第33話 緊張の12分

 8月5日土曜日。この日もよく晴れて、朝から真夏の太陽が照り付ける中、誠也せいやとえり子はいつもよりも1時間ほど早い電車で学校に向かっていた。


「ほげ~っ、緊張するー!」

 そう言ってえり子は、座席に座ったまま、足をピンと伸ばし、踵を浮かせる。土曜日の早朝、都心から郊外へ向かう電車は、ほとんど乗客が乗っていなかった。

「いや、えり子が緊張してどうすんだよ」

 そう言って笑う誠也も、心なしかいつもより緊張した面持ちだった。

 

 今日はいよいよ、吹奏楽コンクール県大会予選の当日である。誠也たち1年生はコンクールの舞台には上がらないが、年に一度の大舞台。否が応でも緊張感が高まる。


「なんかさ、自分が出るんなら『せっかくだから今日は楽しもう!』って思えるけど、メンバーじゃないからこその緊張ってない?」

「確かにそれはあるな」


 誠也たちが音楽室に到着すると、既に多くの部員たちが集合していた。

「ほよよっ、彩夏さいか先輩、咲良さくら先輩!」

 えり子がトランペットパートの3年生を見つけて、早速声をかける。

「おはようございます! 今日は頑張ってくださいね!」

「リコ、ありがとう! 任せておいて~」

 咲良先輩が笑顔で応えた。

 

 音楽室の部員たちは学年に問わず皆、本番当日の緊張感から、テンションが高めである。そんな中、比較的いつも通りなのがまりん先輩である。

「まりん先輩、おはようございます! 今日は頑張ってくださいね」

 誠也がまりん先輩に激励の言葉を送るが、どうも本人はノリが悪い。

「まぁ、ほどほどにやってくるわ。私としては、予選で敗退してくれた方が楽なんだけどね」

 そう面倒くさそうに話すまりん先輩に、誠也はいつものことと思いつつ、呆れた表情をする。

「また、そんな憎まれ口叩いていると、そのうち刺されますよ」

「ま、そん時は苦しまないように、一思いで頼むわ」

「じゃぁ、その時は遠慮なく」

 そう言いながら、誠也はまりん先輩の腹にナイフを突き刺すしぐさをして笑った。


「起立!」

 朝8時ちょうど。副部長の香苗かなえ先輩の号令が響くと、それまで笑顔があふれ騒がしかった音楽室の空気が、一変して引き締まる。

「礼!」

「おはようございます!」

 約90名の部員たちの声が、心なしかいつもよりも大きく響いた。そんな張り詰めた空気に相応しい凛とした声で、部長である友梨ゆり先輩が話し始める。

 

「いよいよ、コンクール当日を迎えました。私たちはこれまで、十分な練習を積み重ねてきました。あとはその成果をステージ上でいかんなく発揮するだけです。私たちの真の力を十二分に発揮するためにも、まずは事故の無いように、会場入りしましょう。忘れ物があっても戻ってくる時間はありません。各自、しっかりチェックするようにして下さい」

「はい!」

「では、スケジュールは和哉かずやから」

 そう言って友梨先輩が指揮台から降りると、副部長の和哉先輩が前に出る。

「それでは、スケジュールの確認です。この後、8時半には楽器屋さんのトラックが来ますので、順次楽器を下におろして、トラックに積み込んでください。会場に向かうバスは9時に出発します。先ほど部長から話があったように、各自忘れ物の無いようしっかり確認し、準備のできた人からバスに乗ってください。何かあった際は、すぐに役員に申し出てください。以上です」

 和哉先輩からのアナウンスが終わると、朝のミーティングは終了し、早速移動準備となった。すべての楽器を音楽室からトラックまで運ばなくてはならないが、この夏、何度か野球部の応援で移動を経験している部員たちは、慣れた手つきで作業を進めた。


 9時。楽器を積んだトラックと、部員たちを乗せたバスが定刻で学校を出発する。会場までは片道2時間の道のりだ。コンクールメンバーはそれぞれ楽譜を広げ、最後の確認。コンクールメンバー以外の部員は、先輩たちの邪魔にならないよう、静かに過ごす。およそ遠足とは違う緊張感のある空気を乗せたバスは、会場まで静かに走り続けた。


 10時45分。予定より早く会場のホールに到着した。自分たちの高校がホールを独占できる定期演奏会と違って、今日はたくさんの高校が出場するコンクールであるため、予めスケジュールが決められている。受付は12時29分。パーカッションの搬入は12時34分といった具合に、分単位で指定されている。そのため、遅れることはもちろん、早くても受け付けてはもらえない。

 無事会場に到着した部員たちは、ホールの前に一旦集合する。

「ちょっと早いですが、今からお昼休みを取ります。昼食はホールの周辺で適宜摂ってください。ロビーでは飲食できません。出演者の集合時間は12時53分ですので、12時40分になったら、ホール入り口に集合してください。時間厳守でお願いします。では、いったん解散してください」

 香苗先輩の指示で、部員たちはいったん解散となった。

 

 しかし、すぐに部員たちから不満の声が上がる。この炎天下の中、ロビーには入れず、いったいどこで昼食を摂ったら良いのか? と。

 結局ヤマセンが乗ってきたバスの運転手さんにお願いして、バスの中で昼食を摂ることになった。

 


 12時40分。昼休みを終えた部員たちがホール入り口に集合した。皆、先ほどとは違って、その表情には更に緊張感をまとっている。村上光陽高校の演奏は13時34分から。既に本番まで1時間を切った。

「各パートリーダーは、点呼をとって報告に来てください。その際、出演者章を配ります。出演者章を受け取ったら、左肩につけてください」

「はい!」

 うだるような暑さの中、部員たちの周りだけ張り詰めた空気感が漂う。そんな空気の中、「村上光陽高校」と書かれたプラカードを持った他校の生徒がホールから出てきた。会場内で進行をサポートするボランティアだ。

「村上光陽高校の生徒さ~ん! ここからは私が案内しますので、指示に従ってください」


 ほぼ定刻で、村上光陽高校のメンバーはホール内へと案内された。出場メンバーから案内され、誠也たち1年生も後に続く。炎天下の入り口から冷房の効いたホール内へ入ると、まるで天国の様だ。

 まずはリハーサル室に通される。ここで本番前の最後の音出しをする。

「リハーサル時間は13時23分までです。時間になったらまた迎えに来ますので、それまで音出しをおねがいします」

 そう言って、ボランティアの生徒はリハーサル室を出て行った。


「今から15分まで各自音出ししてください」

 副部長の指示で、本番前最後の調整が始まった。誠也たちは壁際でただ本番の成功を祈るばかりだった。


「はい、音出し終了!」

 13時15分。和哉先輩の声が響き、楽器の音が一斉に止む。リハーサル時間を8分ほど残し、音出しは終了。ここから村上光陽高校伝統の儀式が始まる。まずは部長の挨拶。


「さぁ、いよいよ本番です」

 友梨先輩がいつもと変わらず凛とした声で話し始めると、部員たちの緊張はさらに高まる。

「……ちょっと、みんな硬すぎだよ。そんなに怖い顔してたら、またリコが泣いちゃうよ」

 そう言って友梨先輩が微笑むと、突然名前を出されたえり子が、大きな瞳を更に目を丸くする。

「はぎゃっ!」

 それを見た部員たちが俄かに笑い出す。

「泣いても笑っても、本番は1回限り。肩の力を抜いて、演奏を楽しみましょう!」

「はい!」

 リハーサル室内にたくさんの笑顔が咲く。


「はい、部長! 私からもいいですか?」

 突然、副部長の香苗先輩が手を挙げる。

「はい、香苗。どうぞ」

 香苗先輩はその場で部員たちの方を向いて、話し始める。

「実は今日は、我らが部長・友梨の誕生日です!」

「お~!」

 部員たちが更に活気づく。

「いいよ、そう言う個人的なことは」

 友梨先輩が驚いて、珍しく慌てた表情をする。

「時間が無いので、バースデーソングは歌いませんが、みんなで拍手~!」

 香苗先輩がそう言うと、皆、思い思いに祝福の言葉をかけながら拍手を送った。

「なんか、すみません、ありがとう」

 友梨先輩が珍しく頬を赤らめていた。


「さて、それでは。そろそろ時間なので。力を一つに! 校歌斉唱!」

 定期演奏会の本番前と同様、友梨先輩の号令で校歌の斉唱が始まった。村上光陽高校の伝統。この場で皆で校歌を歌うことによって、歴代の先輩たちのパワーも借りられる。校歌を歌いながら、誠也はそんなような気がした。

 校歌が歌い終わると、拍手が起こる。そして、友梨先輩が恒例の掛け声をかける。

「村上光陽高校吹奏楽部、行くぞー!」

「おー!」

 

 時間になり、プラカードを持ったボランティアの生徒がリハーサル室に戻ってきた。

「村上光陽高校の皆さん、移動します!」

 リハーサル室に入ってきた時は緊張した表情であった部員たちが、リハーサル室を出るときには自信に満ちた笑顔へと変わっていた。


 舞台袖に入る。誠也は、想像していたよりも随分と静かなことに気が付いた。舞台袖に来てもステージの演奏の音が聞こえない。通常であれば、ステージでは前の高校の生徒たちが演奏をしていることがい多いが、今年、村上光陽高校の出演は、昼休憩を挟んで午後の1校目だ。そのため、この時間ステージは空いている。本番直前に他校の演奏を聞いて、変なプレッシャーを感じるよりは良いととらえるべきだろうか。


「村上光陽高校のみなさん、ステージへどうぞ」

 定刻でステージへ案内された。

「頑張ってください!」

 誠也たち1年生は、ステージ袖で最後の激励を送る。トランペットパートのパートリーダー、直樹先輩がサムズアップで応え、ステージへ上がっていった。


「お待たせしました。9番。村上光陽高等学校」

 会場内にアナウンスが流れ、ヤマセンが指揮台に上る。


 タクトが降りると、軽快なオープニングが始まる。与えられた演奏時間は12分間。この12分間で課題曲1曲と、自由曲1曲の計2曲を演奏する。課題曲と自由曲の間の時間も含めて12分間。これを1秒でもオーバーすると、どんなに素晴らしい演奏でも審査対象外となる。

 

 舞台袖からステージを覗く誠也の横で、えり子が誠也の半袖シャツの袖口をギュッと握る。誠也も緊張の面持ちでステージを見守っていたが、いつも通りの演奏をする先輩たちの姿を見て、次第に緊張がほどけていった。ふとえり子の顔を見る。えり子も誠也の視線に気づき、目が合うとお互い安心したように笑顔を交わした。


 演奏開始してまもなく、ステージ袖には次の高校の生徒たちが入ってきた。誠也たちは邪魔にならぬよう、ステージ向かって左側の下手しもて側から、ステージ裏を通って右手の上手かみて側に移動した。


 緊張の12分間は本当にあっという間に過ぎた。演奏を終えて全員が起立し、ヤマセンが礼をすると、会場内に拍手が響いた。


 ステージを降り、楽器を再びトラックに積み込み終わると、時刻はおおよそ14時半となっていた。審査結果の発表は16時28分から。誠也たちは審査結果発表まで、ホールで他の高校の演奏を楽しむことにした。


 ♪  ♪  ♪


 16時半。すべての高校の演奏を終えたホールは、審査結果を待つ高校生たちで独特の緊張感を帯びていた。誠也たち村上光陽高校の部員たちも、手に汗を握りながら発表を待っていた。

 予定より少し遅れて、審査結果の発表が始まった。ステージ上には各校の代表者が並んでいる。村上光陽高校からは部長の友梨先輩と、副部長の和哉先輩がステージ上に立っていた。

 

 審査員の講評に続き、いよいよ審査結果の発表だ。

「これから各出場校の審査結果を発表します。なお、金賞と銀賞は聞き取り間違えの無いよう、金賞の場合は『ゴールド金賞』と発表します」

 簡単な説明の後、いよいよ審査結果の発表が始まった。1校ずつ結果が発表されるたびに、歓声や悲鳴がホール内に響いた。


 吹奏楽コンクールでは演奏時間オーバーで失格とならない限り、金・銀・銅いずれかの賞が与えられる。出場団体の半数以上が金賞を受賞することもあり、銅賞となるケースは少ない。つまり、金賞だからと言って1位とは限らず、同様に銅賞は3位ではなく、ほぼ最下位に近い。

 一方、今日は県大会の予選であるため、今日の出場校の中から本選への出場校が選出される。出場校は金賞受賞校から選ばれるが、裏を返せば金賞を受賞したからと言っても、必ずしも本選にコマを進めることが出来るとは限らない。金賞を受賞しつつも上位の大会に選ばれないことを、俗に「ダメ金」と言う。吹奏楽関係者以外からすると、随分と珍妙な表現である。

 

 ステージ袖で先輩たちの演奏を聴いていた誠也は、恐らく金賞は固いだろうと考えていた。しかし、何事も「絶対」ということはない。結果発表が始まってから、えり子は祈るような気持ちで誠也の左腕をずっと握っている。


「9番、村上光陽高校」

 

 一瞬の間があり、誠也はツバを飲み込んだ。

 

「ゴールド金賞!」


 その瞬間、誠也の周りの部員たちは歓声を上げたが、誠也はとりあえずホッと胸をなでおろすにとどめた。えり子と目が合うと、えり子も先程とそれほど表情を変えず、頷いた。えり子も誠也と同じ考えのようだ。目指すところは本選出場だ。


「続きまして、本選大会への出場校を発表します」


 高校の部の県予選は昨日、今日の2日間で行われた。昨日も各賞の発表は行われているが、本選出場校は2日間の金賞受賞校の中から選ばれるため、発表は1日目の出場校も含めて今日行われる。


「1日目、4番……」

 本選出場校が発表されるたびに拍手が起こるが、1日目の出場校は代表者しか会場内にいないため、大きな盛り上がりにはならない。

 

「続いて2日目。1番……」

 2日目の出場校の発表になると、大歓声が響く。発表順が近づくにつれ、誠也も思わず拳に力が入る。


「9番、村上光陽高校」


「よし!」

「はぎゃ~!」

 発表の瞬間、誠也はえり子と手を取り合って喜んだ。

「片岡、本選出場したよ~!」

 既にえり子は大粒の涙を流している。冷静に考えれば、出場したのは先輩たちなのだが、やはり自分の高校が本選出場を果たしたことは、もちろんうれしい。誠也は素直にその喜びを分かち合った。


 表彰式が終わり、この日はそのまま解散となった。明日は朝から楽器の搬入、そして来週12日土曜日の本選大会に向けて、練習が再開される。

 誠也たち、村上光陽高校吹奏楽部の夏は、まだまだ続く。

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