第5話 非常階段

 校舎裏の非常口につながる階段。

 そこに座って、おにぎりを頬張っていた。

 そして母の言葉から何度目かの、回想を終えた。

 長くて、でも時間にしたらほんの少し――私の半生なんて、そんなものだった。


 麻衣、今度こそ、もうだめかもしれない。

 あれから、まだぼんやりとしている。悲しい、といえば悲しいような、不安定な気分をずっと抱えていた。

 そんな状態で数日、あの日母と乗ったのと進路逆の電車に揺られて、私は学校まで来ている。

 コンビニで買ったおにぎりは暑い日でも、どことなし冷えていた。

 私は練梅より、カリカリした梅の方が好きだ。練梅のおにぎりを頬張りながら、思った。

 家を出る前の母の顔を、私は覚えていない。キッチンに向かってテーブルに一人、重く座っていた。いつも何かしら、忙しなく動いている母の背中を、久しぶりにちゃんと見た気がした。行ってきますの言葉は、届いたろうか。

 お母さん、大丈夫だろうか。

 不意に浮かんだ言葉を、慌てて打ち消した。うすら寒くて、気持ち悪かった。

 

「何食べてんの」

 

 ふいに私の背に、声とそれなりの重さが乗っかってきた。

 思わず咀嚼もまばたきも止めると、重みは私の首元に手を回した。茶色のカーディガン。オーバーサイズ気味で、だぼついたそれから伸びる細い手首が、目の前で交差させた。

 

「汐里」

「私にもちょうだい」

 

 振り返れば、大きく開いた口が至近距離で目に入る。伸びた唇に塗られたグロスが、きらきら光っていた。

 

「ん」

 

 おにぎりを持っていた手を、その口にめがけて伸ばす。すると、頭を下げて、汐里はそれにかぶりついた。

 

「うー、すっぱい」

 

 口をもぐもぐ動かしながら、汐里が顔をしかめ、高い声でうなった。私は、一口半くらい減ったおにぎりを見る。グロスが移って、断面が薄いピンク色に光っていた。見ないふりをして、自分の口へと運んだ。言うほど酸っぱくはない。

 

「どうしたの」

「由衣がいないから探してたの」

 

 よっぽど酸っぱかったのか、私の背中に頭をぐりぐり擦り付けながら、言う。

 

「ふうん」

「一緒に食べようと思ってたのに」

 

 ほら、と一度体を離して、汐里は私に白の袋を見せた。よく見るコンビニの名前が書いてある。おそろいだな、と何となく思った。


「うーん」


 汐里は隣に座るが早いか、デニッシュのパンを袋から取り出す。勢いよく頬張って満足げにうなる。

 うなるというにはずいぶん可愛らしい声だ。最初聞いた時は、わざとやってるのかな、と思ったけど、このテレビの食リポみたいなリアクションが、汐里の通常だった。おいしそうに食べるね、と言ったらおいしいもんと返してくる。

 汐里のそういうところが、結構好きだ。私もまた一口おにぎりを頬張った。

 

「でさぁ」

 

 しばらく、互いに食事に集中していたら、汐里が急に話を切り出した。パンを頬張ったままの口で、発音が不明瞭だった。「さ」が「は」の音と混じっている。

 

「何?」

「ん。なんかあった?」


 手で口元を押さえながら、パンを飲み込むと、汐里は私を見てそう尋ねた。汐里の目は、さっきまでのふわふわしたものとは違って、真っすぐだった。


「何か?」

「うん。なんか、由衣、最近元気ない」


 聞き返せば、間をおかず答えて、またパンを一口頬張る。私は、何となくぎくりとして目をそらした。虚を突かれたというか、胸が重苦しいような、そんな感覚が落ちる。

「うん、まあ」

「やっぱり。……大丈夫?」


 私はとっさに言葉を濁した。汐里は私をじっと見ていた。

 でも、何も聞かなかった。私は、その事にいたく安堵とした。


「うん。まあ、たぶん」

「そっか」


 気まずくなって、口の中に含んでいたおにぎりが、薬みたいな味になる。汐里は、口をもぐもぐさせながら、カフェオレを一口含んだ。ごくん、と喉を通り過ぎる音が、つっかえてずいぶん大きく聞こえた。


「ありがと」


 ここでお礼を言う自分がずるいと思った。

 もやもやとした気持ちが胸の中でずっと渦巻いている。かと言って、ごめん、という殊勝な気持ちにもなれない。それでも吐き出す勇気はなかった。

 とにかく、話を終わらせてしまいたかったのだ。



「そろそろ戻ろうか」


 食べ終わってからもほとんど無言だった。予鈴がもうすぐ鳴りそうで。教室に戻ろうと立ち上がった。


「由衣」


 その時、先に階段を降り始めた私の背に、汐里の声がぶつかった。振り返れば、汐里が私を見ていた。ごみを後ろ手に隠すように立っていて、きれいに整えられた眉が下がっている。

 いつもの汐里と違う顔。


「いやになったら、言ってね」


 私は、汐里の目を正面でとらえた。レモンティーみたいな色の瞳は確かに私を真っすぐにとらえていた。

 心配、不安――そんなものにゆらゆら揺れている、そんな気がした。

 そんな汐里に、どう答えたものだろう。私は正しい返し方がわからなくて、ぎこちなく口角を吊り上げた。


「わかったよ」


 ありがとう、そんな風に答えて、教室に戻った。

 汐里は隣のクラスへ帰っていった。小さく手を振って、去っていった汐里の後姿はふわふわと頼りなさげに見えた。

 いやになったら。

 ――何に?

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