第54話 ひとりよがり

「行ってきますっ!」


 誠也せいやは自宅の玄関を勢いよく飛び出すと、急いで階段を駆け下りた。電車の発車時刻まであと6分。誠也は駅に向けてダッシュする。


 9月10日、文化祭2日目の朝。誠也は2日連続の寝不足の末、ついに寝坊した。ベッドから飛び起きてすぐにえり子にLINEをすると、ギリギリまで待っていてくれると返信が来た。


 誠也は駅に向かって走りながらも、頭の中では昨夜と同じことを考えていた。

 

 昨日、えり子は「今の関係を終わらせたい」と言った。その発言の真意は何なのか?

 

 否定的な意味合いではなく、友達という関係を終わらせて交際を開始したいという意向とも捉えられる。しかし、今の誠也にそのような前向きな考えを持つことは難しかった。先日の多希たきとの一件もある。だがそれだけではない。今の誠也には、えり子と対等に付き合える自信がない。しかも、そのような状況下でさえ、多希のことも気になってしまう。今はえり子のことを第一に考えなければいけないのに……。

 誠也はそんな自分に嫌気がさして、ますます自信を無くしていた。


 もうすこしで駅の入り口に入るというタイミングで、電車の接近を知らせるチャイムとアナウンスが聞こえてくる。誠也が階段を1段飛ばしで一気に駆け上がり角を曲がると、その先のコンビニの前にえり子がソワソワしながら立っていた。


「はにゃっ、片岡! 早く、早くっ!」


 えり子は誠也の姿を認めると、先に改札口を抜けていく。そんなえり子の後を追って、誠也も自動改札機の間を駆け抜けた。階段をダッシュで登り切りホームに着くと、ちょうど到着した電車の扉が開いたところだった。


「ギリギリセーフ! 片岡、おはよっ!」

 先に電車に乗ったえり子がひまわりの様な笑顔で振り向く。

「おは、よう……。助かっ……た」

 誠也が息を切らしながらなんとか返答する。


 扉が閉まり、電車は軽やかに走り出す。日曜日の早朝。空いた車内で二人は並んで座席に座る。


「いやぁ、間に合ってよかった~」

 誠也が息を整えながら安堵の表情を浮かべる。

「片岡、食パン咥えて走ってくるかと期待してたのに、ちょっと残念~」

「それはアニメの世界だけだろ」

 えり子の相変わらずな発言に、誠也はしかめっ面をする。

「それでさ。出会い頭に女の子とぶつかって、入れ替わっちゃったりして!」

「あのなぁ……」

 呆れる誠也の横で、ここまでいたずらっぽい表情で話していたえり子は、急に真剣な顔になる。

「うぎゃ? まさか、もう誰かと入れ替わってるとか?」

「そんなわけないだろ」

「じゃ、昨日の事、覚えてる?」

「昨日の事……」

 突然えり子にそう言われ、誠也は思わず言葉に詰まった。


(私ね、今の誠也との関係性を、もう終わりにしたいって思ってる)

 

 昨夜えり子に言われた言葉が、誠也の頭の中でリフレインする。


「はぎゃ~! 覚えてないの~?」

 大きな瞳を更に大きくしてわざとらしく驚くえり子に、誠也は慌てる。

「お、覚えてない訳ないだろ! 昨日だって一晩中、ずっとえり子のこと考えてて……」

 そこまで言って、誠也はハッとして口を噤むが、時すでに遅し。えり子は再びいたずらっぽい笑顔で続きを待っている。

 しかし、誠也はそれ以上何も言わずに、そっぽを向いた。

 

 誠也は自分でも分かるほど赤面して、頭を掻きむしりたくなる衝動を抑えていると、不意にえり子は、手に持っていたコンビニの袋を誠也の目の前に差し出した。

「ほいっ」

「何これ?」

 誠也は怪訝な顔をしながら受け取る。

「パン。朝ごはん食べてないでしょ? 学校着いたら食べて」

「あ……、ありがと」

 

 誠也は複雑な思いで受け取った袋を見つめた。

 

 ♪  ♪  ♪


 学校に着いた誠也たちは、いつも通り音楽室へ向かう。文化祭の始まる9時までは音楽室で音が出せるだが、既に大きい楽器は体育館のステージ袖に運んであるので、合奏はできない。よって9時までは個人練習となる。

 

 誠也はえり子からもらったパンで素早く朝食を済ませると、早速音出しを開始した。ウォーミングアップを始めながら、頭の中で今日のスケジュールを考える。

 

 まずえり子たちのバンド発表が11時半から12時に予定されている。それに先立って10時から機材を融通する軽音部との調整が始まる。吹奏楽部のステージは13時から14時。演奏が終わってからも16時までは他の団体のステージがあるのですぐに楽器の搬出はできず、それまでは自由時間となっている。16時から楽器の搬出。その後、17時からは音楽室で3年生の引退式。そしてトランペットパートは19時から駅近くのファミレスで3年生の追い出し会が予定されている。

 

 今日この長い一日の中で、えり子と今後の話をするには、14時から16時までの自由時間しかない。誠也は大きく深呼吸をすると、まずは音出しに集中することとした。



 10時過ぎ。誠也はえり子たちバンドメンバーとともに、体育館横に集まっていた。

「おはようさ~ん!」

 不意に背後から聞き覚えのある声がして、誠也たちは一斉に振り向く。

「あ、ヤマさん!」

 いつもお世話になっている、スタジオGalaxyギャラクシーのヤマさんが、陽毬ひまりと共に台車で音響機材を運んできてくれた。アロハシャツにハーフパンツ、おまけにサングラスという、どう見ても高校の校内には不釣り合いな恰好が見られるのも文化祭の一興だ。

 

「今日はよろしくな~」

「こちらこそよろしくお願いします!」


 挨拶もそこそこに、早速ステージの設営が始まる。吹奏楽のステージ設営はこれまで何度も経験している誠也たちであったが、いかんせんバンドの設営は経験が無く、手伝おうにもどこから手を付けて良いかわからない。

 そんな誠也たち吹奏楽部のメンバーを横目に、ヤマさんと軽音部のメンバー、そしてアイドルとしてステージ慣れしている陽毬が手際よく設営を進めていく。

 結局、誠也たちの出る幕も無く、1時間ほどで設営は完了した。


 

「あ~、緊張する~!」

 ステージ袖でキーボード担当の萌瑚もこが泣きそうな顔をしている。バンドステージの本番まであと10分を切り、メンバーの緊張は次第に高まっていった。ステージに立たない誠也と奏夏かなでさえも、落ち着かない様子でいた。

 そんな中、全く緊張を見せていないメンバーが2人。陽毬とえり子である。

 

「折角のステージなんだから、楽しまなきゃ損だよぉ~」

 陽毬がアイドルスマイルでメンバーの緊張を和らげると、えり子もそれに同調する。

「そうそう、ひまりんの言う通り! 楽しんじゃおう!」


 陽毬は中学生の頃からアイドルとして活動をしており、もう何度もステージを経験しているのだろうから、今日のステージも余裕なのだろう。一方で、えり子も吹奏楽の舞台は何度も経験しているが、バンドのステージは初めてのはずだ。しかもステージ上で一番に目立つヴォーカルでの出演。にもかかわらず、えり子からは緊張している様子が感じられない。恐らく、その緊張感を軽く凌駕するほどにストイックなレッスンを重ねてきたのだろう。

 そんなことを考えていると、誠也の中で再び強烈な不安が頭をもたげてくる。


(やはり、自分とえり子は不釣り合いじゃないだろうか?)


「誠也くん、さかなちゃん。そろそろスタンバイ、よろしくね!」

 不意に陽毬に声を掛けられ、誠也はハッとする。誠也と奏夏は記録係として、客席からステージのビデオ撮影を頼まれていたのだった。

「オッケー!」

 奏夏が元気に返事をすると、誠也も手に持っていた三脚を軽く上げて応答する。誠也がステージ袖から去ろうとすると、えり子が何も言わずにウインクした。それに対し、誠也は笑顔で軽く頷くと、奏夏に続いてステージ袖から出て行った。



 ステージ袖から客席のフロアに出ると、既に8割方の席が埋まっていた。

「あのペンライト持ってる集団、ひまりんのファンかな?」

 奏夏が興奮した様子で指をさした方向を見やると、客席の一角におそろいのピンクのTシャツを着た集団が目に入った。

「なんか、スゲーな」

 誠也も軽く目を見開いた。


 客席の後ろに陣取って三脚を開き、カメラをセットすると、程なく開演時間となった。


「それでは、お待たせしました。1年生有志によるバンド『あ~りお♥お~りお ぺぺろんち~の!!』のステージです。どうぞ~!」

 司会進行の生徒がアナウンスすると、客席からの拍手に迎えられて、えり子たちバンドメンバーがステージに入場する。

 薄暗いステージの中、センターに立つえり子が下を向いたまま、客席の拍手が落ち着くのを待つ。


 やがて会場が少し落ち着いた瞬間、えり子はパッと顔を上げ、合図をした瞬間、曲がスタートし、照明が点く。

 照明と音響はヤマさんが担当してくれている。本番前に口頭で簡単な打ち合わせをしただけなのに、完璧なタイミング。客席からも感嘆の声がどよめく。

 出だしの部分を歌い終わったタイミングで照明が更に上がると、ステージにえり子のひまわりの様な笑顔が咲く。

 

 陽毬のファンの一群がコールを入れると、えり子はあたかもそれを知っていたかのように、当たり前にレスを送る。

 そして、一般の観客も徐々に陽毬ファンをまねて立ち上がり、盛り上がっていく。

 これまで何度もスタジオでレッスンを見てきた誠也でさえも、えり子たちの魅せるステージと会場の一体感に身震いがした。


 一曲目が終わると、会場は大歓声に包まれた。


「ちょっと誠也、大丈夫?」

 奏夏が小声で誠也に声を掛ける。

「大丈夫って、何が?」

 誠也がふと我に返って奏夏の方を見る。

「だって、誠也、泣いてるから……」

 奏夏にそう言われ、誠也は初めて自分が大粒の涙をこぼしていることに気付き、驚いた。

 

「ありがと~!」

 ステージ上で観客の声援に答えながら笑顔で手を振るえり子は、誠也の全く知らないえり子だった。


 

 そこからのことは、誠也はほとんど覚えていない。頭がフワフワした感覚に襲われているうちに、あっという間にステージが終了していた。


「おー、誠也! お疲れー」

 誠也がしゃがんで三脚をたたんでいると、上から声を掛けられた。見上げると、「黒ヤギ」こと青柳あおやぎと、穂乃香ほのかだった。

「リコ、凄かったね~! 会場も大盛り上がりでさぁ!」

 穂乃香は興奮して目を輝かせている。

「あぁ、かなり練習してたみたいだからね」

 誠也は何とか平静を取り繕って立ち上がる。


「さて、今度は俺たちのステージだな」

 黒ヤギはそう言いながら拳を前に出す。

「おう」

 誠也もそれに答えるように拳を合わせた。


 ステージ上ではいつの間にか転換が終わり、軽音部のステージが始まった。誠也と奏夏がステージ袖に戻ろうとすると、会場の隅に人だかりができているのが見えた。

 よく見ると、ステージを終えたえり子や陽毬たちバンドメンバーの周りに、観客たちが集まって歓談しているようだ。


「リコ、すごい人気ね! 誠也、嫉妬しちゃう?」

 そう言ってからかう奏夏に誠也は鼻で笑って答える。

「嫉妬なんてしねーよ」

 誠也は実際、嫉妬という感情は全くなかった。えり子が遠い存在になってしまったという現実を見せつけられ、寧ろ落ち込むことすらな気がしてならなかった。

 


 誠也と奏夏がステージ袖に到着すると、既に幾人かの吹奏楽部員が集合していた。

 吹奏楽部にとっても、今日は特別なステージだ。今日を最後に3年生は部活を引退する。3年生と共にこのメンバーで立つ最後のステージ。誠也は気持ちを入れ替えて、このステージに集中したかった。

 しかし、バンドメンバーが客席フロアから舞台袖に入ってくると、吹奏楽部のメンバーも先ほどのバンドの話題で持ちきりとなった。誠也はその輪に入る気にはなれず、遠くから眺めていた。


「なんか、すっかりスターだね」

 そんな様子を見て、3年生の直樹先輩が誠也に話しかける。

「なんか、すみません」

 誠也が恐縮すると、直樹先輩は笑っていった。

「いやいや、なかなかいいものを見せてもらったよ」


 

「はい、注目!」

 暫くはえり子たちのバンドの話題で盛り上がっていた吹奏楽部員だったが、部長の友梨ゆり先輩の凛とした声が響くと、半ば条件反射で静まり、皆一斉に前を向いた。

 

「さて、いよいよ私たち吹奏楽部のステージです。泣いても笑っても、このメンバーで一緒に演奏する最後のステージです。私たちの大切にしてきた光陽サウンドを、今日も届けましょう!」

「はいっ!」

 部員たちの返事が響く。

 

「これも、最後だね」

 そう前置きをして、友梨先輩が拳をあげる。

「力を一つに! 村上光陽高校吹奏楽部、行くぞー!」

「おーっ!」

 友梨先輩にあわせ、93名の拳が突き上げられた。

 


 13時過ぎ、誠也たち吹奏楽部のステージが始まった。

 毎年、この文化祭のステージは吹奏楽部にとって特別な意味のあるステージとなっている。昨年の9月、当時の3年生が引退した後、友梨先輩たち第43期生がこの1年をかけて部を牽引してきた。その集大成を披露する場でもあるからだ。

 そのため、今年度の流行りのポップスの他にも、定期演奏会やコンクールで演奏した課題曲なども演奏する。誠也たち4月に入学したばかりの1年生も、先輩たちと共に濃厚な時間を過ごした、思い入れのある楽曲である。

 

 

 誠也はステージが進むにつれ、次第に自身の緊張が高まっていくのを感じた。

(泣いても笑っても、このメンバーで一緒に演奏する最後のステージです)

 先ほどの友梨先輩の言葉の重みが、胸を締め付けていく。

 

 同じパートの直樹先輩、彩夏さいか先輩、そして咲良さくら先輩と過ごした時間は、たったの半年足らず。しかし、誠也にはもっともっと長くお世話になっていた感覚があった。

 

(嫌だな。もっとこの先輩たちと一緒に楽器を吹いていたい……)

 

 しかし、時は無情にも淡々と流れ、いよいよ最後の楽曲となってしまった。最後の楽曲は、6月の定期演奏会でもラストに選ばれた「オーメンズ・オブ・ラブ」だ。

 

 世代交代に先立ち、この文化祭から先行して部内の係活動は1・2年生のみで行われるようになった。今日のステージで演奏する楽曲を決める「構成係」は終始混迷を極めていたが、そんな中でもこのラストの一曲だけは、満場一致で決まったらしい。

 

 いよいよラストの楽曲、ヤマセンのタクトが降りた。様々な気持ちをいったん落ち着かせるかのようにスローテンポで始まるオープニング。そして軽快なテーマへと移行していく。

 

 6月の定期演奏会でこの曲を演奏した時は、1年生を中心にステージに乗っていないメンバーもいた。7月にはホルンパート1年生の木村夏鈴かりんが退部した。そして今日、93人の部員全員が共に演奏する、最初で最後のステージ。

 誠也は熱くこみあげてくるものを抑えきれなかった。ふと横を見ると、誠也の右側でえり子が既に大粒の涙を流しながらトランペットを吹いている。

 

 一方、その反対側。誠也の左では、今日限りで引退する直樹先輩が実にさわやかな笑顔で吹いていた。まるで、もうやり残したことは何もない、後悔は何もないと言った様子で。

 

 誠也は2年後、自分もそうなっているのだろうかと考え、すぐに考えを改める。

 いや、そうなっていなければならないのだ。

 

 

 いよいよ、ラストだ。

 誠也はこれまでお世話になった先輩方への感謝の気持ちを込めて、直樹先輩と共にラストのハイトーンを吹き切った。

 

 ヤマセンの合図で全員が立ち上がると、客席は暖かな拍手で包まれた。

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