(上)

第1話

 狂気か、はたまた悪夢であろうか、安田道夫やすだみちおは、二人の人間――男と女――を亡骸に変えたことがある。

 もともと、常人の考える秀でた才能というべきものは、彼になかったのだが、かわりに、一般的なそれとは、いっぷう変わった、いくぶん危険な香りのする道楽にふけっている時期があった。あれはいつからであろう。その記憶が鮮明かはともかくも、自分たち人間を除いては、ありとあらゆる身近な生き物について、図鑑ずかんから知識を吸収しながら実験に使っていた。

 小学校低学年の時分だと思う。これまでに、何百、何千というそれぞれの個体における特徴をおぼえた。ところが、結果として、通知表で理科がどうかなったわけではない。むしろ、学校の成績はおうおうにしてわるかったのである。彼は、本に書かれた情報をおぼえることこそはやかったけれど、一度実践に使った手は、一から十まで、そっくりそのままわすれてしまうのが常だった。たとえるならば、祝宴かなにかではじめての料理に挑戦して、それを今後、ふたたび作るようになるか、あるいはもうあきてしまったりしてやめてしまうのか、という心持に似ている。

 読者諸君がこれを「たちのわるい冗談だ」とでも思って、はやばやとこの紙を廃棄してしまわぬよう、ここらでその道楽とやらを記そう。

 生き物殺しの趣味は、けして誰かに向っていえることでもなく、殺した二人にだって、とうとう話をせずに、あの世へ葬ってしまった。しかし、もし仮に彼らが生きていたとして、罪を告白するだろうか。ことによると、彼らとの関係をさらに深刻化させる恐れもあったというのに。

 されど、虫などの下等生物がもだえながら死するさまは、彼にとって楽しかった。生物に対する異様な執着は、やはり、この邪な遊びをするために意味があったからで、人間に限定すると、第一法律があるし、人体の仕組みが理解の範疇はんちゅうを超えていたから、さっぱり殺そうとはならなかった。ここまでで、生物をほふるのに知識なんていらない、というお考えのかたも多かろうと容易に推測できるが、もっとも、彼は生物を楽に殺す方法を、毎日思案しているのだった。

 ちなみに、父は玉木たまきという肥満体の男だ。富と名声をもつ有名人だが、とはいえ、なんといっても人格に問題をかかえていた。思うに、道夫の残虐性のすべてがこの男にあると見て、先ず間違いないだろう。けれど、そんな父親を殺してから、たびたび彼に感謝することもある。莫大な遺産が手に入ったのだ。たったこれだけのことで金持ちになれるとは、と月日がたった今でも、おどろおどろしい幽霊に出会ったかのように、驚いてびくびくしてしまう。それでいて、この男の友人が大学の学長をやっていて、成績がよくない彼を見かねて救ってもらったのだから、大学生になれたのは、まさしく父のおかげであった。

 一方で、母はろくでなしである。糸子いとこという、夫とは対照的で静かな人であった。玉木と結婚したのは、愛だとかのロマンス云々ではなく、遺産と裕福な暮らし、それに仕事をしたくないという願望があったからである。実際、彼女は二十一、夫は四十三歳で亡くなったのだから、現実に二十二歳も年がはなれていると美談の雰囲気さえ感じられるが、今回の場合、計画的な犯行ともいえて、面白いものではなかった。

 こうした状況で彼は生まれた。とすると、彼がああいう奇行に出るのも、不可思議なことだといえぬのではないか。

 もちろん、両親の間柄は必ずしもよい方向へと進まなかった。

 

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