第2話 惣菜
「お姉ちゃんは、いたくて病院にいるんじゃないのに、なんてひどいこと言うの!」
ある日、母が私をぶった。姉のいる白い部屋に行くのを
「めんどうだからやだ」
と渋った時の事だった。
首が吹っ飛んでいくような張り手だった。
さっきも言ったけれど、私は病院が嫌いだった。それにその日、私は幼稚園の友達に遊びに誘われていたのだ。なのに、断らされて、へそを曲げていた。
姉が白い部屋にいる時は、大抵私は母と一緒に行かなければいけなかった。特に何か私に出来るわけでもないのに、意味も教えてくれないのに、強要され続けるそれに、もうかなりうんざりしていたのだ。
母親の剣幕に私は呆然とした。はっきり言って、何が起きたのかよくわからなかった。
ただ、自分が何かを間違えた、ということだけはわかった。その何かを、私はすぐ理解することが出来なかった。思考が途切れて、道に迷ったような心地がした。
母は、私が答えをなにかしら出す前に、背を向けて部屋を出て行った。
ドアと鍵の閉まる、乱暴な音がそれを告げた。
私は取り残されたのだと思った。
実際はただ、母は一人で病院に向かったのだが、そのときは捨てられたと思った。
帰ってきてからも、母はずっと私に怒っていた。
そして当分、私という存在を無視した。全身から出ている空気は湯気みたいに熱くて、電気みたいにぴりぴりしていた。
「ごめんなさい」
怖くて、私はよくわからないままに謝った。それは反射といってよかった。
けれど母は、私を見てもくれなかった。聞こえていないように通り過ぎて、手を洗って、家のことをしていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
私はただおろおろとして、母の周りをうろちょろついて回っては謝った。そしてそのたび無視された。それを何度も繰り返していた。
そんな調子でも、不思議なことにご飯は出た。近所の惣菜屋のもので、そこはご飯も一緒に売ってくれていた。パック詰めされたそれを乱雑に置いて、母は出ていった。
最初は意味がわからなかったし、食べていいのかわからなかったから、我慢していた。
すると、母が帰ってきた。私は母に駆け寄るが、母は、まとわりつく私を払うように進んで、テーブルの上に置きっぱなしのそれを見た。
忌々し気な唸り声と共に、それはゴミ箱に投げ込まれた。
それで、私はそれを食べなければいけなかったと気付いたのだ。
以降は毎日、私はそれを食べた。子供には多い量だったけど、なんとか飲み込んだ。
今でも私はあのパックに入った緑の菜っ葉や、マヨネーズのかかった肉の絵面を覚えている。味は覚えていない、というか糊を食べているような記憶しかなかった。この時から少しして、気まずい思いと共にそれらを食べた時、普通においしくて驚いた。
けれど、私は今でもあの惣菜が大嫌いだ。
しかし、そんな私の気持ちなどつゆ知らず、あの惣菜には、今でも頻繁にお世話になっていた。母はこれを気に入っているのか、病院、またはパート帰りによく買ってくるのだった。
何も、母の料理が食べたいと言う気はない。けれど、重ねて言うと、私はこれが大嫌いだ。
あの苦い記憶を、いやおうなしに、思い出させるから。それも私だけではなく、母にまで。
「あんたあの時ひどかったわよねぇ」
母は、惣菜をつまみながら、にじったような笑みを浮かべて言う。
あの時とは、私の過ちを許してもらった日の事だ。
母は私に怒りながらも、ずっと出かけていて、いつも慌ただしく家のあちこちのドアを開閉していた。私は家に一人で、右往左往していた。外にだって出られたけれど、家にいた。母が家に帰ってきて顔を合わすたびに謝った。それでも、ちっとも許してもらえなかった。
「ごめんなさい」
ぶたれてから数日たったころ、母はその日も、あれこれと支度をしていた。
「おかあさん、もういいません。ごめんなさい」
「望み通り、放っておいてあげてるでしょ」
私の顔も見ず、冷たい声でそう言った。
その言葉の威力はすさまじく、私は異様に怖くなった。恐怖を持て余して、泣き出した。そんな私をよそに、母は、洗濯物を鞄に詰め始めていた。
「ゆるして! ごめんなさい!」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
私はそんな母に縋り、何度も何度も叫び謝った。これで許してもらえなければ終わりだ、と思った。何が終わりかもわからないが、とにかく怖くて泣きわめいた。
それでも母は、返事をしなかった。怖くて悲しかった。悲しさも泣き疲れて流れ、悲しさの残骸に縋り始めたころ、母は、長くて唸るようなため息をついた。
「あんたは本当にしかたない子ね」
でもまあ、しかたない、もういいわ。
そう、言った。
「本当に、あんたはしかたないわよ」
あの惣菜を食べると、いつも、母は気紛れにあの話を持ち出して、私に聞かせる。
私が毎度忘れていると思っているらしい。
「おかしい人みたいにわめいてたわよね。わかってないくせに」
あの時みたいに、冷たい響きを持っているときと、笑い交じりでからかっている様なときと、多種多様に、私のあの時の様子を、飯の追加のオカズに話すのだった。
「本当にあんたって、根がつめたいのよねえ」
だから嫌いだ。一人で食べる分には、まあ気分の悪さも半減して、味がわかるが、それでも吐き気がした。
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