんは肩を竦める。

「でも今更だけど、楽しく話している相手の中身が、実は楡木悠本人じゃありませんでしたってどこかで知ったら、小田原さんは裏切られた気持ちにならないかな」

 僕が呟くように言うと、小田原さんは少しだけ間を置いてから、

「・・・・・・もしもあいつがその事を知ったとしたら、そのときは楡木くんの心臓も止まってることだろうから、心配はいらないんじゃない」

「・・・・・・」

 嫌なことを思い出させられた。

 心配はいらなくても、心肺は無事でいさせてほしいな・・・・・・。

 と、そこで昇降口からぞろぞろと下校をする生徒たちの声が聴こえてきた。顔を見ればそれは僕たちのクラスメートで、みな体育が終わった直後ということもあり体操着だった。僕と烏山さんの二人は彼らに怪しまれないようにと、体育倉庫裏に身を隠しながら下校の波が止むのを待った。

「あ、そうだ思い出した!」

 そうしているうちに、不意に烏山さんが叫んだ。

「これが言いたくてあなたを引き留めたのよ。さっきの体育のことよ」

 さっきの体育、と言われ記憶を掘り返す。ソフトボールの授業は今週で最後とのことだったので、今日は基本的な練習や測定は行わずに簡単な試合を行う内容だった。男子と女子とで組は別れていたけど、僕の事を気にかけていた烏山さんは、こちらの試合の様子も見ていたのだろう。

 ・・・・・・烏山さんのその口振りから察するに、僕はこれから褒められるわけではないようだった。

「また僕、なにかやっちゃいました?」

「なろう系主人公みたいなことを言って誤魔化さない! あなた今日その身体で――」

 と、そこで烏山さんは一拍空けてから言った。


「――バントをしたでしょ!」


「え? うん」

「しかも二打席目では、バントのふりをしたかと思いきや、そこから普通にバットを振って打ったでしょ!」

「ははっ。烏山さん知らないの? それをね、バスターって呼ぶんだよ」

「いや、バスターって呼ぶんだよ、じゃなくて」

 僕のマネだろうか。変に顎を突き出しながら高い声でそう言う烏山さん。一体なにをそこまで慌てる必要があるのだろうか。僕のそんな気持ちが態度に出てしまっていたらしく、烏山さんは顔を顰めた。

「普通ね、授業でバスターはおろか、バントをする女子なんていないのよ!」

 !

 ほんとに?

「なによその顔。考えてもみて! 普段はじめっと俯いてばかりの地味で無口なクラスメートの女子が、ろくに運動ができるわけでもないのに、体育の授業で急に張り切って本格的なスタイルでプレーし始めようものなら、周りはドン引きよ!」

 そう言われてみれば、そうかもしれない。しかし僕にも理由はあった。

「ちょうど前の打席が・・・・・・小田原さんで、塁に出ていたから、進塁させてあげたくて」

 と、僕が力なく弁明すると、烏山さんは大きくため息をついた。

「それで張り切っちゃってたってわけね。別にあんたの身体ってわけでなもないのに・・・・・・あんたもほんとに好きね」

 呆れた風にそう言いながら、昇降口の方に首を向けた烏山さんが、ちょうどそこを歩いていた彼女――小田原さんを指さした。

「あんな変てこなジャージを見ても、楡木くんは何も思わないの?」

 烏山さんが指さした方をわざわざ見なくても、僕は彼女が何を言わんとしているのかは分かった。

 小田原さんのジャージには、いま僕や烏山さんが着ている体操服と同じように、胸元に名札が付いている。しかしその名札が普通のデザインではないのだ。

 本来は白地のはずのその名札はマジックで黒く塗りつぶされており、その上から白い修正ペンで<小田原>と書かれているのだった。ジャージとはいえ、学校指定のそれは制服の一つでもあるので、あれはいわば、ちょっぴりファンキーな改造制服とも言える。

 そんな改造制服を平気な顔して着ている小田原さんを、非難している人たちがいるのは僕も知っている。烏山さんもおそらくはその一人なのだろう。僕としても、その感覚は至極真っ当なものだとは思う――けれど、それに賛同することはできない。

 代わりに、僕は別の点を指摘することにした。

「そんなことより、こんなにも暑い日なのに、女子が半袖にならないことの方が不思議だよ」

「まあ、日に焼けちゃうからね。日焼け止めは塗ってても、肌を出さないに越したことはないもの」

 当然のことようにそう言ってから、烏山さんは僕の腕へと視線を落とした。

「楡木くんも、暑くて苦しいと思うけど、我慢してね」

 そう言う烏山さんは、他の男子と同じく白い半袖の体操服を着ている。一方僕はというと、他の女子と同じく上下ともに長袖のジャージを着用している。確かに暑くはあるけど、耐えられないないほどではなかった。

「烏山さんは肌綺麗だし、焼いちゃうのは勿体ないもんね。これくらいは我慢するよ」

「・・・・・・楡木くんってさ」

「――それに、周りがみんな長袖なのに、僕だけ半袖じゃ浮いちゃうもんね」

「・・・・・・それが分かるのに、どうしてバスターはしちゃうのかなあ」

 と言って、烏山さんは頭を押さえるのだった。


 下校をする生徒の波が落ち着いたころを見計らって、僕と烏山さんは教室に向かった。下駄箱で上履きに履き替えながら、烏山さんが僕に尋ねた。

「あのさ、去年のマラソン大会で大変なことがあったの、楡木くんも知ってるでしょ?」

 僕たちの学校には、秋の行事としてマラソン大会が存在する。街中が主なフィールドで、男子は20キロ女子は14キロ走るそれは、一部の血気盛んな運動部の生徒を除いて、皆が嫌っている学校行事だ。

 もちろん僕もマラソン大会は好きじゃない。

「いやあ、あれは大変だよね。僕も体力には自信はないからさ、20キロ走るのなんて、そりゃもう大変で」

「――そうじゃなくて」

 にこやかにほほ笑む僕とは対照的に、烏山さんは真剣な眼差しで僕を見つめながら言った。

「あの日、あのビッチが走るところ、あんたも見たんじゃないの」

「ビッチ?」

「・・・・・・小田原ゆきよ」

「――だから、小田原さんはビッチなんかじゃないって、何度言ったら分かるんだよ」

 烏山さんの軽口に苛立ってしまい、つい口調に怒気が籠ってしまう。その声を受けて身体を竦める烏山さんに、僕はなるべく素っ気なく言葉を繋いだ。

「というか、そもそも男子と女子とじゃスタートの時間が違うでしょ。普通に走ってたら、女子がコースの半分も行かないうちに、男子はゴールしちゃってるんだから」

 これでこの話は終わりなのだとばかりに、僕は烏山さんに背を向けて教室に向かう。烏山さんが突然そんな話を持ち出すだなんて、一体どうしたのだろうか。訝しみつつも、下駄箱から廊下へと続く角で不意に現れた人影を――僕は飛び上がって回避する。

 危なっ!

 今日のお昼のことがなければ、僕は後ろに避けることができず、またも衝突事故を起こしてしまうところだった。しかしそれでも、とっさに退いた先が真後ろだったため、それまで会話をしていた烏山さんの胸元に背中をぶつける形となる。

「ふぐっ」

 まさか自分に背を向けた人物が、その直後に後ろ向きに突進をしてくるとは思わなかったのだろう。烏山さんは僕のその身体から、情けない声を上げた。

「ご、ごめん――」

 ――烏山さん、と言いかけて、僕は向こうから出てきた人物の存在を思い出す。そうだ、この場にはもう僕たち以外の人間がいるんだ。

 僕が前方へ顔を向けても、そこにいた人物は自分からとっさに飛びのいた目の前の女子生徒には一瞥もせず、むしろその後ろ側にいた生徒、烏山さんの方へと声をかけた。

「悠。まだ残ってたのか」

「・・・・・・邦彦」

 ぼそり、と烏山さんが呟く。そして彼女は一瞬だけ考える素振りをしてから、

「うん。烏山さんが片付け当番だったんだけど、大変そうだったからそれ手伝ってて」

 と、とっさに嘘をついた。一つの質問に答えつつも、僕と一緒にこの場にいることの説明も兼ねた返事をするだなんて、さすがに機転が利いている。

 烏山さん、という名前が出て、ようやく邦彦は傍に立つ僕へと目を向けた。そして僕をたっぷり三秒ほど見つめてから、また視線を烏山さんへと戻した。

「悠と烏山って、そんなに親しかったのか?」

 その言葉に、

「うん」

 と、頷く僕。

 ・・・・・・あ。

 ――また、楡木悠として会話に入ってしまった。

 僕の背中から<嫌な感じ>のオーラを感じる。そのオーラの主、烏山さんが笑いながら言った。

「それがさ、実は烏山さんって凄いノリが良くってさ、面白い子なんだよ」

 顔で笑ってはいても、心では笑っていないことが僕にはひしひしと伝わっています・・・・・・。

 邦彦は烏山さんの言葉を受けて、「そうか」と頷いた。

「確かに今日のお昼も、岩槻とも普通に話していたな」

 そう言ってから邦彦は、

「悠が最近雰囲気変わったのも、もしかして烏山の影響か? なんだか今まで以上に・・・・・・妙に外交的になったというか」

 と瞳を細めた。・・・・・・邦彦って、こんなに鋭いやつだっけ。

 それは――と烏山さんが言いかけたところで、邦彦の表情がハッとした。

「いけない。会長に呼び出されていたのだった。それではまた明日だ。悠、烏山よ」

 そう言って、邦彦は僕たちの横を通り抜けていく。彼の言っている通り、これから生徒会の仕事があるのだろう。彼はその如才なさを買われて、一年生のときからすでに副会長の座に着いていた。

「忙しいやつだなあ」

「そうね」

 僕の呟きに、烏山さんも頷く。

 そこからは、お互い沈黙のままに二階にある僕たちの教室まで歩いた。烏山さんと言葉は交わさずとも、僕は先の彼女とのやり取りに思いを馳せていた。

 去年のマラソン大会について、烏山さんが何の話をしたかったのか、実は僕には見当がついていた。

 ――<マラソンぱいぱい>と、一部の人は呼ぶ。

 去年のマラソン大会で、とある一年生の女子が長袖のジャージを着ずに、半袖の白体操着のまま走ったことを揶揄してそう呼ぶのだ。僕は下卑た笑みを浮かべてその呼称を用いる人の事を想像するだけで、虫唾が走る思いだった。

 秋とはいえ、十一月の下旬に行われるそれは、日によっては凍てつくような寒空の下で走ることになる。去年がそうだった。誰も、半袖で走る生徒などいなかった――彼女を除いて。

 ゴール前には校庭をぐるりと一周走ることになっている。男子の殆どが校庭脇で休んでいると、ソレは現れたという。

 汗で張り付いた体操服は、その上半身の輪郭と下着の色を浮き彫りにし、14キロもの走行による疲れからかフォームの崩れた身体は、胸部の豊かさをより強調するかのように弾んでいた。もはや十八禁なのではと思えるほどに蠱惑的な肉体美を見せつけた女子生徒――小田原ゆきの姿は、その場にいた多くの生徒に目撃されており、結果として小田原さんは、入学後半年余りにして、校内一の知名度を誇る有名人となった。

 この高校に生徒会長の名前を知らない生徒はいても、小田原ゆきの名前を知らない生徒はいない。

 僕はマラソン大会当日、諸事情により校庭を走る小田原さんのことは見てはいないのだけれど、見なくて良かったとも思っている――その時の小田原さんを眺めながら嫌らしい嘲笑を飛ばしている観客たちを目の当たりにしていたら、僕は自分で自分がどうなってしまうのか分からない。

<どうしてジャージを着なかったの?>

 ゴール後に、小田原さんに駆け寄ってそう訊ねた女子生徒に、彼女は笑いながらこう答えたという。

<代謝凄くて。走るとすぐ汗かいちゃうから、ジャージいらないんだよね>

 あの日から、小田原さんのことを<淫乱>だとか<ビッチ>だとか呼ぶ生徒が現れ始めた。おそらく、彼女が異性へのセックスアピールとして、あのような奇行に走ったと勘繰ったのだろう――本当は、そんなわけないのに。

 現在僕の隣を歩く彼女――烏山さんもそんな風に影口を叩くうちの一人だ。僕は、僕の大好きな小田原さんが誰かからそんな風に言われているのを聞くだけで、とても嫌な気持ちになる。烏山さんには烏山さんの事情があるのだろうけれど、それでも嫌なものは嫌だ。

「あのさ」

 なので、僕は教室に入る手前で烏山さんにお願いをした。

「僕の前だけでいいから、小田原さんの事を酷い呼び方するの、やめてくれないかな」

 あまり弱弱しく言おうものなら、弁の立つ烏山さんに言い返されてしまいそうなので、僕は真剣な表情できっぱりと言い切る。それが奏功したのか、彼女は素っ気なくも頷いた。

「・・・・・・うん、いいわよ」

「ほんと? よかった――」

「――けど、ついでにこっちからも一つお願いしようかな」

 ・・・・・・まただ。

 烏山さんはその気性に反して、僕からのお願いはすんと受け入れてくれる。けれど、その見返りとして僕の方にも何かしらの要求をしてくるのだ。

「あたしが宣言したように、今週中にあのビ・・・・・・」

「ビ?」

「び、美女と放課後デートまで漕ぎつけたら、あなたがいつからあの子のことを好きなのか教えてよ」

 ビッチから転じて美女へと呼び名が変わるとは、これが登山だったら高山病になること間違いなしの高低差だった。しかし、烏山さんがきちんと僕との約束を守ろうとしてくれていることは嬉しかった。

 けれど、そのお願いの意図するところは僕にはわからなかった。

「どうしてそんなことが気になるの?」

「ただの恋バナよ。女子はそういうの好きなのよ」

「恋バナねえ・・・・・・」

 確かに、僕に恋する女の子がいたとして、その子のことをいつから好きなのかを誰かに話したりすれば、それはもう立派な恋バナというやつなのだろう。しかし、そういうのって普通きちんとした友人同士で共有し合うから意味のあるものなんじゃないのかな?

 けれど、彼女の言う通り女子がそういう秘密話を好むのだとして、今までそういった機会に恵まれなかった烏山さんのことを思うと、そういった恋バナを聞けるチャンスを恵んであげたいと思うのもまた人情だった。

 それにしても、身体の入れ替わった初日ならいざ知らず、今となっては僕は烏山さんの人間性をある程度知ってしまっている。彼女は面倒見も良くて、その気になればカーストの高い同性とのコミュニケーションだって満足に行えるのに、どうしてこれまでそういった友達を作ろうとはしてこなかったのだろう。

 自らが黒魔術師であることを隠すためかとも思っていたけれど、そのことは隠そうと思えばいくらでも隠し通せるもののような気もする。

「なに、あたしには聞かせられないようなタイミングで好きになったっていうの?」

 別の考え事をしているというのに、烏山さんからそんな風に怪しまれた。僕はかぶりを振って答えた。

「いや、そういうわけじゃないんだけど、でもまあ、いっか。うん・・・・・・いいよ」

「本当に?」

 やった、と小さくガッツボーズをする烏山さん・・・・・・この子はこんなにも他人の恋愛話に飢えていたというのか。

 僕は心で涙を拭いつつ、烏山さんに言った。

「僕の身体なんかを操作して、小田原さんと放課後制服デートだなんて、そんな素敵なことが今週中に本当にできるっていうんならね」

 

 ■


 金曜日の放課後、僕が帰り支度をしているときのことだ。

「楡木くん」

 そろそろ、その名前を耳にしても身体を反応させないようにする癖がついてきた僕だったけれど、この時ばかりは反応せざるを得なかった。

 声のした方向に顔を向けるとそこには小田原さんがいて、彼女は僕に向けて――否、僕の身体を操作している烏山さんにむけて、にっこりとほほ笑んでいるのだった。

「じゃ、行こっか」

「うん」

 同じようににっこりとはにかんだ烏山さん(身体は楡木悠)が、小田原さんに連れられてそのまま席を立つ。そのまま二人は手でも繋いでしまうんじゃないかと思えてしまうような距離の近さで、教室を出た。


 ――嘘でしょ・・・・・・。


 それからは、悶々とした土日を過ごした。

 烏山さんから引き継いだ情報によると、彼女のお父さんは週末にも仕事で家を空けるような労働環境で、お母さんの方は習い事のヨガフィットネスジムや友人とのデイキャンプなどのアクティブさにより、それぞれ家にはいないことの方が多いらしい。友達もいないのにそんな家庭環境で寂しくはないのか、と余計な心配も浮かんだが、おそらくそういう余暇を使って魔術の鍛錬をしてきたのだと思うと納得もできた。

 おかげで僕は、<他人の家族とお出掛け>といった気まずさ全開のイベントを回避できているわけだけれど、ダラダラと過ごせてしまう分、余計頭の中に募るものがあった。

 一体どんな手段を使ったのか、あの子は。

 そんなこんなで月曜日の朝。半ば待ち伏せのようにして校門脇に待機していた僕は、呑気な顔をして邦彦と話していた烏山さんを見つけるなり、アイコンタクトで呼びつけた。

「なによ。せっかく楽しくお喋りしてたのに」

「それは悪かったけど――でも、そんなことよりも先週の話さ。どうやって小田原さんとあそこまで仲良くなれたの?」

「なんだ、そんなこと」

 と、前にも聞いたような声と表情で、烏山さんは笑った。

「普通に何度か話して、普通に意気投合して仲良くなって、普通にあのお店で新作のメニューでも食べに行こうかってなっただけだけど?」

「どれも全然普通じゃない!」

 種も仕掛けもないのに、どうして花実が咲くものか・・・・・・ドヤ顔をしている烏山さんに、僕はぐぬぬと唸ることしかできなかった。

 しかし悔しい話だけれど、プロゲーマーのような手腕で烏山さんが操作したとはいえ、行動次第ではあの憧れの小田原さんとデートをすることができるのだと思うと、楡木悠というアバターも捨てたものではないのだと、頬が緩む。

 そこで、ふと疑問が生じた。

「あれ、でもそんなに仲良くなったっていうのに、連絡先はどうやって交換したの?」

 僕と烏山さんはお互いに、それぞれ自分自身のスマホを使っている。放課後に行った友人とのスマホ上でのやり取りなどは、互いに都度共有することで学校生活での齟齬は生じさせないようにしている・・・・・・とは言っても、烏山さんは放課後もクラスの誰ともやりとりをしていないようだけど。

 しかし、僕からの質問にも、小田原さんはけろりとした調子で答えた。

「交換してないわ」

 ・・・・・・連絡先を?

「連絡先を交換もせずに、一体どうやって」

「交換していないからこそ、よ」

 と言って、烏山さんは片目を瞑った。

「あの手の女子は、連絡先を聞かれることなんて慣れっこだからね。むしろあたしは一切スマホを取り出さずにここまでコミュニケーションを取ってきた。それ故向こうはというと<この男子、どうして一向に私に連絡先を尋ねないの?>と困惑しつつも、その普通じゃなさに、新鮮なときめきを感じているのよ。ま、これは上等テクね」

 ――そんなことよりさ、と。

 退屈な授業はもうお終いよとばかりに、彼女は僕の胸を指先でつつく。はたから見たらそれは、男子から女子への典型的なセクハラに他ならないのだが、そんな姑息な指摘にも、烏山さんは今だけは乗ってくれないだろう。彼女の小悪魔めいた表情を見れば分かる。

「楡木くんは、いつから小田原ゆきのことが好きなのよ」

 やっぱり、そのことですよね・・・・・・。

 まあ、約束は約束だし。それに烏山さんは実際に小田原さんとデートをするという偉業を達成しているわけだから、ここで僕が引くわけにはいかないだろう。

 僕は観念して、ぼしょりと呟いた。


「去年のマラソン大会の日からです」

「・・・・・・変態」


 顔を歪める烏山さんを見て、僕は内心でため息をつく。

 いつから好きなのかと聞かれては、そう答えるしかないのだ。

 聞かれてもいないため、より込み入った事情を話すこともできず、渋々と変態の呼び名を頂戴する僕だった。

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